中島みゆきはかわいい顔をしているのだが、男の言うことを素直に聞かなそうな、気の強そうな印象をしている。恋愛対象としてはめんどくさそうな感じの女のコだ。

 

 

オレは松任谷由実サンはもう何十年も前に、二度くらい取材、インタビューしているのだが、中島みゆきさんには会ったことがない。実物がどんな人か分からないが、彼女の詩はいいものばかりなのである。それを紹介する。まず「砂の船」という作品。

 

  誰か 僕を呼ぶ声がする 深い夜の 海の底から

  目を 開ければ窓の外には のぞくように 傾いた月

 

  僕はどこへゆくの 夢を泳ぎ出て 夢を見ない国をたずねて

  いま 誰もいない夜の海を 砂の船がゆく

 

  望むものは何ひとつない さがす人も 誰ひとりない

  望むほどに消える夢です さがすほどに逃げる愛です

 

  月は波に揺れて 幾百 幾千 古い熱い夢の数だけ

  いま 誰もいない夜の海を 砂の船がゆく(以下略)

 

少なくとも歌謡曲の歌詞ではない。文学性が高く、歌のなかに寂寞とした喪失感が詰まっている。本人に会ったことがないから、作品を詩人の文学的営為として考えられるのかも知れないが、オレはこういう詩が好きなのである。彼女は詩人としてというより、ライブのコンサートのチケットがなかなか取れない、超人気者のシンガー&ソングライターとして有名だ。オレも『短編集』とか、何枚かCDを持っている。『短編集』は大ヒット曲「地上の星」が収録されているCD。

この人はいわゆるニューミュージックのアーティストのひとりだが、言葉を編み出す力はピカ一で、詩人としても当代一流の存在だと思う。どういうわけか一冊だけ彼女の本を持っている。仕立ては詩集というよりタレント本。

 

中島みゆきのことを考えると、オレは自動的に松任谷由実を連想して、ふたりを比較して考える。

二人とも一九七〇年代の半ばに登場した人達だが、ユーミンの場合は最初の頃の荒井由実時代の作品と松任谷のダンナと結婚したあとの『紅雀』以降の作品のクオリティが一寸違っていると思う。初期の作品には深層心理的なものがあるが、アルファレコードから独立したあとのものはトレンディで時代の匂いのする、スキーとかサーフィンとかドライブとかモノ文化に含まれる新しいライフスタイルを歌ったものが多い。生活のうたわれ方も比較的表層的である。

中島みゆきの場合は、最初から最後まで深層心理的で、生きることに悩む人間の心の立ち姿を歌にしようとしている。メッセージがトラディショナルというか、人間的で本質的だ。次は「おもいで河」という表題のついた作品。

 

   涙の国から 吹く風は ひとつ覚えのサヨナラを 繰り返す

   おもいで河には 砂の船 もう 心はどこにも 流れない

 

   飲んですべてを忘れられるものならば 今夜もひとり飲み明かしてみるけれど

   飲めば飲むほどに 想い出は深くなる 忘れきれない この想い 深くなる

 

   おもいで河へと 身を投げて もう 私は どこへも流れない

 

   季節のさそいに さそわれて 流れてゆく 木の葉よりも 軽やかに

   あなたの心は 消えてゆく もう 私の愛では とまらない (以下略)

 

中島みゆきの詩はどこか普遍的なのである。少なくとも昭和と平成と両方の時代に通用している。ユーミンは生活の雑事を歌にすることが多いのだが、残念ながら、色あせてしまった作品が多い。新しくファンになった人たちはそうは思わないかも知れないが、昔、ユーミンの大ファンだったオレ(ユーミンのCDはデビューから昭和の終わりまでのものは全部持っている)が書くのだからまちがいない。80年以降のユーミンの歌はトレンディでオシャレすぎるというかファッショナブル過ぎるのである。当時はそれがよかったのだが。

下の作品も中島みゆきのもの。実際にレコーディングしたかどうかまではわからないが、多分、どの作品も、全部、メロディーが付いて作られているのではないかと思う。そういうことで言うと、詩というよりは[詠い=歌謡]というべきかも知れない。「傷ついた翼」。

 

   時は流れゆき 想い出の船は港をはなれ

   通りすぎてゆく人達も 今はやさしく見える

   そんなある日 想い出すわ あの愛の翼

   こおりつく夜を歩いていた 私の心のせて

   朝のくる街をたずねて 秘かに去った

   どこにいるの

   翼をおって 悲しい想いをさせたのね

   飛んでいてね あなたの空で 私きっとすぐにゆくわ

 

   そうね あの頃は悲しくて だれの言葉も聞かず

   愛の翼にも気づかずに つきとばしてきたのよ 

   何もいわぬひとみの色 今見える

   愛は一人 一人になって やっとこの手に届いたの

   飛んでいてね あなたの空で 私きっとすぐに行くわ

 

   傷ついた翼思うたび 胸ははげしく痛む

   遅すぎなければ この想いのせて もう一度飛んで

   泣いているわ 愛の翼 今見える

   愛は一人 一人になってやっとこの手に届いたの

   飛んでいてね あなたの空で 私きっとすぐに行くわ

 

