父紅緑ゆずりの反骨精神が常にその言動にあらわれて、「怒りの愛子」とも言われている。
さらにそれゆえに自立を目指し、女優となる。そして、劇団を持つ人気作家・佐藤紅緑との出会いがシナの運命を大きく変える。
著者の母、女優・三笠万里子の波乱にとんだ生涯を描いた長編。
村民の大半は農民で、後に海水浴場として開けた海岸には、いくらかの漁民が瀬戸内海の鰺や鰯を獲って生計を立てていた。
その鳴尾村の苺畑のひろがりの西のはずれの小さな集落を西畑という。
西畑は武庫川の支流の枝川という川に沿って海岸までつづいている松林の堤の下にあるのだが、その松林の堤の際に建っている三階建の家といえば「佐藤紅緑はんの家」として誰もが知っている。
海水浴場のまわりは水族館や遊園地でとりまかれ、競馬場は近代風に改装された。
松林の下の小川は埋めたてられ、瀟洒な喫茶店やアパートやレストランが増えた。
一日のうちに数えるほどの乗客しかなかった、小さな海岸線の電車は車体が大きくなり、数も増えた。
自身が育った鳴尾の想い出も書かれていて、その当時の鳴尾の様子がうかがえる。
(失われゆくふるさと)
私のふるさとは兵庫県の「鳴尾」である。私がそこにいた頃は「武庫郡鳴尾村字西畑」といっていた。だが今はそこは西宮市という。
鳴尾が西宮市という名称に変わってから、そこは私のふるさとではなくなってしまった。
私の育った家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあった。大阪から阪神電車で帰ってくると(中略)青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高く、私の家の三階が見えたものだった。
その周りの家々と共に、空襲によって消失してしまった。その界隈は今、昔を偲ぶよすがもない(中略)私の家があったところは、小さな公園のようなものになっている。
かつて鳴尾は苺の名産地として有名であった。村の大半は苺畑で、私たちの住んでいた西畑という村の外れのその集落を出外れると、もう苺畑が広がっているのだった。
小学校の周りも苺畑だった。鎮守のお宮も苺畑の中にあった。苺畑の中を阪神電車が風を切って走っていた。見はるかす苺畑の東の果ては武庫川の土手の松林が蜿蜿と海に向かって伸びているのだった。
「苺狩り」という言葉を私は覚えている。大阪や神戸から、子供連れの人々が苺狩りにやってきたのだった。苺の種類には、「大正」とか、「とっくり」とかというものがあった。
何もかも変わってしまった。変わらないものといえば、甲子園球場の蔦の緑くらいなものだ。甲子園球場の自慢の大鉄傘が取り外された日のことを私は覚えている。
甲子園の駅から海へ向かって小さな路面電車が出ている。夏は日に何千という海水浴客を運んだ電車である。その電車道の両側はプラタナスの並木だった。
私が小学校五年生のとき、私の家は駅の近くの三階建の家から、路面電車で北へ行った、二停留所の五番丁というところに引っ越しした。
野球場の近くに、野球見物の人のための飲食店が並んでいる。(注略)その中の一軒の店に「甲子園」という飲食店がある。その女主人は私が幼い頃に近所のパン屋であった「しみず」のおばさんである。
(思い出話)「ママはいったいどんなところに住んでいたのよ?」「鳴尾村という苺の名産地」と答えて思い出した。「村中苺畑ばっかり。それで子供がみな、お腹の中に・・・・」
(狂気の時代)私は大阪に生まれたが、育ったのは兵庫県西宮市甲子園(当時は武庫郡鳴尾村)である。阪神電車で大阪まで小一時間(当時)、神戸もだいたい同じようなものだったと思う。だが私の知っている町といえば、せいぜい西宮、芦屋ぐらいなもので、大阪も神戸も語るほどは知らない。
佐藤愛子さんの通われた鳴尾尋常小学校の落成当時のモダンな校舎
作家・佐藤愛子「気がつけば、96歳。もうこれでおしまい」
──新刊のタイトルは『気がつけば、終着駅』。どういう思いでつけられたのでしょうか。
もうおしまい。それだけのことですよ。とにかく、まっしぐらに生きてきました。あまり先のことを考えずにここまできたけれど、気がついたら人生の終わりに来ていた。