ハーモニックマイナーについて作曲的な考察をしてみたい。


マイナースケールには3種類あることは周知の通りだが、
クラシックの古典以前においては
Ⅴの和音において導音が用いられるのみで
ハーモニックマイナー(和声的短音階)という音階はあったものの
全体を通してハーモニックマイナーが用いられる曲が出てくるのは
現代まで待たなくてはならない。


時代の流れに沿ってマイナースケールへの
作曲家のアプローチは変化してきたが、
前述の通り昔はⅤの和音のみハーモニックまたはメロディックを用いて
残りはナチュラルマイナーという音使いが多かった。


近代に入ってからドビュッシーなどが通常のメジャーとマイナーの
枠を飛び出して実に様々な手法で調性の広がりを見せてくれたが、
ドビュッシーはメロディックマイナーにも着目している。


前奏曲集第2巻 2:枯葉 "Feuilles mortes"


上の譜例はドビュッシーの前奏曲集第2巻の枯葉の最後から5小節目の
ルートがBbの部分だが、
旋律の動きがラ→ラ♭→ソ♭→ファとなっている部分で
最初のラは倚音(M7)と考えて
ラ(M7)→ラ♭(7)→ソ♭(♭6)→ファ(P5)のように私には聴こえる。


和音としてはB♭augだが、増5度の音というよりむしろ♭6と考えて、
シ♭・ド・レ・ミ♭・ファ・ソ♭・ラ♭というスケールに私は感じる。
(ドは旋律にも伴奏にも出てこない)


ホールトーンがたくさん出てきたりする結構アウトな感じの曲なので、
ドミナントセブンスにM7の倚音が出てきても
そんなに不思議な感じはしないし、
ジャズ風にいうならビバップドミナントスケールのようにM7がドミナントなのに出てくるが
これはミクソリディアン♭6と取っても良いと思う。


異論がある方が是非、ここは〇〇スケールだと思うのように
考えを聞かせて下さい。


そもそもクラシック和声にはコードスケールという概念はなく、
すべて「転位」で考えるので、
コードスケール分析はどうかとも思うのだが、
考え方が分かりやすいのでコードスケールで考えるようにしている。


結局は出身調と音階の相互関係的視点から見れば同じことだし。


ミクソリディアン♭6スケールということは当然メロディックマイナー出身
(メロディックマイナーの第5音からの転回)なので
ドビュッシーは通常の長短調からの脱却として
メロディックマイナーを活用していることがわかる。



メロディックマイナーは前半マイナー、後半メジャーという
メジャーとマイナーの中間的な音階なので、
音階の前半だけでフレーズを作ればマイナーだし、
逆に後半だけで作ればメジャーになる不思議な音階だ。



メロディックマイナーを上手に使っている作曲家さんはたくさんいて、
日本だと千住明氏をはじめ極めてメロディックマイナーの使い方が
上手な方がたくさんいらっしゃる。


この時のポイントはⅤの和音の部分だけでなく、
1曲通してメロディックマイナーで作っても大丈夫ということだ。


つまりメロディックマイナーをペアレントとするすべての音階を
自在に使っても作曲や即興演奏が成り立つのだ。

・メロディックマイナー
・ドリアン♭2
・リディアンオーグメント
・リディアンドミナント
・ミクソリディアン♭6
・ロクリアン#2
・オルタード

同じコードスケールが別の名称で呼ばれることもあります。

メロディックマイナーのみについて書かれている本もあります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-vol-4-%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%AB-Ricker/dp/4754930959 


要するに上記の7種類のメロディックマイナーをペアレントとするスケールを
曲中で自由に使うことが出来る。


実際にそういう曲は山ほどあるし、
私も山ほど作ってきたし、
マーク・レヴィンのジャズセオリーでも
メロディックマイナーを基本にした考え方が大いに考察されている。




お馴染みのジャズ・セオリー
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3-%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC-%E6%84%9B%E5%B7%9D-%E7%AF%A4%E4%BA%BA/dp/4754930789 



ところがハーモニックマイナーについてはほとんど全く語られず、
ジャズセオリー では最後の方で「未解決の問題」のコンテンツで僅かにその内容を
説明している過ぎないのだが、
これは彼の頭の中ではハーモニックマイナーという概念が作曲上重要でないということを
意味しているような気がする。


