3.11震災から6年。やり直した夫婦、別れた夫婦の「家族の絆」の違いとは?! | 法律でメシを食う35歳のブログ~露木幸彦・公式ブログ~

法律でメシを食う35歳のブログ~露木幸彦・公式ブログ~

1980年生。国学院大学卒。行政書士・FP。金融機関では住宅ローンのトップセールス。離婚に特化し開業。年間相談件数は1,500超。離婚サポートnetの会員は1万人と日本最大。マスコミ掲載多数。読売、朝日、日経各新聞、テレビ朝日「スーパーJチャンネル」等。

 未曾有の被害をもたらした東日本大震災から今日でちょうど6年ですね。あっという間に6年目をむかえましたが、価値観や考え方、そして人生観…あなたの内面はどのように変わりましたか?6年(2,190日)の間で否が応でも考えさせられたのは「家族のあり方」です。

 

 なぜなら、避難所で家族を面会したり、被災地から家族が非難してきたり、そしてボランティアで被災家族と接したり…「家族とは何ぞや」と頭をよぎるような場面は数多あったことでしょうし、職場の同僚、故郷の旧友、そしてSNSの友達まで含めれば、誰しも心当たりはあるでしょう。では震災をきっかけに「家族感」はどのように変化していったのでしょうか?

 

街中

 

 例えば、震災1年目、私のところに急増したのは、震災前まで別居していた夫婦(単身赴任を除く)が震災後、また一緒に暮らし始めたという男性の声です。これはいわゆる「震災復縁」ですが、震災をきっかけに「妻とやり直すことにした」という夫の証言です。

 

 今回、焦点を当てたいのは震災復縁した夫婦の「その後」です。あれから6年後…これらの夫婦はどうなったのでしょうか?今回紹介するのは2組の夫婦。先に結論を言ってしまうと、片方は今でも離婚せず夫婦のまま、そして片方は離婚して「元」夫婦に形を変えたのですが、何が明暗を分けたのでしょうか?具体的に見ていきましょう。

 

悩む男性2

 

 「あの日(震災当日)のことですが、別居中の妻とたまたま鉢合わせたんです!」

 

 そうやって嬉しそうに語るのは八代哲彦さん(45歳。仙台市内に在住)。5年前の3月11日。八代さん夫婦はまだ籍は入っているけれど、すでに別々に暮らしており、もはや離婚は秒読みという段階でした。これはどういうことでしょうか?

 

 「まるで旦那からイジメられているような感じで、私はもう我慢の限界でした。こんな人なら『いない方がまし』だと見切りをつけたんです」

 

 哲彦さんの妻は後日談として、このように振り返ってくれましたが、それもそのはず。残念ながら哲彦さんは良い夫、良い妻とは言いがたい存在でした。例えば、八代さん夫婦は共働きですが、哲彦さんはほとんど育児や家事を手伝おうとせず、それなのに妻のやる事なす事に文句ばかり言っており、まさに亭主関白そのもの。

 

 妻は少しずつ、そして確実に不満を溜め込んでいったのですが、ちょうど震災から1年前に怒りが爆発してしまったそう。妻はとうとう堪忍袋の緒が切れ、ついに同じ学区内のアパートを借り、小学生の息子さんを連れて出て行ってしまったのです。一方で哲彦さんは自宅の分譲マンションへ取り残されてしまったのですが、とはいえ他に行く先もないので、今まで通り、住宅ローンを返済しながら住み続けたのです。

 

女性③

 

 「本当は離婚するつもりでした。でも、なかなか時間がなくて…」

 

 後で分かったことですが、妻は離婚するつもりで家を出て行ったそうです。そして別居先での生活が落ち着いたら離婚を切り出す予定だったのですが、いかんせん、正社員として働きながら息子さんを育てるのは時間的にも経済的にも、そして精神的にも大変なことで、仕事と育児の両立だけで精一杯。具体的に事を起こすことができないまま、あっという間に1年が過ぎてしまったのですが、震災の発生はそんな矢先の出来事だったのです。

 

 「とにかく息子のことしか頭にありませんでした」

 

 哲彦さんは震災当日の胸のうちをこのように回顧してくれましたが、勤務先の会社から早い段階で帰宅を命じれ、向かった先は自宅のマンションではなく、息子さんの小学校。今まで育児にほとんど無関心だった哲彦さんでしたが、震災という緊急事態に遭遇して、ようやくスイッチが入ったのでしょうか?

