達谷西光寺(達谷窟毘沙門堂):岩手県平泉町平泉北沢16
毛越寺(常行堂):岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢58
七月末に三陸の女川に出張が決まり、再び岩手へ。今度は内陸部に向かうことにした。行き先は平泉、そして遠野だ。
平泉といえば奥州藤原氏三代、中尊寺金色堂、毛越寺の浄土に見立てた庭園、源義経最期の地であり、芭蕉が"夏草や“の句を詠んだ高館の義経堂といったところだろう。が、いずれも語り尽くされた感があって、書く方もおもしろくもなんともない。というわけで、極私的平泉の聖地二題を記しておく。
当地は二度訪れているが、いずれも修学旅行で、かれこれ四十五、六年前になる。いまも朧げに脳裏に残るのは、厳美渓の急流、中尊寺金色堂前の坂、毛越寺の庭園くらいで、何を学ばせたくてこんなところに連れてくるのかと口を尖らせていた。当時の鬱屈を思い出す。
平泉の入口、厳美渓から達谷西光寺(たっこくせいこうじ)へは、閉門30分前に着いた。拝観料を納めて鳥居をくぐる。ここは懸造り好きには夙に名の知れたところで、巨大な岩壁の下に半ば食い込むように毘沙門堂が建つ。境内にひとり佇み、懸造りの堂を仰ぐ。ヒグラシの啼き声が谺する中、微かに読経の声が聞こえてきた。
堂の中に入っていくと住持が本尊の前に坐し、一心不乱に経を唱えている。どこか似たような場所があったと記憶を探ってみる。熊野の古座川あたりだ。一枚岩のようなスケールではないが、虫喰岩のありようによく似ている。この場所を聖地たらしめているのは、やはりこの岩窟である。巨岩は人々の心を揺さぶるのだ。それは宗教が確立する以前からある人類に共通するメンタリティだろう。寺伝に創建は坂上田村麻呂によるものとあった。縁起を要約しておく。
信州小諸の布引観音をとりあげた際にも触れたが、岩と水あるところに懸造りの堂舎はつきものだ。(参考*1)毘沙門堂の前にも蝦蟇ヶ池という湧水池があり、慈覚大師の伝承に由来する辨天堂が建つ。境内には閼伽堂もあり、岩と水という条件は揃っている。だが、ここは当地に仏教が伝わる遥か以前から畏怖された聖地ではなかったか。弥生時代の洞窟をいくつか訪ね歩いたことをベースに考えてみると、おそらくこの窟には遅くとも農耕開始前後から人の生活があり、一帯を統率した一族が住んでいたと思われる。そこはやがて葬地に転じ、時代が下って祖霊を祀る場に、そして畏怖と祈りの場になっていく。そうしたところだからこそ、坂上田村麻呂のような英雄や、慈覚大師のような聖人の物語がまつわってくるのだ。
毛越寺の裏手にある温泉宿に投宿し、寺務所でもらったリーフレットを読んでみた。「御堂床下の廣い空間は、昔から諸國行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の休める安住の宿として、また合戦に敗れたものヽふが暫し身を隠し、しかる後生まれ替わって行く再生の場として、さらには祖先の霊魂があの世から還りて集う聖なる処として、現在も人の立入ることを許さぬ禁足地とされており、」とある。果たして当地はアジールなのであった。実に聖地らしい聖地ではないか。
翌朝は開門と同時に毛越寺へ赴く。大きな池の周りにある堂舎のほとんどは礎石が残るのみである。想像で補うしかないが、イメージとしては宇治の平等院に近かったのだろう。だが、目に入ってくるのは茫漠とした風景でしかなく、よく整った美しい庭園ではあるものの、聖地としての感興にはいささか乏しい。観自在王院跡や無量光院跡も同じで、平泉という地名も手伝ってか、どこかのっぺりした古都という印象になってしまうのである。
かねてから僕が気になっていたのは「延年の舞」で有名な常行堂だ。境内の東北にあたる場所にはかつての常行堂、法華堂の跡があり、その隣に享保十七年(1732年)に伊達氏が再建した常行堂が建っている。常行堂は比叡山延暦寺や、大和の談山神社などでご覧になった方も多いだろう。
中世の天台寺院には必ず常行堂が設けられていた。この中に九十日間籠って、本尊阿弥陀仏の周りをぐるぐる回りながら念仏を唱える「常行三昧」は、延暦寺で今も行われている四種三昧のひとつだ。この常行堂の後戸(注*1)には護法神とされる摩多羅神が祀られている。いわゆる秘仏でなかなかお目にかかれない。毛越寺では33年に一度の御開帳で、次に2033年、11年後である。少し摩多羅神について触れておこう。
天台宗で常行堂の守護神、および玄旨帰命壇の本尊としてまつる神。円仁が唐から帰朝した時にこの神が空中から呼びかけたといい、源信も念仏の守護神として勧請したという。京都太秦広隆寺の牛祭はこの神をまつったものである。(出典*1)
摩多羅神(日光山輪王寺蔵)
