ゴールデンウィークも終わろうとする頃、園内で真面目そうな人たちが、なにかビラを配っています。

聞くと、「原三溪市民研究会」という市民団体の人たちで、記念館のなかで原三溪クイズというのをやっているとのこと、早速クイズに参加して、三重塔をデザインしたピンバッチをいただきました。もちろん、全問正解でした。

 

原三溪の伝記あれこれ

ところで、「原三溪市民研究会」って、どういう団体なのでしょうか。

ホームページを開いてみると、「藤本實也著『原三溪翁伝』を読み解くことを目的に集まってできた市民グループ」だそうで、その解読を通して原三溪に関わる調査研究と原三溪の業績の普及に務めるとしています。スローガンは「三渓を学ぶ、三溪に学ぶ」だそうです。

 

では、藤本實也著『原三溪翁伝』とは、一体どんな著作物なのでしょう。

その著作物の実物を拝見すると、900ページ近い分厚い学術書で、16,000円もします。

   (株)思文閣出版、編者は三溪園保勝会+横浜市芸術文化振興財団、発行日2009年となっています。

 

この本から、まず著者の藤本實也さんを調べてみます。(以下敬称略とします。)

藤本實也は、明治8年(1875)山口県の農家に生まれ、明治32年には、農務省東京蚕糸講習所(東京農工大学の前身)を卒業して、農務省の横浜生糸検査所に入所します。実務の合間に、生糸貿易の研究を始め、「日本蚕糸業史」の一部を執筆するなどの著作にも励み、のち、「開港と生糸貿易」、「富岡製糸場史」などを著します。その延長上に、原三溪の研究があり、稿本「原三溪翁伝」があるわけです。

この稿本ですが、昭和20年(1945)、奇しくも終戦の翌日に書き終えますが、時勢もあり、そのまま世に出ぬまま、書庫で眠り続けることになります。

ようやく、昭和55年(1980)頃になって識者によって再発見され、関係者の努力により平成21年(2009)に、幻の著書が刊行されることになったというわけです。その過程で、2007年、この市民研究会が発足したという経緯があったといいます。

 

さて、経緯はさておいて、藤本著「三溪翁伝」を手にしてみました。

序文の出だしは「三溪原富太郎君は近代稀に見るの偉人なり。…」と格調の高い文で始まります。

最近の、やわな文章に慣れた私などには、なかなか読み続けられません。また著者の経歴上、三溪の生糸業界、公共事業での活躍する記述が多くなっていますので、ますます取りつきにくくなっています。ときどき、必要となる項目を索引で探しては、拾い読みする程度の利用となってしまいます。

 

「三渓」の伝記的な著作としては、他に、

  ★白崎秀雄著「三溪 原富太郎」 新潮社 1988年刊

  ★新井恵美子著「原三溪物語」 神奈川新聞社 2003年刊  がよく知られています。

白崎秀雄(1920~1992)は、小説家・美術評論家です。伝記小説という分野で活躍し、著書には、「北大路魯山人」、「尾形光琳」のほか、三溪の盟友「鈍翁・益田孝」、「耳庵・松永安左エ門」の伝記も著しています。

新井恵美子(1939~)は、横浜を題材にした小説を多く著しています。

 

ちょっと、専門的な角度から 三溪を語った著書には、

  ★西和夫著「三溪園の建築と原三溪」  有隣新書 2012年刊  (建築家から見た三溪園の建物を軸に)

  ★齋藤清著「原三溪:偉大な茶人の知られざる真相」 淡交社 2014年刊  (三溪の茶会記を基に茶の湯の観点から)

  ★三上美和著「原三溪と日本近代美術」 国書刊行会 2017年刊  (古美術収集と美術家支援のこと)

もう絶版となっている本も多いようですが、参考のために!

