三十三間堂
令和5年1月14日(日)
三十三間堂 無料開放!
・最重法要「楊枝のお加持」
・新成人による 「通し矢」
謹賀新年
法要:
楊枝のお加持(やなぎのおかじ)
例年、
1月15日に近い日曜日に行われます。
楊枝のお加持では、
聖樹(霊木)とされる楊枝で、本尊・千手観音坐像前で7日間祈祷した法水を参拝者に注ぎ諸痛を除きます。
正式名称「楊枝浄水供」と呼ばれる三十三間堂の最重法要です。
インドからの伝来した修法で、平安時代からの歴史があります。
楊枝のお加持は、
第77代後白河天皇の故事から頭痛や諸病平癒の御利益があるといわれています。
また、記憶力が良くなるとも言われています。
三十三間堂 通し矢
二十歳を迎えた弓道有段者や称号者が60m先の的を射って腕を競います。
大的は二十歳で1m、称号者で79㎝。
決勝に進むと、二十歳で79㎝、称号者で50㎝と小さくなる。
日程時間
開会式 7:45
矢 渡 8:00
二十歳男子 8:30
二十歳女子 10:50
称号者 13:50
決 勝 15:00
三十三間堂 通し矢
大的大会
江戸時代に各藩の弓術家が本堂の軒下で矢を射った大矢数(おおやかず)に因んだ行事となります。
大矢数は、一昼夜に何本射通したかを競ったものだそうです。
新成人の通し矢は、1951年(昭和26年)から行われています。
通し矢
約120mある本堂西側に射場を設けられます。
通し矢では、二十歳を迎えた弓道有段者や称号者が約60m先の大的を射って競います。
決勝では、射た二本の矢が全て的中した者で行われます。
1156年(保元元年)頃、熊野・蕪坂源太(かぶらさかげんた)が三十三間堂で行ったのが起源と言われています。
蕪坂源太は狩りを職業とし、二町(約218m)先を走る鹿さえも外さなかったと伝えられています。
通し矢の記録が明確に残っているのは1651年(慶安4年)に出された「年代矢数帳」に記されています。
1606年(慶長11年)の 朝岡平兵衛(あさおかへいべえ)の記録が最初だといわれています。
本堂(国宝)は、1266年(文永3年)に再建されました。
本堂は本尊千手観音坐像(国宝)や、1001体の千手観音立像(国宝)など安置されています。
本堂は、
内陣の柱間が33あることから 三十三間堂 と言われています。
本堂は、全長121.7m 高さ約4.5~5.3m 幅2.36mです。
三十三間堂 歴史概要
三十三間堂・蓮華王院本堂
平安時代:
988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光が造営した私邸があった場所とも言われています。
989年(永祚元年)に為光が妻と第65代花山天皇の女御だった娘の菩提を弔う為に法住寺を創建。
1032年(長元5年)火災によって焼失しました。
1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿を営みました。
三十三間堂は、
1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じ離宮・法住寺殿の一画に創建されたのが起源です。
1249年(建長元年)に焼失し
1266年(文永3年)に 後嵯峨上皇(第88代後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。
その後・・・
室町幕府第6代将軍 足利義教(よしのり)が修復し、
関白・豊臣秀吉が東山大仏(方広寺)を建立した際、土塀や門などが整備されたといわれています。
三十三間堂の名称
間面記法による表記「三十三間四面」に由来しています。
三十三は観音に縁ある数字でもあります!
法華経などによりますと、
観音菩薩が三十三種の姿に変じ象生を救うと説かれています。
三十三間堂は、
天台宗・妙法院の境外仏堂です。
三十三間堂 南
迫力ある 南大門
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三十三間堂
北から南を望む
南大門が見えます!
↓
三十三間堂
南大門から北を望む
↓
この日は 新成人を祝う
成人式であります。
袴姿で矢を射る姿は 凛々しく可愛らしさもありその姿は 美しいです!
三十三間堂 ご近所である
集酉楽サカタニでは、毎年「振舞い 甘酒」を実施していました。
今年は、
「祝 菰巻き」を実施します!
お時間のある方は、集酉楽サカタニまでお越しください!
↓
・・・乾杯!