 

 哲彦さんは脇目も振らず、一目散に小学校へ向かったそうです。そして息子さんとの対面を果たしたのですが、不幸中の幸いで息子さんには目立った怪我はなかったのですが、哲彦さんの到着から遅れること30分。今度は妻が小学校へ着いたのですが、妻は驚きのあまり、豆鉄砲を食らったような顔をしていたそう。なぜでしょうか?

 

女性①

 

 「いるはずのない人(夫)がそこにいたから」

 

 妻は哲彦さんが息子さんの様子を気にかけて、無事を案じて、一目散に駆けつけるなんて露にも思っていなかったそうです。結局、2人が直接、顔を合わせたのは、ほとんど1年ぶりでした。何とも気まずい雰囲気が流れていたそうです。

 

 「余計なことしないでよ!」

 

 数多くの同級生や教諭、そして親御さんがいるなかで、そんなふうに夫を追い返すことは難しく、最終的には2人で息子さんを引き取ったのです。右の手はお父さん(哲彦さん)、左の手はお母さん(妻)とつないで帰っていく姿は一見、微笑ましい光景ですが、いかんせん2人は別居中の夫婦なのでバツの悪い感じは否めませんでした。

 

 ところで哲彦さんと妻、そして息子さんはどちらへ向かったのでしょうか?まず妻の別居先のアパートですが、やはり、震災による被害はかなり大きかったようで、例えば、外階段は崩れ落ちたり、バルコニーの底が抜け落ちたりしており、かなり悲惨な有様。

 

 翌日には大家さんが外階段を仮修繕してくれたので、何とかエントランスに行き来できるようになったのですが、それ以外の被害は手付かずの状態で、これでは小学生の息子さんにとって危険すぎます。これでは別居先のアパートでまともな生活を送るのは難しそうですが、一方、自宅の分譲マンションはどうだったでしょうか?

 

 マンションの構造は鉄筋鉄骨コンクリートですが、丈夫な造りだったおかげで、地震の揺れではビクともせず、妻にとっては幸か不幸か分かりませんが、ほとんど被害は出なかったようです。

 

街中3

 

 「他に行くところがないから、しょうがなかったんです」

 

 妻は当時の心境をこのように言葉にしてくれましたが、結局のところ、震災の渦中で新しいアパートを探すことは現実的ではなく、また妻の実家である福岡に戻ろうとしても震災直後は交通手段が混乱しているので足がなく、そして余震が頻発している最中で、妻が不安な気持ちに苛まれていることも影響したのでしょうか。震災前、妻は二度と戻らない覚悟で自宅を後にしたのに、震災後、妻は自宅に戻ることにしたのです。

 

 とはいえ一度、離婚しようと決めた相手と一緒に暮らすなんて…元の鞘に戻るのはそうそう簡単なことではありませんが、実際のところ、どうだったのでしょうか?

 

 あれから5年。今年に入ってから哲彦さんの話を電話でうかがう機会があったので、最新事情を紹介しましょう。震災からの5年間、どのように暮らしていたのでしょうか?

