昭和初期の女性と仕事 ① お嬢さまの希望は教員か大企業! | 化粧の日本史ブログ by Yamamura

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◆関東大震災が女学生の意識を変えた?

 

こんにちは、山村です!


以前に、「明治末期の女性の若さと結婚」

というテーマで、

当時の令嬢の結婚について書きましたが、

今回は、昭和初期の令嬢を取り上げます。

 

明治末期のお嬢さまの結婚について

簡単におさらいすると、

裕福な家に生まれて、女学校に通う「令嬢」は、

数えの17から19歳ぐらいで結婚するのが

あるべき姿。


公家や華族、資産家など上流階級の

令嬢が通う学習院女子部では、
女学校にいる10代なかばのうちに

結婚が決まって、続々と退学していった

という話でした。

 

結婚して、生活一切を相手にゆだねるなら、

せめて目指すは「玉の輿」。
それが明治末期の令嬢たちの生きる道でした。

 

それから約20年が過ぎた昭和初期。

令嬢たちの生き方は、

少しだけ独立志向になったようです。

 

ちなみに、下の写真は昭和初期のお嬢さま。

大阪の実業家のご令嬢。

洋装にパールのネックレス。髪も洋髪。

エレガントなイメージです。

 

『婦人画報』昭和5年(1930)4月号より

 

昭和のお嬢さまについては、

昭和4年の『婦人画報』4月号の、

「女学校卒業令嬢の行方」

という記事をみてみましょう。

 

この頃の裕福なお嬢さまは、

女学校にいくのがあたりまえ。

 

記事によると、大正12年(1923)の

関東大震災の前に、ある高等女学校で、

卒業後の進路について質問したところ、

100人中60人が「すぐ嫁にいきます」

と答えたそうです。

 

働いてみようという女性は、わずか25人余り。

 

才媛が集うお茶の水高等女学校でも、

中等教員の免状取得をめざして、

母校付属の専攻科に入った50人のうち、

一学期の末には、

結婚で2、3割減る状況だったとのこと。

 

それが、地震以降はなくなったそうです。

 

大正時代の女性の権利拡張運動の影響や、

関東大震災とその後の不景気を経験し、

高等教育を受けて、経済的に独立しようという

進歩的な考えの女学生が増えたというのです。

 

背景には、適齢期の変化もありました。

昭和初期になると、

適齢期が21、2から23歳位に遅くなっています。

 

明治とくらべて、数年、適齢期が上昇したことで、

女学校卒業後に、さらに上の高等教育をうける、

時間的ゆとりが生まれたのです。

 

記事によると、

そんな女学生が希望する

第一の職業が、女教員。

 

その次は、自由な職業人として、

昔はタイピストが一番人気だったのですが、
タイピストにお茶くみをさせたり、

電話の取次ぎをさせたりして、

給料も事務員と大差ない状況になり、

それならいっそ、

大企業に勤めようという風潮に。

 

5大デパートや大手銀行、

そのほかでは、大ビルディングの

一流会社に勤めるのがあこがれになりました。

 

女子学生の大企業志向は、

昭和初期には、もうあったのです。

 

次回も、昭和初期の令嬢について。

 

11月30日更新予定。