ブラポニョ☆文学散歩
佐藤愛子
西宮市
小説家の佐藤紅緑を父に、女優の三笠万里子を母として生まれる。異母兄に詩人のサトウハチロー、脚本家で劇作家の大垣肇がいる。
上京して後、ハチロー宅から双葉女学院に通う(中退)北杜夫、田畑麦彦らと「文芸首都」の同人となる。「戦いすんで日が暮れて」で直木賞受賞。「幸福の絵」で女流文学賞受賞。佐藤家一族の歴史を描いた大作「血脈」で菊池寛賞受賞。
父紅緑ゆずりの反骨精神が常にその言動にあらわれて、「怒りの愛子」とも言われている。


現在の甲子園警察署の北にある西畑公園あたりに父佐藤紅緑の家がありました。

この近所には、森繁久弥の生家菅沼家をはじめ、検事、判事などの文化人が住んでいた。

佐藤愛子は、紅緑が本妻と離婚後に女優三笠萬里子との間に生まれた一人娘であった。この自宅から甲南高等女学校へ通っていたが、在学中は男子生徒の注目の的で、その中の一人には作家の遠藤周作氏もいたという。

佐藤紅緑は「少年小説の第一人者」として知られ、作詞家で詩人のサトウハチロー、小説家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇の父。3人とも母は異なる。
血脈
【あらすじ】
著者の父、作家佐藤紅緑(洽六)の人生とその血を色濃く引いた息子たち、特にハチローを中心に描かれた自伝的家族の物語。1923年、外遊先で関東大震災の知らせを聞いた紅緑は夙川に映画撮影所が出来、そこの撮影所長の依頼を受け、兄の縁で嗚尾に住居をかまえる。

【作品引用】
空には雲雀。見渡す苺畑。 れんげ畑の牡丹色に菜の花畑の黄色。 春風にのって漂ってくる肥溜の臭い。 阪神電車がその真ん中を風を切って突っ走って行く。弥と菅沼は電車に向って石を投げる。草むらに蛙を見つけて、後足を持ってま二つに引き裂く。

女優万里子
【あらすじ】
八歳で養女に出されたシナは、その環境ゆえに余計なことを言わぬ無口な子として育つ。
さらにそれゆえに自立を目指し、女優となる。そして、劇団を持つ人気作家・佐藤紅緑との出会いがシナの運命を大きく変える。

著者の母、女優・三笠万里子の波乱にとんだ生涯を描いた長編。

【作品引用】
兵庫県武庫郡鳴尾村は、武庫川の西側にひろがる一望の苺畑の中の集落である。
村民の大半は農民で、後に海水浴場として開けた海岸には、いくらかの漁民が瀬戸内海の鰺や鰯を獲って生計を立てていた。

その鳴尾村の苺畑のひろがりの西のはずれの小さな集落を西畑という。

西畑は武庫川の支流の枝川という川に沿って海岸までつづいている松林の堤の下にあるのだが、その松林の堤の際に建っている三階建の家といえば「佐藤紅緑はんの家」として誰もが知っている。
✳️愛子一家が引っ越しした後は、阪神タイガースの初代合宿所(協和寮)となりました。戦時の空襲で消失しました。
愛子
【あらすじ】
全ての人に愛されるようにとの親の思いを名に持つ愛子の青春と一風変った家族との関係が描かれた作者自身の自伝的な作品。
【作品引用】
町は変った。甲子園の停留場前の広場には、”スポーツの殿堂”のアーチが立った。
野球場のそばには水泳競技場が出来、広大なテニスコートが増えて行った。

海水浴場のまわりは水族館や遊園地でとりまかれ、競馬場は近代風に改装された。

松林の下の小川は埋めたてられ、瀟洒な喫茶店やアパートやレストランが増えた。

一日のうちに数えるほどの乗客しかなかった、小さな海岸線の電車は車体が大きくなり、数も増えた。

これが佐藤愛子だ
【あらすじ】
これまでに発行しているエッセイ集の中から、年代ごとに選んだ自賛のユーモアエッセイ集。当時の世相もまとめてあり、時代の変化も見ながら読むと面白い。
自身が育った鳴尾の想い出も書かれていて、その当時の鳴尾の様子がうかがえる。
【作品引用】

