サダム・フセイン閣下は偉かった! | ジャンショーグンの農林水産業

サダム・フセイン閣下は偉かった!


帰ってきたジャンショーグンの農林水産業-サダム・フセイン大統領閣下

サダム・フセイン大統領閣下が、アメリカの陰謀による絞首刑を受けて今日で4年経ちます。サダムと言う名は「直進する者」を意味しており、日本語の定に似ています。彼の素晴らしいエピソードを掲載します。


閣下がパキスタンの山村で学校を覗く機会があり、泥レンガ造りの小さな教室で男の子十数人が机に向かっていました。学校の外には同じ年恰好の女の子が群れていたのを見た閣下は「君たちは学校に行かないのか?」と聞くと、私達には学校がないと答えました。 イスラム世界では女児が初潮を迎えると一人前の女と見なされるのです。

と言う事は「女は夫以外の男性と話をしたり顔を見せたりしてはならない」というイスラムの戒律が適用され、だから夫でもない男の子と机を並べる男女共学はありえないし、男の先生に教わる事も許されない訳です。女の先生ならいいが、その女の先生がいない。それなら女の先生を作ればいいのですが、彼女らを教育する女の先生がいないから結局、女の子はいつまでたっても学ぶ機会はありません。 そしてこうやって教室の窓越しに先生の声を聞くだけなのだと言うのです。彼らの学校の傍らをインダス川が流れ、河原に遊牧の民の天幕が見え、チャドルをかぶった女が三人その天幕の前で羊の皮袋を揉んでいました。

羊の乳を入れてそうやって揉んでいるとバターが遊離します。その作業を閣下が写真に収めようと近づいたら、亭主が飛び出してきて長い銃をこっちに向けてぶっ放してきました。「妻は夫の持ち物。他の男が近寄ることは許さない」と言うイスラムの教えが、この発砲を認めています。 コーランは他に「女は男の畑だから好きに耕せ」とか「女はひたすら夫に従順に。反抗したら打擲を加えよ」とか書いてあり、そう言う訳だからイスラム世界では女性が店に立って商売したり接客したりと言う事はありえません。結婚前も結婚後も家に閉じ込められて、一生を過ごします。まるで籠の中の小鳥のように。

そんな女が夫の目を盗んで不倫でも働けば、報いは死刑と決まっているから、男尊女卑もここまで来ると呆れてしまいます。 80年代、イランの古都イスファハンで上司の妻と密通した部下が、邪魔な上司を強盗の仕業に見せかけて殺した事件がありました。判決は部下が殺人罪で死刑・上司の妻は不倫の罪で石打ち刑に処せられ、処刑は聖都コムの河原で執行され、腰まで埋められた妻に十数人の刑吏が「手ごろなサイズ」の石を投げつけて嬲り殺しました。「死ぬまで20分かかった」とケイハン紙は伝えていました。 「不倫は死刑だから、その規定は厳格でなければならない!」


当時、その聖都・メッカのイスラム研修所でのテーマの一つは「地震で2階の床が抜け、裸で寝ていた人妻が1階に転落し、裸で寝ていた男の上に落ちて交接してしまった。人妻は死刑になるか否か」でした。パキスタンでは強姦罪の成立に「4人の証言」を求めており、証言者が3人以下だと被害女性は不倫の罪で処分されます。本来安らぎを与えるはずの宗教が、逆に苦痛と束縛を強いている皮肉。おまけに国民の半分を占める女性を、教育から遠ざけ、家に閉じ込めている。 「これは国家の大いなる損失になる!」と宗教からの脱却を求めたのが、イラクのサダム・フセイン閣下でした。

イランのパーレビ皇帝はそれをやって、ホメイニ師に追放されました。イラクも同じでイスラム聖職者、とりわけシーア派(閣下はスンニー派でした)は彼に対する暗殺を執拗に企て続けます。彼はそれを徹底的に弾圧し、今回、彼に死刑判決をもたらした「シーア派虐殺事件」がそれで、閣下は宗教を超えて自由を求めていただけなのに。


閣下は世俗的な政策を行っており、湾岸戦争までは「西側に最も近いアラブの指導者」と目されていました。サ閣下は「イラク近代化の父」とも呼ばれています。アラブ世界では女性の社会進出が最も進んでいたり(女性の名誉の殺人を禁止したりして、女性の権利を拡大させた)国民の識字率を大幅に向上させ、閣下はユネスコに表彰もされています。


閣下は、こう述べています。

「国民の生活水準は確実に上がった。ある時には僻地の村に送電施設とテレビが無料で配布された」

閣下の壮大な国家創設計画は、諸外国に第三世界のサクセスストーリーとして見られました。閣下はこれらの公共事業において博士号を取得した専門家でさえ、答えに窮するような質問にも軽く答えました。閣下は恐ろしいほど勤勉な男で、一つ一つの事業に参加する前に、長時間の予習を欠かさなかった程です。そしてその勤勉性は確実に閣下のリーダーシップに輪をかけ、そして閣下の鉄の意志は遂に宗教界を黙らせ、イスラム圏にあってイラクだけが、女性に教育と社会活動を保証するまともな国にした功績があります。国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻します。


ただそれが欧米には都合悪かったのです。「アラブ国家は頑迷固陋な宗教に侵ったまま石油さえ供給していればいい。変に民族意識をもっては困る」と言うわけです。特に米国は豊富な油田もあるのに中東から輸入した上で、ガソリン配給制を強いている。それは、石油エネルギーが無くなった中東を、エネルギーを持って覆そうと言う狡猾なものでした。それがアメリカのイラク出兵で、そして閣下は失脚し、閣下と言う重石が取れたイラクは、再び宗教が前面に出てきて、宗派ごとに角突き合いや殺し合いを始めます。


