鳥取城主 武田高信 | 墓守たちが夢のあと

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大義寺

 

武田高信の墓(中央)

 

説明版

 

 鳥取城は戦国時代中頃に守護・山名氏によって築城されています。山名氏は室町幕府成立時の有力守護大名・山名時氏を祖とし、当時、日本にあった国の六割を一族で支配したことから「「六分の一殿」と称されるほどの権勢を誇ります。
 しかし、これを危険視した足利義満の謀略により一族同士が争い「明徳の乱」と呼ばれる幕府軍の介入で衰退し、因幡・伯耆・但馬の僅か3ヶ国の守護となってしまいます。
 時氏の曾孫・山名宗全は再び勢力を盛り返し、戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」で西軍総大将を務めていますが、長引く戦乱により再び山名氏は衰退していきます。
 鳥取城は因幡山名氏が宗家の但馬山名氏と対立したため、その侵攻に備えて築城したという説や、但馬山名氏が因幡を攻めるために築城したという説があります。
 しかし、当初は正式な城主は置かれなかったようで、城主として記録が残っているのは、元亀年間の武将・武田高信が最初だそうです。
 因幡武田氏は清和源氏の流れを汲む河内源氏の庶流甲斐源氏をルーツとし、若狭国の守護を務めた若狭武田氏の庶流とされています。
 因幡山名氏の客将として優遇されていた高信の父・国信は、守護・山名誠通に申し出て鳥取城番となると、城の大改築を行い、勢力拡大のチャンスをうかがっていたと言われています。
 但馬山名氏と戦いを繰り返していた山名誠通が、但馬山名氏当主の弟・山名豊定に討たれると、豊定は因幡守護として支配を強めていきまが、誠通の子・山名豊成は出雲の尼子氏の支援を受けてこれに対抗していきます。
 武田家の家督を継ぎ、鵯尾城(鳥取市玉津)にいた高信は、山名氏の混乱に乗じ鳥取城を奪取。さらに毛利氏と結びつき勢力を拡大していきます。
 鳥取城主となった高信は、永禄6年(1563)に山名豊成を毒殺し、一方で豊定の跡を継いだ山名豊数を撃退。山名一族の山名豊弘を擁立して実質的な因幡の支配者となり下剋上を達成します。
 その後、毛利の要請で但馬国・美作国を転戦していきますが、山中幸盛率いる尼子党との戦いに苦戦。元亀2年(1571)には山名氏に通じていた但馬国芦屋城の塩冶高清を攻めますが、「山賊衆」と呼ばれた塩冶の、地形を利用した巧みな戦法により大敗を喫してしまいます。
 さらに因幡の国人衆をまとめきれなかった高信は、天正元年(1573)に尼子党との戦いで決定的な敗北を喫し、山名豊数の弟・山名豊国に鳥取城を明け渡すこととなります。(鳥取のたのも崩れ)
 鵯尾城に退いた高信は毛利の支援を頼りにしていましたが、山名豊国が毛利方へついたため微妙な立場に追い込まれます。
 天正3年(1575)豊国に鵯尾城を追われた高信は、かつて戦った芦屋城の塩冶高清を頼り、高清を通じて毛利氏に助命嘆願を願い出ます。しかし、山名豊国や但馬山名氏は、逆に毛利へ高信の排除を求めたため、高信は息子・武田徳充丸へ家督を譲り隠居へと追い込まれます。
 高信は隠居後も小早川隆景に重ねて助命嘆願を行いますが、隆景は身の安全について言葉を濁し見捨てられた状態だったそうです。
 天正4年(1576)に高信は不慮の死を遂げています。その死については不明な点が多く、織田方へ内通したため山名豊国によって切腹させられたとか、豊国により鳥取市河原町佐貫にある大義寺におびき出され惨殺されたとか諸説あり定かではありません。
 一方、新しい鳥取城主となった山名豊国は、この後、羽柴秀吉が率いる織田軍に攻められ、織田方に恭順することを承諾しますが、これに納得しない家臣により鳥取城を追放されています。そして豊国の要請で行われた二度目の秀吉による城攻めが、後の世に「鳥取城渇え殺し」と呼ばれる兵糧攻めなのです。
 一時的でも下剋上を達成し、因幡国を支配した武田高信が亡くなったとされる大義寺には、高信の墓と伝えられている五輪塔があります。


大義寺 鳥取市河原町佐貫222