(失われゆくふるさと)
 私のふるさとは兵庫県の「鳴尾」である。私がそこにいた頃は「武庫郡鳴尾村字西畑」といっていた。だが今はそこは西宮市という。
 鳴尾が西宮市という名称に変わってから、そこは私のふるさとではなくなってしまった。

私の育った家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあった。大阪から阪神電車で帰ってくると(中略)青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高く、私の家の三階が見えたものだった。

その周りの家々と共に、空襲によって消失してしまった。その界隈は今、昔を偲ぶよすがもない(中略)私の家があったところは、小さな公園のようなものになっている。

かつて鳴尾は苺の名産地として有名であった。村の大半は苺畑で、私たちの住んでいた西畑という村の外れのその集落を出外れると、もう苺畑が広がっているのだった。

小学校の周りも苺畑だった。鎮守のお宮も苺畑の中にあった。苺畑の中を阪神電車が風を切って走っていた。見はるかす苺畑の東の果ては武庫川の土手の松林が蜿蜿と海に向かって伸びているのだった。

「苺狩り」という言葉を私は覚えている。大阪や神戸から、子供連れの人々が苺狩りにやってきたのだった。苺の種類には、「大正」とか、「とっくり」とかというものがあった。

何もかも変わってしまった。変わらないものといえば、甲子園球場の蔦の緑くらいなものだ。甲子園球場の自慢の大鉄傘が取り外された日のことを私は覚えている。

甲子園の駅から海へ向かって小さな路面電車が出ている。夏は日に何千という海水浴客を運んだ電車である。その電車道の両側はプラタナスの並木だった。

私が小学校五年生のとき、私の家は駅の近くの三階建の家から、路面電車で北へ行った、二停留所の五番丁というところに引っ越しした。

現在は企業の寮になっていて外周の石垣が残っている

野球場の近くに、野球見物の人のための飲食店が並んでいる。(注略)その中の一軒の店に「甲子園」という飲食店がある。その女主人は私が幼い頃に近所のパン屋であった「しみず」のおばさんである。

(思い出話)「ママはいったいどんなところに住んでいたのよ?」「鳴尾村という苺の名産地」と答えて思い出した。「村中苺畑ばっかり。それで子供がみな、お腹の中に・・・・」

(狂気の時代)私は大阪に生まれたが、育ったのは兵庫県西宮市甲子園(当時は武庫郡鳴尾村)である。阪神電車で大阪まで小一時間(当時)、神戸もだいたい同じようなものだったと思う。だが私の知っている町といえば、せいぜい西宮、芦屋ぐらいなもので、大阪も神戸も語るほどは知らない。

佐藤愛子さんの通われた鳴尾尋常小学校の落成当時のモダンな校舎

作家・佐藤愛子「気がつけば、96歳。もうこれでおしまい」

ベストセラー『九十歳。何がめでたい』など、軽妙洒脱なエッセイが人気の佐藤愛子さん。このたび初エッセイから最新まで本誌掲載作を収めた『気がつけば、終着駅』が刊行されました。人生の終わりを見つめる佐藤愛子さんの胸のうちは(構成=本誌編集部 撮影=宮崎貢司)

──新刊のタイトルは『気がつけば、終着駅』。どういう思いでつけられたのでしょうか。

もうおしまい。それだけのことですよ。とにかく、まっしぐらに生きてきました。あまり先のことを考えずにここまできたけれど、気がついたら人生の終わりに来ていた。

私の干支は亥ですからね。猪突猛進してきて、80代までは歳のことを考えなかった。それが90を過ぎると五感は衰え、体はあちこち悪くなってきて。そこで初めて人生の終わりに来ていることに気がついた、ということです。

おしまい( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