あちこちで、桜開花のニュースが流れてくるようになりました。

三溪園でも、名残りの梅の花の合間に、チラッと桜の花も覗けるようになりました。

なかでも、燈明寺本堂前の「淡墨桜」が、最も早いようで、もう3~5分咲きといったところでしょうか。

矢箆原家住宅前の「荘川桜」は、まだ数輪開いたという感じです。(3月17日現在)

今度の週末が楽しみです。

 

「庭のはなし」まとめ

さて、三溪園の庭石やら樹木のはなしを何回かにわけて、続けてきました。

ここらで、庭のはなしを纏めておきたいと思います。

 

三溪園を造った三溪の、庭への想いや、考え方など、だいぶ以前に何度か紹介しています。

(第4話 2016,6,23付  第15話  2016,7,31付、  第37話  2016,12,11付)

 

ここでは、日本における造園の歴史を辿ってみたいと思います。

幸い、庭についてトータルに語った雑誌を見つけました。

 小学館発行ウィークリーブック「日本庭園を行く」(全30巻)です。

 

その「発刊のことば」には、次のように書かれています。

「私たちは、美しい庭に出会うと心が安らぎます。眼鮮やかな緑、可憐に咲く花、様々な姿の石、それらを映す池の水、さらに竹垣、敷石、灯篭、つくばいなどが配置され、そこに自然と人間と幸せな融合が見られるからでしょう。また、庭はひとつの世界とも宇宙ともいえます。それだけに、作り手の意とするところを正しい知識で受け止めれば一層深くその魅力を味あいことができます。

 

この雑誌のなかから、庭園の歴史について語っている部分、少々長くなりますが、抜粋させてもらいます。

 

「日本庭園の歴史」

大陸から庭園文化が伝わってきたのは飛鳥時代のこと、仏教や道教とともにやってきたのであろう。

日本人は大木や石などに八百万の神々が宿っているとする信仰を持っていた。大きな石にしめ縄を張り、その周りを清める、これを「庭」と呼ぶならば、このアニミズム信仰は外来の庭園文化を率直に受け入れる器になっていたともいえるだろう。また、3世紀末より300年ほど続いた古墳文化は、石を扱う技術を高度に発展させた。この古墳文化が石組などを多用する、日本的庭園の基礎となった面もあるといえる。

 

平安朝藤原氏の時代から渡来文化を消化し独自の文化を造り出すという国風化が書や建築分野を中心に始まった。

かなり早くから和風化が進み、平安時代の寝殿造りの館につくられた池泉庭園から、さらに発展して、池に舟を浮かべて遊ぶ舟遊式庭園になっていく。

また画期的であるのは、浄土式庭園の誕生である。浄土信仰は大陸からもたらされたものだが、それを庭園上に表現したところに日本庭園の独自性がある。浄土式庭園は池泉の西側に阿弥陀堂をたて、対岸から阿弥陀仏を遥拝する様式で、その影響は都から遠く離れた東北の平泉まで拡がった。平等院毛越寺の庭園がその遺構である。

三溪園のなかでも西端に位置する天授院も、かっては大日如来像を遥拝する時期もあったとの記述もみえる。三溪翁の藤原文化にはせる想いが察せられる。

 

平安時代の庭には池泉があり、寝殿造りの建物と一対となっていた。池には舟を浮かべ、舟上で楽器などを奏でるなどして遊んだ。平安時代に記された歴史物語「栄花物語」には、宮廷の庭で夜遅くまで繰り広げられた様々な遊びが描かれている。舟遊びをはじめ、駒競、蹴鞠、端午の節句、七夕祭り、藤の花見、月見の宴などである。

寝殿造りの庭園は、儀式の場であると同時に遊びの場でもあり、当時は儀式と遊びは表裏一体であったのである。

 

禅宗の寺の場合、方丈の南側は儀式の空間なので基本的にはそこには石を据えなかった。庭がつくられるのは方丈の北側であった。大徳寺大仙院で見られるように、住職が居住する私的な空間が位置していたからである。のちに江戸時代になると、大方の儀式が室内で行われるようになり、南禅寺、大徳寺などの方丈は、南庭にも石組を据えるようになった。

 

