急須のあゆみ展

 

 

1 常滑の急須について

  平安時代末期から始まる900年ほどの常滑焼の歴史の中で、急須の歴史は、比較的新しく江戸時代後期に始まります。

  江戸時代後期に関西を中心に文人趣味が生まれ、煎茶が流行しました。これを背景に常滑では、稲葉庄左衛門が、古い急須の絵を集めた本を入手して、文政年間(1818~1830)に作り始めたとされています。

 

  天保年間(1831~1845)になると急須の生産が盛んになったと思われます。1834年には陶工である鯉江方救・方寿父子が登り窯を築きました。このころ二代伊奈長三が、半田市板山で白泥土を発見し、その土に乾燥させた海藻をのせて焼く火色焼を開発しました。

    

  白泥火色急須(二代伊奈長三)   白泥藻掛急須(初代磯村白斉)

 

 安政年間(1854~1860)になると急須の量産化が始まり、江戸や伊勢湾岸地域を中心に流通するようになりました。安政元年には初代杉江寿門が、中国江蘇省の宜興窯紫砂の無釉茶器(紫砂茗壺)を手本に研究を重ね朱泥急須を完成させました。

    

 烏泥銚、壺式(宜興・清代)      朱泥菊型急須(初代杉江寿門)市指定文化財  

   

  明治11年(1878)には、鯉江方寿が、来日していた中国人の金士恒を常滑に招き、初代杉江寿門、四代伊奈長三らに製法を学ばせました。金士恒によって中国宜興窯の後手急須制作やパンパン製法、刻字・刻画の技法が伝えられ、朱泥急須は最盛期を迎えました。       

         

     朱泥茶銚(金士恒)           朱泥茶注(初代杉江寿門作・ 金士恒彫)

  朱泥茶注(初代杉江寿門作・ 金士恒彫)には、金士恒が常滑に来たことや、行なったことなどが彫られています。画像をクリックして拡大すると、その内容を読むことができます。

 

   日清戦争以降、中国へのあこがれが冷めると煎茶熱も冷めて行きますが、静岡県で輸出用に大量生産されていたお茶が国内に出回り、庶民の生活にもお茶を楽しむ習慣が見られるようになりました。

 

  昭和40年代に鋳込み技法の開発で量産化された急須は、日常生活の中でお茶を楽しむ習慣とともに広まりました。また、ロクロの技術に優れた初代山田常山は、急須造りに終生専念し多くの名品を残しました。そして、その技術は常山窯の新しい世代に受け継がれていき、平成10年(1998)には三代山田常山が人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定され、常滑の急須は全国的に知名度が高まりました。

    

   三代山田常山氏           朱泥横手急須(三代山田常山)

 

 (1) 菊型急須 

  常滑で急須の製作が始まるのは、今から約200年前の江戸時代後期の頃です。最初は壺や甕と同じようにヒモ作りでしたが、急須や徳利などの生産が盛んになり、ロクロでひいた作品が作られるようになります。

  今回展示の、初代杉江寿門作の「朱泥菊型急須」はヒモ作りでもロクロ作りでもなく、パンパン製法と呼ばれる中国宜興窯の伝統的な急須制作技法で作られています。

      

    初代杉江寿門像           菊型急須(初代杉江寿門)

  この製法は、明治11年に鯉江方寿・高司親子が中国の文人といわれる金士恒を常滑に招き、中国急須の技術を得ることとなりました。初代寿門・二代寿門・四代長三たち数人に伝承した技法です。 

  今回展示の四点「菊型急須」は、常滑における代表作品です。今では、この技法を三代陶山氏が受け継いでいます。作り方は板状の粘土(タタラ)のパーツをつなぎ合わせて、木の板で「パンパン」と叩きながら形を整えていくことから、常滑で「パンパン製法」という名称が付けられたと考えられます。

   菊のデザインは日本人の好きな花の一つです。明治時代の上流階級で愛された常滑の煎茶器の中でも最高に素晴らしい作品です。

 

(2) 急須の摘みと透かし彫り

 

 

   ① 四代長三の急須の摘み(獅子摘み)は、長三とわかる代表作です。獅子の大きさが、1センチメートルから1センチ5ミリメートルと小さい中で、気品のある精巧な技術作品です。展示の中には、面、達磨、釣り鐘、花などの摘みがあります。

    

 