これに対しては理論的な説明がされており、
それ自体は納得のいくものだし、
クラシックでもメロディックマイナーほどハーモニックマイナーの使用は
進んではいない。


ロックのギターソロなどでハーモニックマイナーや
HMP5Bを用いたソロがたまにあるけれど、
あくまで1つの和音に対して
ハーモニックマイナー(及びそれをペアレントとするスケール)を
当てているだけであって、
ハーモニックマイナーをダイアトニックとしてコード進行が形成されたり
ハーモニックマイナーをペアレントとする種々のスケールで
1曲(あるいはある程度の長さ)書かれているわけではない。

あくまで飛び道具的に使用されているように聴こえる。


・ハーモニックマイナー
・ロクリアン♮6
・アイオニアン#5
・ドリアン#4
・HMP5B
・リディアン#2
・ロクリアン♭♭7
同じコードスケールが別の名称で呼ばれることもあります。 


ハーモニックマイナーをペアレントするダイアトニックのスケールは
上の通りだけれど、
あんまり聞きなれない名前のものが多い。


よっぽど専門的に作曲を勉強していない限り、
使用頻度はかなり低いだろうし、
ハーモニックマイナーを前面に押し出した理論書もない。


私もⅤの和音でのHMP5B以外では
モーダル・インター・チェンジでロクリアン♮6を使ったり、
ハーモニックマイナーの雰囲気を活かした曲を作るときに
アイオニアン#5を使ったりするが、
例えばⅠ-Ⅵ-Ⅱ-Ⅴとか、Ⅱ-Ⅴ-Ⅰなどで
ハーモニックマイナーを通して使うことはない。


あくまで瞬間的な用法でハーモニックをペアレントするスケールを
用いるにすぎず、
ジャズのアドリブでもそういった実例は相当特殊だと思う。


ここで注目すべきはメロディックマイナーではそれが可能なのに、
ハーモニックマイナーではなしになっている点だ。


多くのジャズミュージシャンはメロディックマイナーに通じている人はたくさんいても
ハーモニックマイナーでのアドリブに通じている人はあまり見たことがない。


理由はアボイドが多すぎて、不協和が強すぎるからだろう。





ジャズにおける最重要チェンジとも呼べるⅡ-Ⅴだが、
このお決まりの進行一つとっても
メロディックマイナーでは出てこないハーモニックマイナー独自の
不協和を生み出す不都合がたくさん出てくる。



まずⅡの和音が〇m-5、〇m7-5の和音で不完全和音であること。
そして第5音と第6音の間に増2度音程があること。
Ⅱの和音に関しては比較的大丈夫なのだが、
Ⅴの和音は結構厳しい問題がある。



スケールとしてはHMP5Bなのだが、
第5音と第6音の間が半音で不協和が強いこと。

オルタードではあくまでルートと♭9thの間に起こる短9度も
ここではルート以外の音で短9度が発生している。


ルートは絶対にどかすことは出来ないが、
それ以外の音はいくらでも変えることが出来るので、
HMP5Bよりもオルタードを使う人のほうがずっと多いはずだ。


またコードトーン以外の3つのテンションも
全部コードトーンから見て半音関係
で、
テンションコードを作ろうと思うと
協和とは程遠い非常に厳しい和音になってしまう。


アボイドとは何か?ということに関して
それぞれの作曲家がどういう考えを持っているか?がここでは重要になるが
私は狭義のポピュラー理論を別とするならば
オルタードにおけるルートと♭9のみが許されて
コードトーンの半音上の音はすべてアボイドという考える。


例えばHMP5Bの第6音は♭13thのテンションと考えることもできるが、
私にはこれはかなり厳しい音に聞こえる。


それは第5音と半音関係だからだ。


オルタードにおける♭9thはルートだから仕方ないが、
それ以外はいくらでも避けようがある。


避けようがあるからこそ、
ルートと♭9以外半音関係のないオルタードスケールが
好まれている気がする。


もしルート以外の音との半音関係も協和するテンションと
考えて良いのなら、
つまりHMP5Bにおける第5音と♭13thをテンションと考えて良いのなら
長3和音におけるsus4の音もテンションと考えて良いはずだ。


なぜなら同じ半音関係なのだから。
しかしこれを許容する人間は誰もいない。


全く同じ条件なのに
片方は良くて片方が駄目では筋が通らないのだ。


敢えてあ自己反論するとしたら、
HMP5Bにおいてはドミナントセブンスのトライトーンが
不協和を緩和するという言い訳もできるが、
半音のぶつかりが消えるわけではない。


おそらくこの問題がクラシックやジャズやポピュラーの作曲家や演奏家から
ハーモニックマイナーを遠ざけてきた理由の1つだと考察する。


つまりマーク・レヴィン風にいうなら
不協和(ディゾナンス)が強すぎるのだ。


増2度音程があること、テンションの不協和が強いこと、
そしてさらに一つ付け加えるなら
Ⅱ-Ⅴ-Ⅰなどのお決まりのフレーズを
増2度を含まない一つのスケールで
弾ききることが出来ないことも理由の1つだと思われる。



一般的な音楽素材としてハーモニックマイナーは非常に使いにくいのだ。


しかしモーダルインターチェンジを応用した
ボイシングでは隠し味的に使い勝手がある。


上の譜例はマーク・レヴィンのジャズセオリーに載っているものだが、
(原著では半音上のC/D♭)
こういうボイシングの場合にメロディーを作るなら
どういうスケールが可能だろうか?