「遊びに適した庭を造る」という宮廷文化や伝統は、戦国時代を経て衰退していたが、江戸時代の初期の古典復興の波のなかで、桂離宮修学院離宮が造営される。宮廷文化の核であった歌学の盛んな時期につくられた桂離宮は歌を詠む場であった。一方、後水尾上皇が造営した修学院離宮はまさに遊興の場であった。例えば、上皇になった当時、小堀遠州の作庭した仙洞御所の庭園での過ごし方だが、庭の茶屋で宴遊をしたのち、東山に月がのぼる頃、中島の山に登り、池泉で舟遊びをして、庭に戸板を敷いて少女の踊りを楽しんだ、という。そして最後に作られた修学院離宮は、今は上中下の三つの茶屋から構成されているが、上皇が築造したのは上の茶屋で、比叡山の裾を望む場所に堰堤を築き、そこに山の水を貯め、広大な人工の池(浴龍池)を造った。ここから洛北の山並みを眼下におさめることができ、日本庭園として最大の規模を誇る庭園である。この遊びの場としての性質は、のちに大名庭園として引き継がれていく。

 

庭を巡り歩く回遊式庭園が登場するのは南北朝時代。西芳寺の再建のさい夢窓国師は、池泉に舟を浮かべて遊ぶ庭から回遊しながら思索する禅の修業のための庭へと改造した。同時に、庭園内で完結する物語をつくり、その物語の展開を辿るかたちで園内を巡る形へと発展させていった。園内に十景などを設けて目的を与えたのも夢想国師であった。

本格的な回遊式庭園が登場するのは桃山時代である。茶室へと1本の道を辿る茶庭がそれである。線を結んでいく技法に長けているのは桂離宮である。順を追って歩いていくと道が直角に折れて場面ががらりと変わる。これはさながらカットで続く映画のようだ。その中に入ったような疑似体験ができるのが桂離宮の庭巡りなのである。また土地の形状や植栽によって、空間の明暗や開閉の変化をさせるのも映画のようで庭を巡るものを飽きさせない。

こうした回遊を楽しむための展開をさらに系統立て、完成度の高い物語としたのが江戸の大名庭園である。例えば、謡曲の世界を庭に再現させる試みなどがあげられる。大名などの武士階級が嗜みとして諳んじていたものを拠り所にして、その物語を庭の中に取り入れた。その原形を秀吉の「醍醐の花見」に見ることができる。700本もの桜を山に植え、山腹に多くの茶屋をつくり、そこを巡りながら山に登る花見、これは吉野山から千本の桜を嵐山に植えたという謡曲「嵐山」を秀吉がなぞったものと思える。また茶屋を巡る形は、のちの桂、修学院の離宮や大名庭園へと受け継がれていく。

江戸初期の小石川後楽園では、庭園に入るべき本来の入口である唐門から山道を行くと、まず木曽川の景勝地:寝覚の床が現れ、中山道を通って京都に上がるようになっている。辿り着いた京都にはしだれ桜があり、大堰川には通天橋が架けられ、見やると清水の舞台がある。京都の東山と西山が混在しているのは、謡曲「西行桜」で京都の桜の名所を語る場面を再現したからである。

 

石について

庭石の選択には大きさ、形、質とともに、実はその色が重要であった。庭の鑑賞においては石組に目が行き勝ちだが、石そのものも趣が深く、様々な意味合いが含まれているのである。例えば、苔むして黒かった竜安寺の石庭の石も、近年保存修理を機会に洗ったところ、個々の石の本来の色が明らかになり、庭の印象がすっかり変わってみえた。京都の伝統的な庭石であるチャート(埋石岩、さざれ石、山石とも)に添えて青石(緑石片岩、埼玉・三波川石、和歌山・紀州石、四国・阿波石、伊予石など)を要所に配置している。この青石はわざわざと遠くから運ばれたもので、それだけの手間暇をかけて運んだ理由は、その鮮やかな色にあると考えてよい。

江戸時代に入ると、京都二条河原では「紀伊国海青石」がブランド品として販売されていた。海でなれ、角のとれた丸みのある青石の評価が定まっていたことがわかる。このように石の好みは時代によって大いに変わっていくのである。毛越寺ではわざわざ蛇紋石(水珪酸塩鉱物、緑色を主として赤、黒、黄などが加わる)を使っている。その色が宗教的雰囲気を醸し出す素材であることが理由だ。毛越寺から北上川を10キロほど上流から運んだものである。また池泉の水際には三陸海岸から運んだ粘板岩を使っている。そこには荒磯に棲息するカモメガイの巣穴が開いていて、海岸風景を演出するにふさわしいからである。

石組とは、人々の思いを表現する手段でもある。

 

「蓬莱島」とは、中国から渡来した神仙蓬莱思想に説かれるもので、不老不死の仙人の住む島である。この蓬莱島を中心に古くより長寿の象徴であった鶴と亀を表す島を池泉に配した庭を「鶴亀蓬莱の庭」と呼ぶ。

仏像の三尊仏のように三個の石を用いた「三尊石組」や、古代インドの仏教に由来する崇高な山を中心とした「須弥山石組」、子孫繁栄を願う「陰陽石」などがある。

   

     (鶴亀石組 と 三尊石組 の事例)