摩多羅神は新羅明神や赤山明神と一部伝承が通ずる”異神”である。像容について触れておくと、日光山輪王寺が蔵する絵では、左手に小鼓を持ち、右手を開いて叩こうとしており、その前に童子が二人、左右それぞれ笹と茗荷を持ち、微笑しながら足拍子を踏んでいる、という奇妙な構図で描かれている。出雲の清水寺にも神像 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282990 が伝わるが、どちらも不気味な笑みを浮かべている。いったい何者なのかすら杳としてしれないが、そこが魅力といえば魅力で、得体の知れなさに惹かれるのである。僕が毛越寺を再訪したのもまさに摩多羅神がゆえなのだった。
服部幸雄氏は著書「宿神」において、猿楽、能との関わりを指摘したが、他にも妙見信仰や真言立川流との関わりも取り沙汰されるなど、とにかく謎めいておもしろい神である。当地での摩多羅神は、農耕、作物の神とされており、時代、地域によってその神徳もさまざまな曲折があるようだ。当ブログにも出雲の鰐淵寺(境内に摩多羅神社)について書いた拙稿 https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12682001369.html がある。また、文末にも参考図書を挙げておくので、もし関心を持たれたら読んでみてほしい。
さて、この常行堂では思いもかけない収穫があった。僕の目を引いたのは内陣の四方にめぐらされた四角い切り紙である。まつりや神事で使われる切り紙は神の依代とされることが多いが、ここでは結界を構成し、魔除けとして機能しているのだろう。
毛越寺常行堂の切り紙についてはなかなか参照できる資料がなかったが、以下の一文に巡りあった。少し長くなるが引用しておく。
■延年のきりがみ(雑華(ぞうか))
延年舞曲は、田楽、猿楽能とともに中世を代表する舞台芸術の一つで、延年は芸能によって心をやわらげれば寿福増長の基になるところの呼び名で、遐齢延年(かれいえんねん)に由来する。岩手県平泉にある天台宗の古刹、毛越寺では、正月二〇日の、春神事とも大法会とも言われる摩多羅神祭に、常行堂内の荘厳な道場で一週間も続く法会の後、同山の僧たちによって法楽延年の催しが行われ、”延年の舞”が舞われる。常行堂には須弥壇の後にかけて注連縄が回され、これに料紙を切り抜いた、雑華とも餝花(かざりばな)とも言われるきりがみが下げられる。住職の志羅山頼玄師の話によると、紙型は残っており、切る人は相伝のような型を持っていて、一週間前から始まった法会は、十四日からお堂づめ(こもる意)精進潔斎をしてから雑華を切るとの事である。法会次第之事の中に「奉供四八色造華百味飲食ー」と言う言葉があるので、昔は雑華がもっとあったのではないかとも言われ、現在は、大根・扇・下り藤・丸十・蕪菁(かぶ)・抱茗荷(だきみょうが)・鳥居・菊・桐・従行(丸三引)・九曜星・三宝餅の十二枚の雑華がある。ご住職の話だと、雑華は神聖なものと考えられていて、この祭り以外は、絶対に切らないとのことである。ちなみに毛越寺の沿革を見ると、平安前期にあたる仁明天皇の嘉祥三年(850)、慈覚大師の開基せるところとある。(出典*2)
切り紙の持つ呪術性は以前から「花祭」や、高知県物部村の「いざなぎ流」で、少なからず関心を寄せていたのだが、火が点いてしまった。これだから旅はやめられない。東北一円には「オカザリ」と称するさまざまな切り紙の文化があるようで、こうしたところを訪ね歩くのもまた一興か。いやその前に延年の舞を実見しなくてはならないだろう。
中尊寺金色堂を訪れた後、秀衡盛と称する据え置きの椀子そばを食し、次の目的地、遠野に車を走らせた。
(2022年7月26日、27日)
注)
*1 後戸(うしろど)
仏堂の背後の入口のこと。この入口は本尊の背後にあることから宗教的な意味をもち、後戸を入った正面に本尊の護法神やより根源的な神仏を安置する。例えば東大寺法華堂の執金剛神、二月堂の小観音(こかんのん)、常行堂の摩多羅神などがその典型。法会儀礼のなかで後戸の神をまつる呪法は芸能化し〈後戸の猿楽〉という呼称が示すように中世芸能誕生の舞台となった。能楽の翁を後戸の神(宿神・守宮神)といい修正会などの延年に登場するが、古来、修正会に後戸から鬼が出現するのもまた普遍的であり、ともに後戸の宗教性を象徴している。(平凡社世界大百科事典 第2版)
出典)
*1 縮刷版 日本宗教事典 弘文堂 平成6年
*2 日本きりえ協会編「カラーブックス 469 きりえ入門」保育社 平成3年
参考)
*1 拙稿「懸崖の観音堂」信州小諸 布引山釈尊寺
川村湊「闇の摩多羅神-変幻する異神の謎を追う-」河出書房新社 2008年
山本ひろ子「摩多羅神-我らいかなる縁ありて-」春秋社 2022年(8月18日発売予定)
小田雄三「後戸と神仏」岩田書院 2011年
熊谷清司・田淵暁「日本の伝承切り紙」 季刊「銀花」1977第32号 冬 文化出版局 昭和52年
千葉惣次・大屋孝雄「東北の伝承切り紙」平凡社 2014年