平成元年に中島みゆきが作って、工藤静香がうたった『黄砂に吹かれて』という歌がある。この歌はまさしく昭和と平成のつなぎ目のようなところに存在している歌だが、内容はこういうものである。 

 

    黄砂に吹かれて きこえる歌は 忘れたくて忘れた 

    なくしたくてなくした つらい恋の歌

    眠りを破って きこえる歌は 分かってるつもりの 

    分からせてるつもりの ひとつだけの歌

    もう蜃気楼なのかもしれない 片思いかもしれない 

    あなたに似ている人もいるのに あなたよりやさしい男も 

    砂の数よりいるのにね 旅人♪

 

    黄砂に吹かれて さまよう旅は 地下を深く流れる 

    澄んだ水ににている 終わりのない旅

    微笑ずくで 終わらせた恋が 夢の中 悲鳴をあげる

    あなたに似ている人もいるのに あなたよりやさしい男も 

    砂の数よりいるのにね 旅人♪

 

        「うそつき」「うそつき」「うそつき」

      こみあげる(答えて) もらえばよかったのに

      聞くのが恐かった名前 私じゃない 名前だもの

    笑顔で終わった あの日から 旅人

 

オレはこの歌が戦後の音楽状況の大きな捻れの結節点に立つ歌なのではないかと思っているのだが、それにはわけがある。それは八〇年代と九〇年代の亀裂に投げ込まれた、昭和の最後の名残りの歌なのではないかと思うからだ。

もっと詳しく説明すると、八〇年代、それまで栄華を誇った民放キー・テレビ局の歌番組が次々と姿を消していった(視聴率が取れなくなっていった)のだが、最後に残ったTBSの、打ち切りが決まった『ザ・ベストテン』の最後の第一位がこの『黄砂に吹かれて』なのだ。これは歴史のオートマティカルな象徴性を体現した出来事だった。その意味をずっと考えつづけているのだが、オレにはまだこの歌の意味と意義がわからないでいる。 

中島みゆきはもしかして、バブル以後の日本社会の迷路のような時代状況を黄色い砂嵐にたとえようとして、この歌を作ったのだろうか。もう、この歌のなかでは、いまからどこを目指すのか、どこからやってきたのか、人生なかでなにが一番大事なことなのか、なにも歌われていない。それなのに歌が心の深みを揺さぶるようにして聴くものの心をかき乱す。

戦後の、特に八〇年代以降の歌作りのなかで中島みゆきだけが歌の作風が求心的なのはなぜだろうか。彼女の歌のなかにはちょうど、近代経済学の景気循環理論でいえばコンドラチェフ大波動に相当するのだが、60年周期、つまり人間の一生をサイクルとするような本質的に生と死に絡んだ感性の上でものを作っているような、暗く情念的だが、演歌の作詞家たちのように時代的、歴史的でない、独自の存在の仕方で人生を詠おうとしている。もちろん彼女も始終そういうふうにしているばかりではなく、トレンドの上でなにかを表現しようとした作品も数多くあったが、作るもののなかに時々、どこかそういう歴史や現実を突き破った普遍的な力を持つ作品がある。

この歌を歌ったのはキムタクの女房の工藤静香だった。それにしても中島みゆきはあの時代の状況をどう考えながら、歌を作っていたのだろう。当時の新聞のコラムに中島みゆきが作った『二隻の船』という詩についての評論が載っているのを見つけた。『二隻の船』はこんな歌だった。 

 

    おまえとわたしは 例えば二隻の舟

    暗い海を渡ってゆくひとつひとつの舟

    互いの姿は波に隔てられても 同じ歌を歌いながらいく二隻の舟

 

      時流を泳ぐ海鳥たちはむごい摂理をささやくばかり

      いつかちぎれる絆 見たさに 高く高く高く

 

    敢えなくわたしが波に砕ける日には

    どこかでおまえの舟がかすかにきしむだろう

    それだけのことでわたしは海にゆけるよ

    たとえもやい綱は切れて嵐に飲まれても

 

この歌のために評者の詩人、天沢退二郎は次のように解説を述べる。たしか読売新聞の詩評である。

 

「おまえとわたし」……この二隻の舟とは、何の喩えなのだろうか? なんらかの理由でいま別れ別れになっている恋人同士? それだけではあるまい。いろいろなことが考えられる。歌い手が歌に、詩人が詩に呼びかけているのかもしれない。唯一の正解などない。「わたし」が滅ぶとき、どこかで「おまえ」の舟がかすかにきしむだろう。……この詩句は、否応なしに私たちの胸を切なくする。

 

もう一隻の舟とは、どの海を漂う舟なのだろうか。思えばオレたちはみんな、日本という社会で生きる、同時代の同じ闇の海を漂う愛するべき小舟たちだった。若いころ,オレたちはみんな愛し合っていればそれだけで幸福になれる、そう考えていた。しかし、いまはもうそうは考えられない。

また、そういうふうに生きることもできなかった。

そのことをどう考えればよいのか、それも分からない。

オレたちの乗る砂の船の昏迷は深い。

 

今日はここまで。いつかユーミンのことを書こう。    Fin.