ということで、これらの本を拾い読みした経験から 私なりに感銘を受けた 原三溪の生き方を紹介していきたいと思います。

 

これまでにもこのブログのなかで、三溪園を紹介するついでに、ポツリポツリと三溪のことを紹介してきました。

第44話(2017,2,5)では、三溪こと青木富太郎青年の生い立ちを紹介しています。そのなかでは、富太郎と原家をむすびつけた跡見花蹊との交わりについても語っています。

また第22話(2016,9,4)では、古美術収集家としての三溪を、第34話(2016,11,20)では実業家としての三溪の活躍の要点を述べています。他にも折に触れて三溪のことを紹介してきましたが、まだまだ語り足りません。

そこで、私が感銘を受けた三溪の生き方を、これから少しずつ紹介していきたいと思います。

 

三溪と屋寿夫人の出会いから

その手始めに、有名な(?)青木富太郎と原屋寿とのロマンスのはなしから始めましょう。

このことは、以前にも紹介しています(第44話)が、今回は、ここで紹介した三冊の伝記の記述を通して比較してみたいと思います。

 

ロマンスのはなしは小説風に描いた方が似合います。

新井著では、まさにロマンチックに描かれています。

『富太郎の憂いとは逆に、その日の新橋ステーションはひどく華やいでいた。

…この日、岐阜から帰京したばかりの富太郎も感傷的になりながら明るい電気の下に立っていた。

その時だった。富太郎の前を一人の女学生が通り過ぎた。…通り過ぎた女性が急に前かがみになったのだ。下駄の鼻緒が切れたのだった。富太郎は駆け寄って、懐の手拭いを取り出し、彼女の下駄を取り上げると無言のまま、あっという間に鼻緒のすげ替えをしてしまった。…女学生は頬を染めて富太郎に礼を述べた。

ふと、その女学生の顔を見て、富太郎は驚いた。それは見知った顔だったのだ。

「跡見女学校の方ではありませんか。」との問いかけに女学生もまた、驚いて答えた。

「ハイ」と言ってから

「まあ、青木先生」と言ったきり絶句してしまった。

それは青木富太郎と原屋寿子とが運命の出会いをした日だったのだ

…こうして恋の花は突然に咲いた。

…やがて、跡見学園では青年教師と女生徒の美しい恋物語は人目にもつき、話題にもなっていった。…』

 

これに対し、藤本著では簡潔に述べています。

『…三溪翁は跡見女学校に教鞭を執っていたが、会々同女学生原屋寿子嬢と相思の間柄となった。…

三溪翁は眉目秀麗の貴公子然たる風采で殊に才能優れた前途有望の青年で花蹊校長の信用厚く、女教員や女学生の中にも潜かに思慕の情を深めつつあるものも寡からぬ様子である。当の屋寿子夫人は一旦思ひを懸けた願望は遂げられなければ已まない固い固い決心は抛つことは不可能である。…』

少々無骨な表現ですが、事業家としての三溪を語る立場からは、こうした経緯は簡単に済ましてしまうのは当然でしょう。

でも、それでも文章の合間から、二人の結びつきについて、屋寿夫人の方が積極的だった様子が、なんとなく感じられます。

 

白崎著は、伝記作家らしく、いくつかの伝承を、冷静に比較検証しています。

『定説化した「ストーリー」をまづ引こう。青木富太郎は、20歳で上京すると、跡見女学校の助教師となり、傍ら東京専門学校で政治と法律を学んだ。跡見学園へ通っていた原善三郎の孫娘やすは、富太郎にあこがれ、やがて相愛の仲となった。富太郎は青木家の戸主だったから、非常な困難があったのを、跡見花蹊が種々世話をして、ようやく婚姻が成立した、云々。…このような青木助教師と女生徒安の相愛説は、古くから三溪の身辺でも伝えられていたようである。…