 

 例えば、年末には息子さんがインフルエンザにかかってしまったとき。大晦日ということもあり、なかなか病院が見つからなかったそうですが、哲彦さんは妻に任せきりではなく、一緒になって病院を探したそうですが、それだけではありません。

 

 「仕事は相変わらず多忙ですが、それでも仕事の量を減らす、早く帰宅できるよう工夫しています」

 

 哲彦さんは震災後の変化について口にしてくれましたが、以前のような家庭を顧みない仕事人間という感じではなくなったようです。もちろん、哲彦さんのモティベーションは「妻のため」ではなく「子供のため」だったのでしょう。

 

カップル2

 

 

 「もう離婚してやる!」

 

 今でも些細なことで夫婦喧嘩に発展するそうで、妻はそんなふうに豪語するのですが、実際のところ、離婚の二文字を具体的な行動に移す気配はまったくないそうです。このように離婚寸前まで悪化した夫婦関係は震災をきっかけに、そして「子供という存在」を介して少しずつ修復に向かっているように私の目には映りました。もしかすると震災が起こらなければ、哲彦さんが自分の過ちに気が付かず、心を入れ替えることもなく、このまま離婚に至っていたのかもしれません。

 

 「家族の絆をもう一度、築くことができたような気がします」

 

 哲彦さんは最後にそう言い残すと、ゆっくりと電話を置きました。もともとは6年前に離婚の相談に乗ったのが最初ですが、今後は彼の口から離婚の二文字が発せられないよう願うばかりです。

 

 このように八代さん夫婦は震災をきっかけにやり直すことができた「震災復縁」の典型例なのですが、ところで仲の悪かった夫婦は皆が皆、震災を境に仲良しに戻り、そして良好な関係を今でも続けているのでしょうか?いや、そんなことはありません。震災をきっかけに一時的にはよりを戻したけれど、震災復縁の効果があまり長続きせず、また夫婦喧嘩が再発するという「元の黙阿弥」のようなケースも存在するのですが、2組目の夫婦の証言を聞いてみましょう。

 

カップル3


 「水や食料を運べば嫁とやり直せるはず、最初はそう思っていました」

 

 そうやって苦虫を噛み潰すように心情を吐露してくれたのは長谷川健人さん(32歳。北茨城市在住。)健人さんも前述の哲彦さんと同じように震災当時は妻と別居中でした。別居のきっかけはマンションの購入。健人さんはマンションの購入費用を父親に全額、出してもらったのですが、そのせいで今まで良好だった夫婦の関係がこじれるようになったそうです。なぜでしょうか?

 

 「あんたと結婚している限り、どうせ逆らえないでしょ!」

 

 健人さんが妻に対して頼み事をすると、妻は決まって余計な一言をこぼすのです。妻は自分の実家がそれほど裕福ではなく、マンション購入時にまったく援助できなかったことを負い目に感じていたように健人さんの目には映ったそうです。

 

 健人さんは「実家間の経済格差」について特に気にも留めていなかったのですが、一方で妻はどんどん卑屈になり、ヒステリーな言動が増えていき、しょっちゅう夫婦喧嘩に発展し、夫婦の関係は日増しに悪化していったそうです。

 

女性②

 

 「少し冷却期間をおきたいんだけど」

 結局、妻の方はそう言い残し、実家(佐倉市)に戻ってしまったのですが、震災が起こったのは、ちょうど別居7ヶ月目のことでした。離れ離れになった妻のために健人さんはどのような行動をとったのでしょうか?

 

 健人さんは3月11日の夜、ありったけの食料とランタンを持って、妻の実家に届けたそうですが、当時は危険極まりない行動だったと言わざるを得ません。なぜでしょう。健人さんのマンションは海岸沿いにあり、大津波警報が発令されていたからです。

 

 実際のところ、健人さんの身はマンションが高層階だったおかげで何ともなかったのですが、マンションの周囲の平地は津波の被害を受けており、健人さんが妻の実家にたどり着くまでの間、津波の被害に巻き込まれても不思議ではなかったのです。(幸運にも健人さんは無事でしたが)なぜ健人さんは危険を顧みず、勇敢な行動に踏み切ることができたのでしょうか?