閣下は牢獄に入ります。

閣下は、拘束後に米軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置され、ここでの閣下の生活は、主に詩の創作・庭仕事・読書・コーランの朗読に占められました。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、赤十字から送られた小説145冊が置かれていました。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたと言います。他人に自分の服を洗われる事を拒否し、自分で洗濯を行っていたと言うほど彼は、人に気遣いのできる男でした。


また米国製のマフィンやクッキー・スナックなどの菓子も楽しんでいたとされ、2004年に高血圧やヘルニア・前立腺炎を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていました。自殺を恐れてか、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給されなかったそうです。獄中で閣下は、赤十字を介して、ヨルダンに滞在する長女のラガドや孫のアリー・サッダーム・フセインに手紙を送っています。2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記しました。


2005年5月、英大衆紙「ザ・サン」が、閣下の獄中での生活を撮った写真を掲載。

独房で睡眠中の写真や閣下のブリーフ姿の写真が掲載され、波紋を呼びます。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出します。これは当然ではないでしょうか?2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める国民投票と議会選挙について、閣下は獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出します。


ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、閣下は異常な潔癖症で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れた所、ピロは閣下の信頼を得たと言います。 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない敬虔なムスリムではあったが反面、高級ワインやスコッチウイスキーの 「ジョニー青」と葉巻を好んでいました。


また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護婦が採血に現れたとき、『君は可愛いらしいね』と英語で伝えるよう頼んだとされ、英雄・色を好むとはこの事でしょうか?また影武者存在説については『誰も自分を演じることはできないだろう』・『映画の中の話だ』と否定しました。


2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合い、ある日・閣下はFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せます。また、歴代のアメリカ大統領について、ブッシュ父子には嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ビル・クリントンやロナルド・レーガンについては尊敬の念すら示したと言います。また湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、二つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったと潔く認めます。


一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と国を侮辱されたと言い、「罰を下したかった」と述べたと述べています。


閣下は、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けましたが、ピロ氏から「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか?」と問われた際、閣下は「大量破壊兵器を持っていない事が明らかになると、核を保有しているイランに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えています。また国連による制裁がいずれ解除されれば、核兵器計画を再開できるとも考えていました。


2009年7月1日に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨の事を話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクのWMDが存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せる事の方を恐れたと言います。また閣下は、獄中記でイランを「アラブ諸国にとってイスラエル以上の脅威である」と評しており、イランのイスラーム体制の指導部を「過激派」と呼び、嫌悪しました。一方で北朝鮮については「最も信頼できる友好国」と好意的に評価していました。


またアルカイダとの関係についても否定し、ウサマ・ビンラディン閣下を「狂信者」と呼び、『交流する事も、仲間と見られることも望んでいなかった』とし、逆にアルカイダを政権にとっての脅威と捉えていたと言います。


ピロによれば尋問日程が全て終了すると、閣下は感情的になったと言います。

「私達は外に座り、キューバ葉巻を2~3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」と言います。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想しています。


同様の感想を閣下が収監された米軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元准将も述べており、よく若い監視役の米憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという面倒見の良さを覗わせるエピソードがあります。


カーピンスキーによると閣下は『お前は本当に司令官なのか?』とアメリカ軍に女性の将校がいる事に関心を示し、『新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する』と語ったと言います。これは、彼なりの男女平等論でしょう。閣下自身も弁護士に対し『アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る』・『私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた』と米兵との交流の様子を明かしています。実に懐の深い男です。


また、閣下の世話を担当したロバート・エリス米陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」のインタビューで証言した所によると、看守の米兵達は閣下を勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたと言います。エリス曹長は、2日に1回独房を見回っていました。

ある時、閣下が自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったと言います。自分が農民の子で、その出自を一度も忘れた事はない事、自分の子に本を読み聞かせして寝かせた事、娘がお腹が痛いと言ったときにあやした事等、自身の誇りと親バカな一面を語ったと言います。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めた事もあったと言います。


エリスによれば「不平を言わない模範囚であり、米兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる」ある時、閣下が食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ていますが、彼は実は心優しい男だったのです。


また、閣下がエリスに米兵がマシンガンを撃つ姿をジェスチャーで示しながら『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したと言います。『国連の査察官は何も見つけなかっただろう』とも述べました。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかった時、閣下は「お前はもう、私の兄弟だ」と言って涙を流してエリスを抱きしめ、別れを惜しんだと言います。

処刑台に立つ閣下に「地獄へ行け」と罵る声が記録されています。高潔な最期を迎えんとする者の尊厳を平気で踏み躙ると言う民衆。こんな連中を一つにまとめて、マトモな国家に育てた男の偉大さを改めて思い知らされました。


そして閣下亡き後、閣下は大統領在任中はシーア派・スンニ派・クルド人の対立を抑え込んでいましたが、しかし米国の閣下政権崩壊により、イラクは民主主義になる所か、宗派対立で内戦状態になっており、自爆テロの後が絶えなくなりました。


トルコのギュル首相はユーゴスラビア解体が紛争につながった様に、イラクを「パンドラの箱」と揶揄していました。米国は良かれとやった行為が「藪を突付いて蛇を出したような愚かな事」をやってしまったのです。


最後に一言。サダム・フセイン大統領閣下。貴方は偉大で偉かった!合掌!!