山岡久乃がお母さんになる前の笑顔です。
1926年(大正15年)東京都大田区産まれ
本名(山岡 比佐乃)さんです。

1942年  宝塚音楽舞踊学校の33期生として入学。
男役志望で役名(清澄あきら)を用意していたが、戦争が始まり、一度も舞台に立たず中途退学。

戦後 俳優座養成所で演技の勉強を再開します。
1946年(昭和21年)俳優座入団。
劇団員として活動を始めます。
初舞台、初映画出演を経て1954年劇団仲間と(劇団青年座)を結成。
劇団を支える女優として舞台で活躍、映画は日活と専属契約を結んだ。
1955年(姿三四郎)他4本 1956年(火の鳥)(感傷婦人)(若いお巡りさん)他9本 1957年(浮草の宿)(幕末太陽傳)他4本 1958年 (佳人)(西銀座駅前)(船方さんよ)(蟻の街のマリア)他9本 1959年(人形の歌)(にあんちゃん)と毎年映画出演が続きます。

1956年(昭和31年)には、青年座創立メンバーの俳優 森塚敏と結婚します。


VANの石津謙介デザインのユニホーム姿の青年座の団員。
前列中央が山岡。後列右から二人目が森塚。

テレビドラマ初出演は、MHKで本名(山岡比佐乃)出の出演との記録があります。
日活との専属契約は1960年代中盤に切れて、1966年には東宝での主演映画(こころの山脈)が公開されます。

順調に俳優としてのキャリアを積む山岡久乃です。
お茶の間には、1970年スタートのドラマ(ありがとう)で水前寺清子との母娘のコンビが大好評!
視聴率50%を突破(怪物ドラマ)と呼ばれる程でした👏
このドラマで日本のお母さん女優の仲間入り(白い割烹着が似合う)と言われます。

私個人の話で、🙇。1970年は、私は14歳の年で、テレビのバラエティ番組と同時に(肝っ玉母さん)(ありがとう)(だいこんの花)等のホームドラマを観る機会はありました。
情報として大人気である認識は持ってましたが、やはりあまりに直球すぎて少し気恥ずかしい感じでした。(当時テレビは一家に一台ですので、家族みんなで観る物でした)
この(ドラマの直球感)は、大学生になった時にちょうどドラマ(俺達の旅)が放映中で、この時も感じました。
今は個別にテレビを観る時代なので、昭和の(チャンネル争い)や(家族で観る気恥かしさ)は無くなっていきますよね。
それと同時に共通概念(例えば日本のお母さん女優)は成立しなくなりますよね、当時の視聴率50%なんて信じられない数字で、
アイドルやスターの概念や影響力も今後変わってしまいますよね〜、その意味でも(昭和)はわかりやすい時代です。

すみません、山岡さんに戻ります。

(ありがとう)以後、山岡久乃のお母さん役は色々な番組で続きます。
森繁久彌との(あんたがさどこさ)(三男三女婿一匹)含めて1970年代ず〜と続いて、テレビで山岡久乃を観ない時はなかった印象です。
そこに居るお母さんのようですが、ちょっと上品できれい、(うちのお袋も山岡さんみたいなら〜)と思わせる、程よい感情表現で観ている人を安心させる演技は、私生活の山岡の持つ、(まめでやさしい)性格に寄り添って見事でした♥

夫とは1971年に離婚、その後生涯独身でしたが、共演者との交流はドラマの延長の様に親しく、穏やかなでした。

1990年にスタートした(渡る世間は鬼ばかり)の1998年降板の件は、異例の(降板説明記者会見)を開く程の事件となった様ですが、ささいな行き違いと山岡が自身の体調も考えてマイペースな仕事を選びたい意向でした。

1998年の舞台(おもろい女)では、胆管癌を発症して、黄疸が顔に出ていたのを化粧で隠して千秋楽まで演じきりました。
これが最後の舞台になります。
1999年 心不全で亡くなります。72歳。
予定されていた、芸術座での座長公演(月の光)は、親友の池内淳子が、代役を務め、その演技で菊田一夫演劇大賞に輝きました。

築地本願寺で行われた山岡久乃の通夜・葬儀には多くの俳優、女優が参列し、追悼しました。
参列した役者仲間との逸話も数多く残っており、山岡の人間性の温かさを語っています。

(山岡久乃の笑顔は、私の母親の笑顔に近い)と感じた青年は私だけでなく、いっぱいいるでしょう!
そう思わせる女性で、それを貫いた女優さんでした。

合掌