 

男性②

 

 

 「嫁とやり直したい!」

 

 健人さんにはそんな下心があったからです。実際のところ、妻は健人さんに対して感謝の言葉をかけてくれたのですが、健人さんはますます調子に乗って、スーパーを何件も周り、何時間も並び、ペットボトルやポリタンクの水や食料を購入し、妻に届けるという行動を続けたのです。奇しくも3月16日は妻の誕生日でした。

 

 「こんなときに別居している場合じゃないだろう」

 

 健人さんは一言を添えた上で、あらかじめ用意してきた手書きの手紙を渡したそうですが、妻はどんな反応をしたのでしょうか?さすがの妻も手紙を読むや否や、感傷的になり、涙を流し、「ごめんなさい」と口にすると、健人さんの気持ちを受け入れ、自宅マンションに戻ることを約束してくれたそうです。

 

 もちろん、健人さんの作戦が功を奏したという面もありますが、余震が繰り返し続くなかで、さらに被災地の惨状をテレビで目にすることで人恋しいという気持ちに拍車がかかったのでしょうし、一方で経済的な面ではガソリン渋滞、計画停電、買いだめにより食料不足…女手1つで生活するのが厳しい状況に追い込まれ、健人さんに頼りたいという打算的な気持ちもあっただろうと推測できます。

 

親子

 

 しかし、震災から1年もしないうちに妻の化けの皮がはがれ始めたのです。これはどういうことでしょうか?多くのスキー場は震災の影響を受け、営業できずにいたのですが、それでも営業しているスキー場を探し当て、そして遊びに行こうとしていたのです。スキーウェアやスキー板、そして宿泊用のキャリーバックを車に積み込むなど、妻は着々と準備を進めていたのですが、さすがに健人さんに隠し通すことは難しく、早々に健人さんの耳に入ることとなったのです。

 

 「何やっているんだ!お前のやっていることはおかしくないか?ガソリンがこんな不足しているのに!東北で苦しんでいる人がいるのに!」

 

 健人さんは妻を叱りつけたのですが、妻は妻で「何をしようと私の勝手でしょ」と捨て台詞を吐き、怒りに任せて、そのまま車を走らせ、家から出て行ってしまったそうです。健人さんは妻のヒステリーはその場限りのもので「どうせまた、すぐに謝って戻ってくるだろう」と軽く考えていたようですが、後日、妻から届いたメールは健人さんの予想とは正反対でした。

 

怒る男性

 「震災のときは正常な判断ができなかったの。あなたとは大事な話をしたくないわ。」

 

 結局、妻は家庭裁判所へ離婚調停を申し立てたようで、数日後に健人さんのもとに裁判所からの手紙が届いたのですが、健人さんは手紙を持つ手がわなわな震えて、思わず目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちそうになったそうです。

 

 それもそのはず。震災の前、健人さんは妻の内面…少しでも注意されると人格を否定されたと勘違いし、周囲の人間に対して当り散らすヒステリックな性格に嫌気が差していたのですが、妻が悔い改めたのは震災の後の一時だけで、結局のところ、元の性格に戻ってしまったことが明らかになったのだから。

 

 健人さんがやったことは震災に乗じて、妻を褒め称え、プレゼントを与え、煽てるという小手先のテクニックに過ぎず、諸悪の原因である「もともとの性格」にメスを入れなかったのだから、遅かれ早かれ、妻が震災の前の姿に戻るのは時間の問題でした。

 

 妻にとって健人さんの存在はもしかすると「アッシー」「メッシー」「ミツグ君」に過ぎなかったのかもしれません。そして震災から2年後に離婚が成立したのですが、「震災復縁」の恩恵は離婚のタイミングが2年ほど先延ばしになったことくらいで、離婚という結論は変わらなかったのです。

 

泣く男性

 

 健人さんは震災によって、そして妻によって振り回された自身の経験について、最後のこうやって振り返ってくれました。健人さんの回顧録を反面教師にしていただければと思います。

 

 「まだ夫婦の関係が壊れていなければ、震災はやり直すチャンスだと思います。でも、僕たちのように関係が壊れている場合はダメですね。今思えば…震災が起こる前に離婚していれば良かったんです。だって辛い思いをするのは1度で済んだのだから。それなのに震災のせいで妻が一度戻ってきて、また出て行ったので、僕は2度も辛い思いをしなければならなかったのです。あとは相手の気持ちが一時的なものか、そうでないのか。それを見極めることが大事だとつくづく思います。」