佐藤紅緑 「少年賛歌 」 (1929年) | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

日本児童文学体系
イメージ 1
 

 

 佐藤紅緑

 

 

 

少年賛歌  (1929年)

 

 

 

親 友 「貧乏は恥辱ぢゃない」 と亮二は言った。 「さうかね」 と藤兵衛は考へ込みながら言った。二人は坂の上に出た。坂の下は所謂下町で、此処から一望千里、津軽平野の彼方にすっきりと白衣を着た岩木山が立って居る。昔からこれを津軽富士と称して居る。四辺には山がなく目路の限りの地平線に只一つ三尖の頭を半空に聳やかして居る此の山は此の土地の唯一の誇りである。 雪は全く晴れて、下町の雪に埋もった人家の間々に三つ四つ紙鳶が飛んで居る、大きいのは恐ろしく威張った顔をして唸つて居る、それは恰ら大将が三軍を叱咤して居る様、小さいのは、ぐいぐいと糸を曳かれる度にでっくりでっくり頭を横に振ったり尻を突き出したり尾をふらふらと振ったりする。其の向こうに見える岩木山は丁度それ等を見て微笑してるかの様。 「どうだ」 と亮二は山をさして言った。日は今山の左側に沈みかけて、薄い残照は白一白の平野、河、樹木、凍て付いた様な屋根々々を素絹の如くに燦々させた。 「僕はね、悲しい時にはあの山を見ると何だかかう勇気がめきめきと身体中に湧く様な気がするんだ」 「どうしてだらう」 「どうしてだか解らない、あれはね何か僕に言ってるに違ひない、だが何だかわからない、屹度あの山は恐ろしい事を考へてるに違ひない、それ謎だよ、僕はいろいろ考へたけれども解らない」 「君は哲学者だ」 と亮二は言った。 「さうぢゃない、だが地球の上にどうして山だ河だのあるだらう、一体に平面であればいゝのだ、神が公平なら平面であればいゝのだ、高い処もあり、低い処もあり、貴族もあり平民もあり富豪もあり貧乏人もある、それが不公平だ、解らない、ねえ君」 日頃温和な藤兵衛は自分の言葉に励まされて眼が悲しく輝やいた。

 

 

少年牧場 僕等は今我孫子の片田舎で牧場を経営して居ります。牧場には一人の老人の他は僕ら三人だけです。僕等は未明の二時に起き牛の乳を搾ります、東の空がほのめく頃に牝牛の乳房は響きを立てゝ其の生鮮な香をバケツの中に漲らせらせます。多くの嬰児! 母乳のない嬰児! 二十年の後には日本国家の重要な役目を勤める僕らの後進の家へ此の乳が配達されます。僕等は消毒を終って牧場を出る頃には我孫子の緑の平野に暁の色が動きます、朗らかな朝の空気が天にも地にも一ぱいです、麦の穂はさやさやと風に鳴ります、大根の花が白く咲きます、朝日は山を離れようとし紫の雲に黄金の輪郭を取って荘厳な光を半空に乱射します。僕等の牛乳車はからからからと乾いた畦路を軽やかに鳴ります、もう鶏は戸毎に鳴いて百姓の屋根からほらほら煙が見えます、右を向いても左を向いても空気は清らかです、野菜や草花の匂ひがそよそよと流れて僕等の口から鼻から肺臓一ぱいになります。僕等の若き血管は爽やかに波打ち僕等の足は自然に躍ります。 僕等は三人で五百戸の配達を終ります、さうして牧場へ帰るや否や朝飯を食べて学校へ行きます、

 

 

 

佐藤紅緑

 

 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年(明治7年)7月6日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、日本の作家、俳人。

 

 

略歴・人物
本人の意に反して執筆する事となった「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年小説の第一人者」として知られる。作詞家で詩人のサトウハチロー、作家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の 大垣肇の父(3人とも母は異なる)。ただし、肇は愛人の子供であり、同居はしていない。

 

 

1874年(明治7年)、青森県弘前市親方町に、父弥六・母支那(しな)の次男として出生。本名洽六。

 

 

父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また「林檎図解」「陸奥評話」「津軽のしるべ」などの著書も著し、森鴎外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。

 

 

1890年(明治23年)東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(現弘前高校)に入学。1893年(明治26年)、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京、翌年日本新聞社に入る。正岡子規の勧めで俳句を始める。1895年(明治28年)、病により帰郷、東奥日報社に入り、小説、俳句などで活躍。1896年(明治29年)、東北日報社(翌年河北新報社)の主筆。1900年(明治33年)、報知新聞社に入り大隈重信に重用される。記者活動の他、俳人として活躍。大デュマ、ヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳もする。

 

 

1905年(明治38年)、記者生活を止め、俳句研究会を起こす。小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品により注目を浴び、1908年(明治41年)、創作集『榾(ほだ)』を刊行。

 

 

1906年(明治39年)から1914年(大正3年)まで、新派の本郷座の座付作者を勤める。

 

 

1912年(大正元年)に小説「霧」、翌年「谷底」をはじめ新聞連載小説を発表。1915年(大正4年)、劇団新日本劇の顧問。女優横田シナ(後、三笠万里子と改名)を見初める。1918年(大正7年)、妻はるとの別居などを経て、1922年(大正11年)、万里子と結婚。1923年(大正12年)、映画研究のため渡欧、翌年東亜キネマの所長(1925年(大正14年)退任)。

 

 

>妻・三笠万里子を女優として売り出そうと、劇団活動を行うが、「紅緑にとりいって主役の座を得た」との悪評により、成果はでなかった。万里子は、妊娠・出産により女優を断念する。

 

 

1919年(大正8年)から1927年(昭和2年)にかけて新聞雑誌に連載小説「大盗伝」(1921年・大正10年)「荊の冠」(1922年・大正11年)「富士に題す」(1927年・昭和2年)を書き大衆小説の人気作家となる。1927年(昭和2年)、少年小説「あゝ玉杯に花うけて」を「少年倶楽部」に連載、好評を呼び、「少年讃歌」「英雄行進曲」などを書き、同誌の黄金期を築いた。同社の雑誌「キング」などにも多くの連載小説がある。「少年連盟」はジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』の翻案である。

 

 

1949年(昭和24年)6月3日永眠。享年75。

 

 

晩年の紅緑は、少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも、別居していた肇以外の、長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良少年・不良青年となった。ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた生活無能力者で、破滅的な死に方をした。紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・愛子の小説『血脈』に描かれている。

 

 

なお、詩人で、独自の日本文化論を提唱した福士幸次郎は、紅緑の食客であり、紅緑の家庭内の事件のたびにその収拾に奔走した。