杜甫:為農 | 古代文化研究所:第2室

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○今回案内するのは、杜甫『為農』詩である。

  【原文】
      杜甫:為農
    錦里煙塵外
    江村八九家
    圓荷浮小葉
    細麥落輕花
    卜宅從茲老
    為農去國賒
    遠慚勾漏令
    不得問丹砂

  【書き下し文】
      杜甫:為農
    錦里、煙塵の外、
    江村、八九家あり。
    円荷は小葉を浮かべ、
    細麦は軽花を落とす。
    宅を卜し、茲れ従り老いん、
    農を為し、国を去ること賒かなり。
    遠く勾漏の令に慚づ、
    丹砂を問ふことを得ず。

  【我が儘勝手な口語訳】
    私の庵は錦官城の郊外の里、浣花渓にあって、
    錦江沿いの私の住む村には、八九軒の家がある。
    浣花溪には、蓮が丸い小さい葉を水面に浮かべているし、
    陸地の方では、麦が穂を着け、それを風が揺らしている。
    浣花溪に居宅を建てたからには、この地で私は歳を重ねて行くしかない。
    浣花溪で農業を営もうとしているが、この地は何とも故郷から遠いことか。
    遥か昔、勾漏の県令であったと言う、晋の道士葛洪に、恥じるしかない、
    葛洪は丹砂を得ることができたが、私は農業を営むことが出来るだろうか。

○成都の杜甫草堂が成ったことは、放浪の身であった杜甫にとって、無上の喜びだったに違いない。家族揃っての安息の生活ほど、当時の杜甫の望みは無かった。そういう杜甫の心情は、これまで見てきた『卜居』詩や、『堂成』詩、『客至』詩などに見て取れる。

○反面、杜甫には、成都を安住の地とするには、相当の葛藤があったことも真実なのだろう。そういう気持ちが、この『為農』詩にはよく出ている。安息の日々が訪れたとは言っても、成都は杜甫にとって、異郷の地であることに変わりはない。

○それに、杜甫にとっての正業は、あくまで、任官されて仕事することにあった。安息の生活がそのまま理想の生活であったわけではない。

○昨年夏、商丘から開封、鄭州、洛陽、西安と旅行した。その際、洛陽の近くで、「杜甫故居」の文字を眼にした。それが河南省鞏義市で、杜甫の故郷になる。近くまで行ったのだが、時間が無くて、通過するしかなかった。