実は古代から正確な日本地図は存在していた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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神社の位置に関して、三つ以上の神社が直線上に並ぶ聖なるラインを引くことが出来、これを日本列島に適用すると例えば8000年前の縄文時代の環状列石や各地の巨石群(磐座)から各地の神社が一つのネットワークとして接続されることが分かった。そして、環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設であり、特に環状列石によって各地の経度を求めることが出来る。すなわち、聖なるラインのネットワークにより日本列島の測地網が構成出来た。この測地網は地球規模に広がることも分かって来ている。地球が丸いことや地動説はもちろん、現代の天文学に匹敵する知識をもっていたのは当然である。

この測地網があれば、日本地図の作成(メルカトル図法)、暦の作成、日食の予測などが可能となる。確かに、日食の予測は遅くとも4000年前にはあったことが知られているし、卑弥呼は日食の予測に失敗して殺されたという説もある。安倍晴明の陰陽師はこの職業であった。弘法大師の真言宗は宇宙の仏の言葉を研究していたが、まさに天文観測をしていたと考えられる。

それなのに、世に知られている日本最古の地図の行基図は8世紀ころから、ほとんど変化なく使われ、まともな地図は19世紀の伊能忠敬によるものであった。庶民には精密な地図は不要であり、暦の作成や日食の予測などは卑弥呼など支配者の役割であったので、正確な天文学の知識はごく限られた上位の人々(神官や僧侶レベル以上)だけであったのであろう。

大雑把な日本地図である行基図が作られた8世紀ころに建立された多賀城碑には、ここ(今の仙台あたり)から国内の拠点までのほか、日本海を越えて靺鞨(今の北朝鮮より北の地域)までの距離が書かれており、実は正確な地図が存在していたのである。


参考

① 日本地図の歴史

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行基図(1548、参考)、行基(668~749年)が作ったとされ、以来800年間、ほぼ同じ地図が使用された。

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最古級(15世紀ころ)の世界地図「混一疆理歴代国都之図」(参考)

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テイセラの日本(1595、参考)

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ゼンリンバーチャルミュージアム(参考)より

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伊能大図(1821年江戸城で公開、参考)


② 日食予報の歴史(wikiより)

日食や月食の予報は、まだ地動説はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行なわれていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。

古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国では、紀元前2000年頃のの時代に、義と和という2名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、という有名な話が『書経』に記されており、事実であれば当時既に日食の予報が行なわれていた事になって、世界最古の日食予報になるが、多くの学者の研究にも関わらず該当する日食がなく、この記事そのものの信ぴょう性も疑われている

中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。

このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。

1183年治承・寿永の乱水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある


③ 卑弥呼の死と日食(wikiより)

天文学者斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。さらに、橘高章安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。


④ 多賀城碑(参考)

762年建立の多賀城碑には、日本海の向こうの靺鞨までの距離が書いてある。

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