   ② 透かし彫り急須は、初代滃軒が得意とした急須です。この他に摘みや、持ち手が中国のデザインを参考に、日本で好まれる作風で製作がされています。

    

 

2 製作技法

 (1) ロクロ

     回転台に粘土塊をのせて回転させ、その遠心力を利用して挽き上げて成形する技法です。日本には5世紀頃に朝鮮半島から伝わりました。手で回すものと足で蹴りながら回すものがありますが、現在は電動が一般的です。

 (2) 手捻り

    ロクロを使わずに土の塊を指先で伸ばしながら成形します。茶の湯で用いる楽茶碗や香合など小さなやきものを作る場合に多く用いられる技法です。

 (3) 土型

   土型による急須制作がいつから始まったかは明らかではありません。初代杉江寿門が制作した土型があり、明治10年代には本格的な土型による量産体制が確立していたと考えられます。

 (4) パンパン製法

   パンパン製法は明治11年に金士恒が伝えた中国宜興窯でおこなわれている急須成形技法の通称です。この技法はタタラと呼ばれる粘土の板で基礎的な形を作り、それを木へラで叩きながら成形する技法です。

(5) 紐づくり

  粘土を細い紐状にして輪のように積み上げる技法です。初代杉江寿門の孫にあたる初代杉江滃軒・二代滃軒へと受け継がれました。

 

3 加飾技法

 (1) 押印

   

   押印による装飾は、蓋や胴部上半に雷形やハート形などの押印が連続的に配置されるものがあります。

 

 (2) 刻字・刻画

     

   常滑における彫刻技法は、きめの細かな粘土である朱泥土を得たことで急速に発展していきました。明治期には急須の作り手以外の人が彫刻を施すようになりました。

 

4 急須の制作工程

 (1)急須の胴部の水ひき

 (2)蓋の水ひき

 (3)把手の水ひき

 (4)注口の水ひき

 (5)胴部を仕上げる

 (6)蓋はつまみを取り付け、空気穴をあけて仕上げる

 (7)茶こし穴をあけて少し内側にへこませる

 (8)注口を取り付け、境目をヘラで抑える

 (9)把手を取り付け、境目をヘラで抑える

 (10)焼成後、蓋合わせをする

 

5 急須の素地と焼成法

 (1) 真焼(まやけ

    

   真焼は江戸時代の壷や甕に使用される名称で、よく焼き締まった硬質な焼成品を意味し、焼締とも言います。天保以前の急須は基本的に真焼であり、外面には自然釉の付着する物があります。

 

(2) 白泥焼(はくでいやき)

   

  白泥焼は天保年間に二代伊奈長三が創始した製法で、急須の他にも酒器や抹茶器にも多用されています。常滑市に隣接する半田市板山で採掘され、白色系に焼き上がることからその名称がついています。また、常滑市上納で灰色に焼き上がる土があり、これも白泥焼に含んでいます。

 

 (3) 火色焼(ひいろやき)

    

  火色焼は白泥焼に用いる白泥土に小甘藻(こあまも)という乾燥させた海藻を器体に巻き付けて焼成したもので、現在は「藻掛け(もがけ)」と呼ばれています。海藻の部分は黄金色、海藻に含有する塩分が作用した部分は赤褐色に発色します。天保年間に二代伊奈長三が考案しました。

 

 (4) 火襷焼(ひだすきやき)

   

  火襷焼は白泥土に襷状に藁を巻き付けて焼成したことからこの名称で呼ばれています。火色焼と同様、二代長三が天保年間に考案したとされています。

 

 (5) 南蛮焼(なんばんやき)

   

  南蛮焼は粗手の土を使った無釉の焼き締め陶で、器面はひび割れたような質感を呈しています。常滑焼の風合いは南蛮(ベトナム周辺)に近似していることから、茶の湯の水指や建水などに用いられることが多い。常滑では初代松下三光が京都で見聞した中国由来の南蛮焼を写すことに成功したと伝えられています。一般的に南蛮写とも呼ばれています。

 

 (6) 木目焼(もくめやき)

   

  木日焼は清水清茂によって創始された技法で、異なる色調の土を混合して模様を作り出す技法です。木材の木目に似ていることからこの名称が付けられています。この技法は現在、練り込み技法と呼ばれています。

 

 (7) 朱泥焼(しゅでいやき)

    

