三河万歳

 

 三河万歳は、太夫と才蔵がおめでたい歌や台詞を掛け合いながら舞い、新年の訪れを祝福する民俗芸能である。

 愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能だ。伝承地名により別所万歳(安城市)・森下万歳(西尾市)とも呼ばれる。

 元々は正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず、慶事の際などにも披露される。基本的には太夫と才蔵の2人が1組となるが、明治以降は太夫1人に対し、才蔵が2〜6人でも披露される。

 一般には、太夫は風折烏帽子に素袍、才蔵は侍烏帽子か大黒頭巾に裁着袴という衣装である。太夫は手に舞扇を持つ。江戸時代に三河出身の徳川家によって優遇されたため、江戸城や大名屋敷の座敷にあがり、万歳をすることが可能だった。そのため太夫は武士のように帯刀、大紋の着用を許された。太夫と才蔵は共に足元を引きずる長い袴を着用した。

 楽器は基本的には、才蔵が持つ小鼓だけ。尾張系の演目の場合は、三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木も使用する。

 三河万歳の起源は安土桃山時代。文禄3年(1594)に豊臣秀吉が生き残った陰陽師の多くを尾張に追いやり、そこで千秋万歳を起し、それが尾張万歳となり、三河万歳として生き残る。現在の上方芸人、浄瑠璃、歌舞伎の基になったと言われる。

 明治以降は徳川家の庇護も無くなり、三河万歳は後ろ盾を失ったが、明治20年(1887)以降に万歳師は神道職となり、「天の岩戸開きの舞」など日本の神話にちなんだものが演目に取り入れられた。

 しかし第2次世界大戦後は、他の地域に伝わる万歳同様に三河万歳も衰退する。継承者がいなくなる事態に陥るが、他の地域に住んでいた三河万歳の万歳師から、芸を受け継ぎ復活した。その保存活動が実を結び、平成7年に国の重要無形民俗文化財の指定を受けるに至った。

 地域史研究家の青木更吉著『みりんの香る街 流山』に、「三河万歳が来る」のくだりがある。愛知県安城市から出てきた三河万歳のある一座は、土浦に定宿を持ち、正月から茨城を中心に約9000軒を回った。流山では、20軒ほど回ったと記している。

 烏帽子をかぶり、しゃくを持った太夫は神主の出で立ちで、神棚を前にして柏手を打って祝詞を奏上する。才蔵は鼓をポンと打ち「鶴は千年の名鳥なり、亀は万年の祝いを保つ。鶴にもすぐれ、亀にもます万歳楽こそ誠におめでとうございます」と歌いながら舞い、「お家は代々栄えて新たなり」と締めくくる。時間はおよそ5分だったという。

 三河万歳は江戸・東京を初め、関東各地を回っていたが、千葉では流山だけだった。小林一茶が流山に来ていた頃も、三河万歳は来ていた。「へら鷺も 万才聞くか 君が春」の句を残している。

 正月の家々を回り、賀詞と滑稽な問答で笑わせた三河万歳は、太夫と才蔵のコンビによる芸だが、『東都歳時記』に相棒の見つけ方が載っている。

 毎年12月28日、日本橋に才蔵市と呼ばれる市が立った。ここに才蔵志願者が集まる。三河からやって来た太夫が、集まった志願者におかしなことをしゃべらせて試験し、才蔵として採用するのだそうだ。

 三河万歳は才蔵という「ボケ役」と、それを巧みに操る太夫の芸によって成り立つ。今年の漫才日本一を決める[M-1グランプリ]は、長谷川雅紀(50)と渡辺隆(43)のコンビ「錦鯉」に決った。

 落語でいう粗忽な人間が失敗を繰り返す「与太郎噺」で、真新しさは見当たらない。この単純なネタが笑いを引き起こす。秘密は、お二人の年齢や生き方にあるようだ。普通なら落ち着きと重々しさを感じさせる年齢だが、その年齢の2人が必死に「バカ」を演じている。苦労人と聞く。

 見目冠人の句に「才蔵の 素顔さびしき 汽車の中」というのがある。笑いを売る芸人はきっと、その素顔は寂しいのではないだろうか。だから人は、涙して笑うのであろう。

  

    令和3年(2021)12月23日