ここに一冊の詩集がある。

 伊東静雄詩集である。伊東の名を知っている人はよほどの文学通(つう)だろう。伊東が活躍したのは戦前から戦後直後までの約20年である。

 この文庫本を40年前に買った。ここには、『『わがひとに與ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』『反響』という彼の全ての詩集が収められている。以来、何百回だか分からないほど開き、愛誦した。そのため、セロテープで補強するほど傷んでしまった。

  私は、詩は、小説ほど好きになれなかった。それでも大学で近代文学を受講していたので、有名な詩人の代表作と呼ばれる詩には一通り目にした。

 私が大学生の頃は、中原中也が人気があり、彼に関する本が数多く出版された。小林秀雄や大岡昇平にこっていた私は、その縁から、彼らの友人であった中也をけっこう読んだ。

 でも、彼に魂が揺さぶられることはなかった。ただ、彼の『山羊の歌』に入っている「帰郷」は好きだった。私も、中也と同じく、夢を抱いて上京したが、東京で生計を立てることは難しかった。したがってこの詩に自分の心境を見い出したのである。

 

       これが私の故郷だ さやかに風が吹いている 心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声がする 

       ああ お前はなにをして来たのだと 吹き来る風が私に云う

 

 私が愛読した詩人は、伊東静雄だけである。彼を本格的に好きになったのは大学を卒業してからである。江藤淳の随筆『なつかしい本の話』を読んでいたら、伊東が登場したのである。

 余談になるが、70年代に刊行された純文学の単行本の中には、函に収められているものがけっこう見られた。当然、価格は高めである。蔵書という趣があり、買う側はおのずと大切に取り扱った。

 戦後まもなく鎌倉から十条の場末に引っ越してきた若き江藤は伊東の『反響』という詩集に心を揺さぶられた。そこに収められている「夏の終わり」「行って お前のその憂愁の深さのほどに」「中心に燃える」にとりわけひかれた。これらの詩に自分の現実を重ねた江藤の鑑賞力はすごいという他ない。伊東の詩の魅力を見事に引き出して見せている。

 この本がきっかけになって伊東の詩を読むようになったのだから、私は江藤淳に感謝している。後年、伊東が私の好きな庄野潤三と交流があったことを知った。このことも伊東の詩にのめりこんだ背景にある。

 

 彼の詩を、文面通りに理解しようとすると難しい。抒情を抑制し、理知的だからである。だが、一方ロマンチシズムにあふれている。言葉は厳選され、無駄な表現がない。感性でとらえた世界を選び抜いた文字で極限にまで凝縮している。それゆえイメージを喚起する力がすごい。一字一句を味わっていくと、詩の世界が脳内スクリーンに映って来る。

  詩は象徴であって、描写ではない。むろん説明ではない。したがって小説や随筆を読むように読もうとすることが出来ない。思うに、詩は味わう、すなわち鑑賞するものである。言葉が喚起するイメージに浸ることが大切だ。したがって、十人の読者の感想はみな違ってくる。分析にこだわると、詩が持つ面白さを見失ってしまう。

 ただ、詩は短いので、手軽に本を開ける。自分が感動した詩を手軽に何度でも味わえる。それが小説と違う点だ。詩の魅力といっていいだろう。

 

 私が最も好きな詩は、「わがひとに與ふる哀歌」(『わがひとに與ふる哀歌』) 「夏の終わり」(『反響』) 「行って お前のその憂愁の深さのほどに」(『わがひとに與ふる哀歌』)である。

 「わがひとに與ふる哀歌」は、生への意志にあふれ、美しく、雄大な詩である。冒頭の一節を読むたびに胸がかきむしられる。

      

         太陽は美しく輝き あるいは太陽の美しく輝くことを希ひ 手をかたくくみあわせ しづかに私たちは歩いて行った

                      (後の部分 省略)

 私は異性を愛することの大切さをこの詩から教えられた。『わがひとに與ふる哀歌』詩集を読んで感動した萩原朔太郎はわざわざ伊東の住む大阪まで訪ねて行った。その気持ちが私にはわかるような気がする。

 

 「夏の終わり」は別れの詩である。

 

         夜来の台風にひとりはぐれた雲が 気の遠くなるほど澄みに澄んだ かぐわしい大気の空を流れてゆく

         大気の燃え輝く野の景観に それがおおきく落とす静かなかげは

         ・・・・・・さよなら・・・・・・さようなら・・・・・・  ・・・・・・さよなら・・・・・・さようなら・・・・・・

                      (後の部分 省略)

 私はこの世とお別れの際、ここで描かれている雲のようになりたい。雲はさよなら・・・さようなら・・・と言って大地をかすめる。未練なく去って行くその姿がいい。

 

  「行って お前のその憂愁の深さのほどに」は、西欧の森の中を思わせるような奇妙な詩である。様々な解釈が出来ようが、奮い立たせる力をはらんでいる。彼のいい所は、穏やかな口調にもかかわらず、力強い点だ。

                      (前の部分 省略)

         群がるる童子らはうち囃〔はや〕して わがひとのかなしき声をまねぶ・・・・・・

         (行って お前のその憂愁の深さのほどに 明るく かし処〔こ〕を 彩〔いろど〕れ)と

 

 私は退職後、ひと月に一回、知人とコーヒー店で、文学や芸術や世相について歓談するような集まりを開いている。その中に年長の書家がいる。彼に伊東静雄の詩集を紹介すると、いくつかの詩に美を見出し、それを書で表した。伊東ファンの私には読者が一人でも増えることはうれしい。

曠野の歌」(『わがひとに與ふる哀歌』)

 

 その他の好きな詩は、「帰郷者」(『わがひとに與ふる哀歌』)、「夕の海」(『夏花』)、「夏の嘆き」(『夏花』)、「淀の川辺」(『春のいそぎ』)、「帰路」(『反響』)である。

 伊東を愛する文学者はけっこういる。江藤以外に三島や立原正秋も評価していたことを記憶している。

 

 なお、私が伊東の作品以外で最も好きな詩は、西脇順三郎の『Ambarvalia』に収録されている「ギリシャ的抒情詩」の中の「天気」である。

 

              (覆〔くつがえ〕された宝石のような朝) 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日

 

 「天気」は三行の短詩である。この詩を知ったのは、中学生の国語の教科書であった。その時は、ただ、不思議な詩だとしか感じなかった。

この詩の魅力を知ったのは中年になってからである。ある秋の朝、突然、この詩の世界とはこのような一瞬なのだと気が付いた。   

 それは11月初旬の休日の朝のことで、空は澄みわたり、風が全くなかった。騒音が全く聞こえず、外を歩く人の気配もなかった。窓から差し込む柔らかい光が玄関に満ちている。天井で光の網目模様が揺れ、壁に樹の枝のシルエットが映っている。時間が止まったような感じだ。私は西脇の「天気」を思い出し、覆った宝石の美しさとはこういう状態のことなのだろうかと悟った。玄関の外に神様が立っているような気さえした。

 それ以降、毎年、このような秋の朝が訪れるのを楽しみにしたが、秋晴れで風のない休日はそうはない。期間は10月中旬から11月中旬で、時間帯は七時から八時半の頃までに限定される。2年に1回くらいの割合である。

 だからこそ、秋になると待ち遠しくなる

 

                             ――― 終わり ―――