  朱泥焼は安政元年に初代杉江寿門や片岡二光らによって成功したと伝えられています。朱泥土は水田の耕作土の下層に形成された青灰色の粘土を主体とし、丘陵部にみられる鉄分を多く含んだ赤土を二割ほど混合して精製した灰色の粘土です。精製作業は水簸(すいひ)という手法でおこなわれ、酸化炎焼成で焼き上げると赤褐色を呈します。常滑では幕末から現代まで改良を重ねながら続いている土と技法です。

 

6 常滑の焼き物の歴史

  原始時代

   縄文時代  石瀬貝塚から縄文土器(市指定有形文化財)が出土

   弥生時代  山の神遺跡(市指定有形文化財)・椎田口遺跡から弥生土器が出土

  古墳時代

         弥生土器の流れをくむ土師器の生産が行われる 

         中頃、朝鮮半島より須恵器の生産技術が伝わる

  飛鳥・奈良時代

          古代製塩遺跡から製塩土器が出土(上ゲ遺跡・狐塚遺跡)

   8~11世紀 紐造りによる壺などが造られる(灰釉陶器)

  平安時代

   1100頃    穴窯による「古常滑」造られる(三筋壺/自然釉)

  鎌倉・室町時代

        甕や山茶碗などが造られる(県史跡・篭池古窯、市史跡・高坂古窯)

        大型の壺や甕が多く造られる(穴窯から半地上式の大窯へ)

        室町時代から船で輸送することが中心となる

  安土・桃山時代

 

  江戸時代

   1694   常滑窯数12基(北条村・瀬木村・奥条村)

   1750頃  尾張藩主宗勝の命により、渡辺弥兵衛が茶器・花器を上納し、常滑元功

         斎の号を賜る

   天保年間(1831~1845) 

        二代伊奈長三により、白泥焼・火色焼・火襷焼が始まる

        清水清茂により、木目焼が始まる

        初代松下三光により、南蛮焼が始まる

         鯉江方救が登窯を完成する(金島山窯)

   1854頃  初代杉江寿門により朱泥焼始まる(茶器・酒器・火鉢など)

  明治時代

        西洋の技術を導入し、機械化が進む(平地窯、倒焔式角窯)

        土管・焼酎瓶・煉瓦タイル・衛生陶器など

        貿易陶磁器(金襴手花瓶、朱泥龍巻、陶漆器など)が造られる

   1874   鯉江方寿が真焼土管の国産化に成功する

   1878   清から金士恒来訪、朱泥パンパン製法を伝える

   1887頃  朱泥龍巻が本格的に始まる

   1896   常滑工業補習学校設立

   1899   陶製電らん管造られる

   1901   石炭窯で食塩釉をおこなう

   1905   登窯と平地倒焔式窯を折衷した折衷窯が普及する

  大正時代

   1912   帝国ホテルのテラコッタ造られる

   1914頃  前焚窯、片焚窯始まる。

  昭和時代 

   1934   発生炉ガス焚トンネル窯始まる

   1943   排水用土管増産

   1951   重油焚トンネル窯、重油焚単窯始まる

   1958   電気窯始まる

   1960   シャトル窯つくられる

   1961   常滑陶芸研究所つくられる

   1968   常滑陶業技術センターつくられる

   1970   常滑市陶磁器会館つくられる

   1972   長三賞設定記念陶芸・陶業展始まる

   1982   登窯(陶栄窯)国の重要有形民俗文化財に指定される

       戦後、火鉢は無くなり、甕・土管の生産は減少、急須・園芸鉢が大量に生

        産される。また、大工場でタイル・衛生陶器・建設陶器が大量生産され、

        日本有数の生産地になる。     

  平成時代

   1993  とこなめ焼卸団地セラモールがオープンする

   1997  茶香炉が造られる

   1998  三代山田常山が国指定重要無形文化財保持者に認定される

   2017  常滑焼が日本六古窯の一つとして「日本遺産」に認定される

 

7 急須のあゆみ展の様子

  9月20日(木)から25日(火)までの6日間、常滑市陶磁器会館3階和室で展示を行いました。初日は雨天でしたが、「中日新聞を見て知り来ました。」という方がたくさん来場しました。22日からの3連休は、煎茶や箏曲でおもてなししまた。同時に「ガイドと歩くやきもの散歩道」も行いましたので、県外からの見学者も多く700名近い来場者がありました。