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 金華山は島全体が黄金山神社の神域です。この神社の祭神は、金山毘古神(かなやまひこのかみ)・金山毘賣神(かなやまひめのかみ)・奥殿――頂上大海祇神社(おおわだつみじんじゃ)・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)他三柱――であると『御参拝のしおり』には記載されております。

――引用:『霊場金華山 黄金山神社 御参拝のしおり』より――
『御由緒』
 今から凡そ一二五〇年前、聖武天皇の御代天平二十一年(西暦七四九年)に、陸奥の国守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が朝廷に黄金を献上しました。大仏建立に黄金を必要としていた天皇は大いに喜ばれ、年号を天平勝宝と改められました。この史実は、我が国最初の産金として有名なことであり、この祝事に因(ちな)み、同二年牡鹿連宮麿(おじかのむらじみやまろ)等が相議り国守に請願し、秀麗の地金華山に金を司る金山毘古神(かなやまひこのかみ)・金山毘賣神(かなやまひめのかみ)を奉祀し神社を創建したのが、金華山黄金山神社(きんかさんこがねやまじんじゃ)であります。
 中古以来、神仏習合時代は辯財天を守護神として、別当寺を金華山大金寺と称し多くの信仰を集め、女人禁制を敷きました。
 金華山大金寺は、平泉の陸奥守藤原秀衡公、石巻城主葛西三郎清重公等、時の権力者により多大の御寄進を受け、荘厳美麗を極めました。即ち、東奥の三大霊場(出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し、修行を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていったのです。
 天正の乱の兵火による焼失後も下野国(しもつけのくに)岩倉の僧成蔵坊長俊(栃木県日光山の僧正)により大金寺は再興され、代々真言宗にて祭祀が奉じられました。その後、伊達政宗公を始め伊達家累代の熱心な崇敬のもと、年毎に隆盛をきたしました。
 そして明治二年には、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社と復古し、女人禁制も解除されました。この際、御祭神も復古し金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥殿(奥ノ院)大海祇(おおわだつみ)神社の御祭神には大綿津見神(おおわだつみのかみ)・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ 仏号・辯財天)他二柱が奉祀されました。

 この『御参拝のしおり』には、今引用した「御由緒」とは別に「御神徳」の項もあります。そこには、金運・開運・商売繁盛についての御神徳はもちろんのこと、神仏混淆の名残でもある弁財天についての説明があります。そしてそこには金華山が有するもう一つの大きな勲章についても触れられております。それは、こちらの弁財天が、「東奥の三大霊場」どころか、「日本五大辯財天の一社」に数えられている、という旨です。
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 日本五大弁財天とは、「大和国――天河神社:奥社弥山神社」、「安芸国――厳島神社:大願寺」、「近江国――竹生島神社:宝厳寺」、これらのいわゆる「日本三大弁財天」に、「相模国――江島神社:江島神社(弁財天)」、「陸奥国――金華山黄金山神社」の二社が加わったものを言います。
 金華山以外で社寺を併記しているのは、先に触れた「神仏混淆」あるいはその逆の「神仏分離」の名残であることは言うまでもありませんが、金華山についても、『御参拝のしおり』にあるとおりかつては黄金山神社の前身として「金華山大金寺」があり、弁財天を守護神として幅広い信仰を集めておりました。
 弁財天はヒンドゥー教の女神サラスヴァティーのことであり、これを神道風な“神”としてはもちろん“仏”と分類するのも本来的な姿ではないのですが、日本人の心優しいハイブリッドな宗教観の中にあっては八百万の神の一柱に違いなく、例にもれず神仏として習合されておりました。
 したがって、外来の神を排除して“絶対神”天照大神の下に日本の神を純化すべき明治の廃仏毀釈の下では、弁財天も十分“仕分け”されるべき神であったはずでしょうが、多くは宗像三女神ないし市杵島姫神として神社化され、継承されていったようです。
 余談ながら、『街道をゆく(朝日新聞社)』の中で、著者の司馬遼太郎さんが弘法大師空海について考えながら高野山のケーブルカーに乗って車窓の風景を眺めていたくだりで、二十六、七歳のご自身が、「もし当時、キリスト教が導入されたとしても、仏教の一法門として処遇されたのではないか」と空想をしていたことに触れておりました。神仏混淆について考えるとき、この一言はかなりの卓見であったと気付かされざるを得ません。
 多くの聖地がそうであるように、金華山についてもおそらくは“原金華山信仰”とでも呼ぶべきなんらかのローカルな信仰はあったことでしょう。それとは別に、古くは丸子氏――牡鹿連:道嶋氏――、その後は安倍氏なり照井氏――広義には奥州藤原氏――、そして葛西氏から伊達氏へと領主が変遷していったわけですが、当然ながら少なからず彼らの信仰の影響も受け続けていたに違いありません。
 一方で特に中世以降修験者や原理主義的宗教家などの無国籍性・遊撃性(?)のある動きによってランダムに伝播した信仰もあったはずで、またそれは中央集権化された為政者のそれよりも土民の心根に身近で等身大に染み入ったに違いなく、他地域との交流が希薄な時代にあってその影響力は侮れないものであったことでしょう。あるものは消え、あるいは土着の思想の根底として息づき、また新たなものが被り被されながら浮沈を繰り返し、平面軸・時間軸ともにそれらが幾層もの地層のように積み重なって、現在の金華山信仰があるはずです。
 その地層のとある一層に、ふと私の興味を惹きつけるものがありました。それは今は無き「真言宗金華山大金寺」の略縁起にあった伝承です。それが正しく伝わっているものか否かは推し量る術もないのですが、要約すれば、次のようなことを語っております。

