舞台は18年ワールドカップ(以下WC)1次リーグ最終戦、日本×ポーランド。後半14分0-1とリードされた日本は、無気力試合をして、決勝トーナメント進出を決めた。特にラスト10分は、世界中からバッシングされるのも当然のスポーツとはかけ離れたものになった。
さまざまな意見が飛び交っているが、ポイントとなる闇は3つある。
1つ目の闇は、サッカー日本代表チームが
卑屈で臆病な選択をしたということだ。
WCでは、過去の大会でも今大会でも1次リーグ最終戦で、何戦かが無気力試合になった。それが慣例になっているため、最終戦だけは同組の2試合が同時進行で行われるようになっている。
だが多くのジャーナリストが指摘してるよう、日本のように負けている中で無気力になったケースは長いWCの歴史の中でも、ゼロに等しい。
マスコミやネットなどでは、理想を捨てた現実的な選択だったという擁護の声が数多くあがっている。だが、完全な見当はずれだ。
理想を捨てた現実的な選択とは、WCにおいては「引き分け」を意味する。それ以下のもの、つまり敗戦は現実的な選択ですらない。
WCにおいて、たとえ1点差でも敗戦狙いに行くことは、前代未聞の非現実的な対応であり、プライドを完全に捨てきった卑屈な選択だ。要するに、誰もやらない、あまりにも情けない選択なのだ。
負けている中、ボール回しを始めたとき、サッカー日本代表は
アスリートの魂を完全に失った。
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2つ目の闇は、この無気力試合が
パチンコや競馬などのギャンブルと
同等の賭けになったということだ。
それはスポーツの中でアスリートが試みる
一か八かの賭けではない。
スポーツの外にある他力本願のギャンブルなのだ。
他会場での残り15分間、セネガルが1点も取らずに、コロンビアに「0-1」で負ける。そうなれば日本はセネガルと「勝ち点・得失点差・総得点・直接対決」のすべての突破基準で並ぶ。
そこでフェアプレーポイントが出てくる。イエローカードの数が少ない方が突破できるという新たな基準である。日本はセネガルより2枚少なかったので優位に立っていた。
そのため、このフェアプレーポイントという制度が日本を無気力試合に誘導したという擁護も上がっている。だが、それも見当ハズレだ。
日本チームと監督スタッフが、このフェアプレー制度を悪用して楽に勝とうとしたのは間違いのない事実だからだ。つまり、自分の卑怯さを制度に責任転嫁しただけの話だ。
この責任転嫁は、ポーランド代表も共犯だという擁護にも重なる。
確かに、ポーランドも一緒に付き合わなければ無気力試合は成り立たなかった。だが、これも自分が犯罪を犯していながら、止めなかった周りも悪いと言っているような責任転嫁と変わりはない。日本が、卑屈で卑怯な手段に出たという事実は変えられないのだ。
日本のTVでは、「西野監督は動かない勇気を見せた」などと言う人もいたが、実際それは大敗して予選敗退することを恐れて何も出来なかっただけのことだ。
つまり、それは恐ろしく臆病な決断だった。
日本がポーランド相手にボール回しを始めたとたん、その舞台の次元が変わった。多くの日本人TV視聴者は、そこでコロンビアとセネガル戦を報じたNHKにチャンネルを変えただろう。
それは、WCの試合中の日本代表チームが
TVの前で観戦する自分たちと全く同じ立場になったからだ。
WCの大舞台に立ったサッカー選手たちが
その瞬間にスポーツマンですらなくなり
ただ他会場での結果に頼る
ギャンブラーに成り下がったのだ。
*
僕は何十年もの間、世界のスポーツを見てきたが、これに類いする情けないゲームは1つも思いつかない。これは日本のスポーツ史上、最も世界に恥をさらした一戦だったと言っても過言ではない。他に比較できるものが思いつかないほど、突出している。
元選手を中心とする忖度サッカー関係者たちは、
あまりに情けない試合だったことをごまかすために
ありとあらゆる細かすぎる視点から
状況を恐ろしく複雑にして煙に巻こうとした。
このギャンブル勝ちのひどさは、
起こらなかった別の2つのシナリオと較べればより鮮明になる。
1つ目は、日本が1点取られてからも攻めに出たことでポーランドに2点目を取られて負け、かつ他会場でセネガルも負けたというケースだ。
そうなれば日本は予選敗退する。そこで、「何で攻めに出たんだ」という、監督へのバッシングが起こるだろう。だが、それは間違いなく少数派になっていたはずだ。
たとえ予選突破がかかっていても、 「1点負けを狙って無気力試合すりゃ良かったんだ」と、あまりに情けないことを豪語できる者が一体どれほどいるだろう!(^^)!。
大半の人は、予選突破はならなかったけど、アスリートの誇りは見せてもらったと納得したはずだ。
2つ目のシナリオは現実と同様に、日本が1点負けを狙った無気力試合をし、他会場でセネガルが1点取って引き分けてしまうというケースだ。
こうなれば西野監督以下、日本チームは嵐のようなバッシングにあっていただろう。なぜ1点取って引き分けて自力で突破しようとしなかったのかとボロカスに叩かれていただろう。
だが、日本としては、やったことは同じだ。それなのになぜ、現実では賛否両論が飛び交い、結局、あいまいに擁護されることになったのだろうか。
当然、結果が違うからだ。
日本は実際、予選突破したので
嵐のようなバッシングは起こらなかった。
WCの予選突破とはスポーツの世界では
すばらしく輝かしい成果である。
結局、多くの人は結果に目を奪われて
卑屈で臆病な選択をしたという本質
にフタをしてしまったのだ。
推測になるが、この無気力試合は、西野監督の決断ではないハズだ。彼自身、インタビューで、これはチームにも選手にも本意ではなく自分の信条でもないと明言している。そこからはチームの外からの圧力があったことが読み取れる。
最近の日本の無気力試合はこれで3度目だ。
2017年、WCの出場がかかったアジアカップで、なでしこジャパンは予選で引き分け狙いの時間稼ぎをした。
男子のU20の大会の予選でもイタリア相手に引き分け狙いをした。その3回は性別も年代もすべて違う監督が行った。ではなぜ、ここまで消極的な戦術が一致したのか。それは同じ1人のサッカー協会会長の下で行われたからだ。
その人物こそが、3つ目の闇。
田嶋幸三である。
先のなでしこの試合で、彼は試合会場の客席にいた。今回のWCでも長谷部がピッチに入る前に、慌しくスタッフや監督の間で情報が交わされる様子があった。
飽くまで推測だが、そこで田嶋の圧力があったとしてもおかしくはない。彼はWC直前、ハリルホジッチ監督を正当な理由もなく更迭した。それもハリルが忖度しないタイプだったからではないか。
WCに出れるか出れないか、WCの予選を突破するかしないか、この違いで途方もないカネが動くのが現代のサッカービジネスである。
もしハリルが指揮を取っていたなら、この試合はまちがいなく卑屈で臆病な無気力試合になることはなかっただろう。■