 

「朽ちるものを、繰り返し造っては維持していく、これが日本庭園の特徴のひとつである。」(斎藤忠)

変化を読み取る:日本は湿度が高く、あらゆるものが腐食し易い風土におかれている。そして朽ちるに任せて繰り返し同じものを造るのが日本人の国民性である。伊勢神宮の式年遷宮や数寄の世界がそれにあたる。庭でも竹垣は作り変え、枝折戸は信念を迎える度に青竹に変えるように、その精神が継承されている。植栽つまり樹木は生長し、庭の景観をもっと大きく変える。たとえば、今は鬱蒼としている名古屋城の植栽だが、江戸時代初めの絵図では植栽はポツポツで、庭の奥まで見通せた。ちなみにこれは、万一の為に備えての防御の方策で、現在の皇居前広場の植栽の様子に似ている。

今は植栽が茂り過ぎ、庭の背景にあるものや借景が見えなくなっている庭も多々ある一方で、浜離宮のように高層ビルやマンションが庭の背景として登場してきた庭もある。庭からの眺望も、時代により大きく変化する。禅僧・金地院崇伝(1569~1633)が、桂離宮からの比叡山をはじめとした四方の眺めを賞賛した記録が残っているが、その眺望は今はない。京都・円通寺の庭は比叡山を借景とした枯山水庭園だが、周辺の都市化が目前に迫り、美しい景観を維持するのに大変苦労をしている。庭を鑑賞するさいは、作庭当時の景観がどであったのか思い巡らすために、周辺の山や丘を記した地図を持って行くのも一つの方法である。地図を見ながらどこに何が見えたのか想像するのも面白い。作庭当初は、どのような形だったのか、どう変化して今があるのか、思い巡らすことも大切であろう。

          (以上、小学館発行ウィークリーブック「日本庭園を行く」より)

 

以上を纏めて、日本庭園の発達を、箇条書きにまとめています。

(参考:日本庭園史概略)

飛鳥以前:自然の石、水、樹木への信仰。

       神が宿る場として、石組、池泉、中島などをつくる。  (祭祀遺跡

飛鳥時代:神泉蓬莱思想の渡来。

       612年(推古天皇)渡来人、皇居南庭に須弥山・呉橋をつくる。 (蘇我馬子の(島庄)庭園)

奈良時代:庭園の国風化が始まる。舟遊式庭園、曲水の庭がつくられる。  (平城宮)

平安時代:大きな池泉のある寝殿造りの庭園が流行。

       極楽浄土への往生を願う信仰が流行、浄土式庭園の誕生。

       (奈良法華寺・阿弥陀浄土院、宇治平等院、平泉毛越寺浄瑠璃寺。) 

       曲水の宴が盛んに行われる。(神泉苑)

鎌倉時代:舟遊庭園から回遊式庭園へと変化。

       書院造りと、それに対応した室内から鑑賞する庭の誕生。

       禅の庭の発生。(建長寺、円覚寺、称名寺など)

室町時代:禅の庭が定着し、枯山水庭園の発展。

       夢窓国師、雪舟が各地に作庭する。

       (西芳寺、天竜寺、金閣寺、銀閣寺、竜安寺など)

桃山時代:武将たちによる力強い庭園が造られる。

       茶室と露地の誕生。

       鶴亀蓬莱様式の庭の流行。

       (二条城、西本願寺、南禅寺など)

江戸時代:城や大名屋敷に大規模な庭園が造られる。

       大名庭園が全国に展開

       古典復興による離宮の造営

       (桂離宮、修学院離宮、仙洞御所、偕楽園、後楽園、六義園、栗林公園、名古屋城など)

明治以降:自然主義による和風洋風を織り交ぜた庭。

       (三溪園、無鄰庵、平安神宮など)

 

   

  (左:桂離宮   右:修学院離宮)

桂離宮の配置、なんとなく三溪園臨春閣の雰囲気ににていますよね。臨春閣が「東の桂」と呼ばれるわけがわかります。

修学院離宮、見事な借景です。

 

最近、三溪園のあちこちの山肌が丸坊主のようにむき出しになっています。老朽化した樹木の伐採が進んでいるようですね。

考えてみると、明治35年、三溪がこの庭園を造り始めてからだと、115年以上、大正12年に完成を見てからでも95年になるわけです。

当時の景観を維持してくれ、という注文は当然無理と承知はしているのですが、今手入れされているこの庭を見るにつけ、庭園の維持管理の難しさ、いろいろと考えさせられます。

 

この三渓園を造った、三溪の、当初の想いを少しでも理解しようと、私なりにいろいろ探ってはみましたが、難しいものですね。

ぜひ、皆さんも、それぞれの想いで、庭を楽しんでください。