1、金華山は大巳貴命と久延彦大神が国土形成のおり金を集めて練り固めた島である
2、その島の頂上水晶石に天照(あまてる)太神の分魂(わけみたま)たる富主姫大神が天降った
3、後世、それを祀ったのが黄金山神社である
4、富主姫大神は、天上――天つ国?――においては弁才天女という大神であった
5、天地開闢において如来の開経、菩薩の万行も悉く弁才天女の秘蔵より出たものである
6、金華山は日本五椿且つ弁才天女垂迹の第一である
7、金華山は日本黄金の大根が故、産金を厳しく戒められていた
8、山頂の竜蔵権現は天竺無熱地の善女で竜王十一面観音の垂迹であり、弁才天女である
9、その尊像は竜宮よりあがりたまう秘仏である
10、弁才天女は大日如来の垂迹である
11、弁才天女は西方極楽浄土にては阿弥陀如来として現れる
12、弁才天女は娑婆――俗世――では観世音菩薩として現れる

 先に、「金華山で実際に金が採れた事実はない」ことが、東大寺の大仏塗金の金が金華山発のものでなかったことの傍証になっていることに触れました。しかし、この略縁起を信じるならばそもそも「採ることが出来なかった」わけですから、「採れた事実――記録――がない」のもあたりまえという気がしてきます。仮に実際には採れていたとしても、神域である以上それを公にするわけにはいかなかったのではないか、と考えたいところです。
 ところで、大金寺の略縁起によれば、弁財天はどうやら最高位の存在であるようです。なにしろ、真言宗において如来中の如来であり宇宙の中心たる大日如来が、当の真言寺院であるこの大金寺において弁財天と同一視とされていることは驚く他はありません。さらに、その弁財天が西方極楽浄土にては阿弥陀如来であり、娑婆世界にては十一面観音であり、と、もはや「仏教の教義とはなんぞや」と言いたくなるほど自由自在の物言いで、悪く言えば支離滅裂で、頭がおかしくなります。明治に廃されてしまった理由もなんとなくわかる気がしますが、個人的興味としてこの怪しさは実にそそられます。
 拙ブログを長くお読みいただいている方なら、私がこの略縁起において特にどこを注目したかにお気付きかと思います。ちなみに、いくら私がウチのカメさんに竜宮城に連れていってもらいたいからといって、「竜宮からあがりたまう秘仏」ではありません――いや、それも妙に魅力的ですが・・・――。私が惹きつけられたのは天照太神の分魂なる「富主姫大神」です。ここでの天照はアマテラスと読まずアマテルと読んでいるので、必ずしも天照大神と同じかどうかはわかりませんが、いずれ、久々に「トミ」が出てきました。この女神はトミヤビメとなにか関係があるのでしょうか。記紀におけるトミヤビメは、トミビコ――ナガスネヒコ――の妹であり、かつ、ニギハヤヒの妻でありました。これは、『先代旧事本紀』におけるニギハヤヒが「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」と表記され、天照を冠して記載されていたイデオロギーと決して無縁ではないことでしょう。
 そもそも分魂(わけみたま)とは一体なんぞや・・・。分祀とはどう意味が異なるのでしょうか。分祀であれば、神名はそのまま天照でもよさそうなものです。おそらくここにはなんらかの意味をこめているものと考えます。
 悠久の時の流れを信仰され続けてきたであろう金華山の歴史において、この特殊な真言宗寺院の影響下にあった時間がはたしてどのくらいなのかはわかりませんが、もしかしたら金華山信仰を広く旺盛なものに仕立て上げたのも案外この一派なのかもしれません。あるいはその逆で元来金華山が保有する霊性にこのような一派が引き寄せられたのかもしれません。その真偽のほどは定かでありませんが、せっかくであれば、この大金寺が語るように神代の昔にオオクニヌシとクエヒコが日本中の金を集めて練り固められた島であってほしい、などと夢想したりもしております。
 帰路、往路に比べて定期船は満員でした。熱い日であったにもかかわらず、冷房の効いた船内は人気がなく、皆屋外デッキに押し寄せました。先に屋外デッキに腰をおろしていた私は、座れない子供たちに気まずさを感じ、譲って船内に移動するタイミングを見計らっていたのですが、続々乗り入れる乗客の中にあって既に身動きも取れず、そのまま現実から目をそむけ海を見つめておりました。船が港を出ると、デッキ上はにわかに賑やかになりました。よく見ると皆「かっぱえびせん」を手にしており、あたかも棟上げ式のごとくそれらを海にばら撒き始めたのです。
 「なるほど、そういうことか」
 ウミネコたちがミャーミャーと船を追いかけてきました。ウミネコたちは熾烈な競争の中、海に落ちたかっぱえびせんをも我先に拾うべく争いながら波間に突入するシーンもありました。この船が何ノットで移動しているのかはわかりませんが、彼らはつかず離れず猛スピードで随行し、気がつけば既に10分以上はその状況が続いておりました。彼らのスタミナは一体どうなっているのでしょうか・・・。野生恐るべし・・・。
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