答えは上のスケールになる。


スケールの勉強をなさっている方ならお馴染みだと思うが、
リディアン#2スケールだ。

出身キーはEハーモニックマイナーになる。

B/Cという和音だが、このUST的な用法を
Cがダイアトニックで出てくるキーでなら自由に使えるし、
(GメジャーのサブドミナントやFメジャーのドミナント)
SDMやセカンダリーで用いても面白い。


その部分にハーモニックマイナーの風味を隠し味的に活用することができる。


勘の良い方なら「それってモーダルインターチェンジじゃん」とお気づきだろうが、
調性の揺らぎとしてハーモニックマイナーを活用できる例が
ほかにもたくさんある。



個人的にはこういった活用法が多いが、
今のところハーモニックマイナー関して辿りついているのは
今回ブログに書かせて頂いた程度のレベルで
なかなか発展的な活用法に至っていない。



ハーモニックマイナー独自のクセを前面に押し出す曲か
逆にモーダルインターチェンジで隠し味的に借用として使うか
どちらかの用法に留まっている。


メジャー・マイナーは既に研究され尽くしているし、
メロディックマイナーに関しても一時ハマって
メロディックマイナニストとして全面的に自分の曲で活用していた時期があったが、
もう飽きてきたので、ふとハーモニックマイナーを活用できないかと思ったのだ。


ハーモニックメジャーをはじめとする人造音階も良いかもしれないが、
やはりメジャーと3種類のマイナーというスタンダードな部分、
言い換えれば非常に基本的で当たり前で凝ったことをしていない部分を
土台にしたいと個人的には思っている。


突飛な素材を持ってくれば突飛な曲になるのは当たり前で
それは誰にでもできる。


武満徹作曲賞でリゲティーが
応募者全員を落としたことがあったが、
その時リゲティーは理由として「歴史から何も学んでいない」と言った。


ドビュッシーやシェーンベルクを聴くと
それまでの音楽から完全にぶっ飛んでいるように聴こえるが、
ちゃんと聴いてみると非常に古典的であることがわかる。


ドビュッシーなんてあんなにも発展的なのに
どこが古典的なの?と思う方は
しっかり分析してみれば彼が新しい手法を取り入れつつも
ちゃんと過去の歴史を足場としていることがわかるだろう。


ちゃんと過去に学んでいるのだ。
猫が鍵盤の上を走れば、たしかに新しい音楽かもしれないが、
それは単なる見世物やゲテモノ的音楽であって、
私はそれをどうしても真の芸術とは思えない。
そこに大きな価値を見いだせないのだ。


ドビュッシーやシェーンベルクの評価が高いのも
ちゃんと過去に立脚しているからだと私は思う。


あんなにも発展的なのにあんなにも古典的なのは本当にすごい。


音楽とはかくあるべしなのだ。
元をマゼコゼにしたりしては駄目だと思う。


何処までを元にするのかは人それぞれだけれど、
ドビュッシーの音楽の中にベートーヴェンやバッハを垣間見るとき、
100年後に生まれた私は彼らを捨てよう気がどうしても起こらない。


猫に鍵盤の上で走らせて
「どうだ!私の新しい音楽は!」というのは
別にそういう人がいても良いとは思うけれど、
それは彼らが歩いてきた道を捨て去っているように思えるし、
あんまり意味や意義を感じない。



発展性と古典性は同居できる。
極めて進歩的であると当時に極めて保守的であり、
新しいと同時に古いということは可能なのだ。


新しいことが新しいのではなく、
古いことが新しいのだ。


今は新しことが古くなっているように思える。


過去の大家が歩んできた道を捨て去らずに、
そこにもう一歩付け加えてみたい。


そうすれば私が死んだ後に、
また誰かがもう一歩付け加えてくれるだろう。


私は私なりにバッハやベートヴェンやドビュッシーたちを捨てたくないのだ。
可能性は常に一本の樹のように元の種にある。


枝はとして生まれてきたのに、
元の種をすり替えるような真似はできればあんまりしたくない。