実は、跡見女学校あるいは花蹊の文献資料には、青木富太郎が教師だったことを証する文言は見当たらない。

一方、原安子が、明治17年に跡見女学校に入学したことは資料がある。

(推測になるが、)富太郎は、若い頃美男振りを以って鳴った。(もし、伝えられるように新橋ステーションで出逢ったとすれば)いとも自然に、親切をつくして立ち去った彼が、彼女の眼にいかに鮮烈な印象を以って映じたかは察するに難くない。…たまたま、跡見女学校と早稲田の東京専門学校は、となりといってもいいほど近い。…

そういうことから、花蹊がやすの意向をよく確かめた上で、富太郎に原家への婿入りをすすめたことは、大いにありうる。二人の間になにかないと、花蹊が敢えて富太郎を、横浜市会議長にもなった原善三郎の家へ すすめるということは、やや唐突に過ぎたかもしれない。… 』

 

実際、花蹊と富太郎がどのように知り合ったかについてだけでも、いくつかの説があります。

いずれにせよ、富太郎と知り合った花蹊は、この青年に好感をもちます。

一方で、教え子の原屋寿子の実家で、有力な支援者でもある横浜の実業家・原家の実情にも通じていました。

富太郎を見込んだ花蹊は、彼に原家への婿入りを勧めることになります。

この頃、富太郎が書いたというノートのなかで、花蹊が明治23年、彼に原家への婿入りを勧め、断ったところ、翌年にまたすすめられたと記しています。

かくして、話が進み、花蹊は富太郎と同道して、(岐阜の)父母を訪れています。このことは、父久衛の日記の記述に符合します。すなわち「本日午後、東京より富太郎、跡見(花蹊)相見得候」と書かれています。何しろ、富太郎は青木家の戸主として家督を継ぐ立場にありました。花蹊の説得もあり、ようよう、弟に家督を継がせるということで問題を解決します。

原家でも、善三郎は当初、富太郎との縁談に反対だったといわれています。この反対を押し切ったのは、ここでも、声望ある花蹊の説得であっただろうと、著者は推測しています。

紆余曲折を経て、明治24年6月、二人はめでたく結婚します。そのとき、富太郎は23歳、屋寿に至っては17歳という若さでした。

いずれにしても、結果として、富太郎は原家の家業を発展させ、夫婦は生涯、仲睦まじく過ごした、といいますから、万々歳でしょう。

 

改めて三溪園にある資料で、二人の顔写真を拝見しました。

藤本が「眉目秀麗の貴公子」と評したように、確かに富太郎青年、なかなかハンサムですね。

お似合いの若夫婦だったことが窺われます。

 
 

取り急ぎ、付け加えます。

先日の新聞を見てビックリしました。(5月11日付、朝日新聞)

原範行さんの訃報です。昔風にいえば、原家のご当主です。4月23日に亡くなっていたんですね。89歳とあります。

記事には、ホテルニューグランド相談役名誉会長とありますが、原三溪および三溪園と関係する文字はどこにも見当たりません。

ちょっと、寂しいと思い、ここで改めて原家と範行さんのことに触れたいとおもいます。(第83話分 再掲、敬称略)

三溪こと原富太郎・屋寿子夫妻には二男二女がありました。長男の善一郎には子供がいないことから、次男の良三郎の娘・昭子に婿を取り、善一郎の養子として原家を継がせることになります。それが範行です。

この範行ですが、旧姓は吉岡で、祖父は熊本出身の海軍大将、父は外交官(バチカン大使)でした。ちなみに母方の祖父は青木周三で、維新後、外務大臣として、不平等条約の改正などで活躍しています。

範行は、原家に入籍後、原家が筆頭株主であった「ホテルニューグランド」の社長・会長を永らく務めていました。(1983~社長、2003~2018会長)  ついでながら、範行の後を継いで会長になった原信造は、範行の娘婿となります。考えてみると、原家は三溪をはじめ、「娘婿」が続きますね。

なお、老舗ホテルを改革すべく、タワー棟を企画、実現させたのは範行社長時代の功績となります。

奇しくも三溪生誕150年を目前に、もう一世代が消えていくことになったわけです。

ご冥福をお祈りいたします。