東京都府中市多磨町  多磨霊園 山本五十六墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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神社仏閣を参拝しております。
休みを利用し、地方にも遠征をしております。

最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

今年最後の更新です。

今回は、山本五十六の墓参りです。

 

以前、長岡にある山本家の菩提寺に墓参りをしました。長興寺

 

 

山本五十六とは
海軍軍人。対アメリカ戦争回避論者でありながら,真珠湾奇襲など太平洋戦争緒戦での勝利の諸作戦を立案指揮し,次いでミッドウェー海戦に敗れた。長岡藩士高野貞吉の六男として生まれ,のち山本家を継いだ。 1904年海軍兵学校卒業,日露戦争に従軍し日本海海戦で戦傷,1916年海軍大学校卒業。アメリカ駐在員 (留学) ,海軍大学校教官,霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭など歴任。 1925年よりアメリカ駐在大使館付き武官を長く務め,ロンドン軍縮会議の随員でもあったことから海外の事情によく通じていた。 1929年ロンドン軍縮会議日本全権随員。帰国後,海軍航空本部技術部長となり,航空工業の再編強化,部品の国産化,海外新技術の吸収に尽力。 1933年第1航空戦隊司令官,1935年海軍航空本部長となって,海軍航空軍政に手腕を発揮。 1936年海軍次官として日独伊三国同盟に反対,太平洋戦争にも作戦的見地から反対した。 1939年連合艦隊司令長官に就任。 1940年9月三国同盟が調印されると,日米関係は悪化し,日米戦に勝算なしとした彼が,連合艦隊司令長官として作戦指導にあたらなければならぬ立場となった。尋常一様の作戦では勝利の見込みなしと判断し,開戦劈頭の真珠湾奇襲作戦を計画。 1941年開戦後は対アメリカ戦を指導,常に先手を打つ積極策をとったが,ミッドウェー海戦で彼の構想は挫折,新作戦により後方に取り残される部隊を見舞おうとして,ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜され戦死。死後元帥。
 
元旦は、京都に遠征に行きます。
皆様よいお年をお迎えください。