連合艦隊司令長官  山本五十六 | 墓守たちが夢のあと

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山本五十六の墓

 

山本五十六

 

 多磨霊園の東郷平八郎の墓の隣りに、第二次世界大戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六の墓があります。
 五十六は明治17年(1884)に旧長岡藩士高野貞吉の六男として生まれます。名前の由来は父親が56歳の時に出来た子供だからだそうで、この話になると山本は不機嫌だったと言われています。
 明治34年(1901)長岡中学を卒業し海軍兵学校に入学すると、在学中の明治38年(1905)に日露戦争の日本海海戦へ巡洋艦日進にて参戦、この戦いで左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負います。
 大正5年(1916)に長岡藩家老山本家を相続し山本姓を名乗るようになり、大正8年(1919)に渡米しハーバード大学に留学。欧米諸国をめぐり各国の実態をつぶさに視察しています。
 帰国後、海軍大学校教官に転じ、その後、海軍航空本部長まで昇進、今後、国防のためには航空戦力の増強が必要であると考え、後に連合艦隊司令長官として乗艦する戦艦大和建造計画には反対の立場であったと言います。
 昭和4年(1929)海軍少将に昇進した五十六は「ロンドン軍縮会議」へ次席随員として参加しますが、軍縮案に対して強行に反対し首席全権の若槻禮次郎を困らせます。その結果、海軍の一部勢力の支持を得て昇進を重ね、昭和14年(1939)に連合艦隊司令長官に就任ます。
 ただ、司令長官に就任したのは、軍部が推進する「日独伊三国同盟」締結に五十六が強行に反対したため、暗殺を避ける措置として海軍中央から異動させたとも言われています。
 アメリカとの開戦が避けられない情勢となると、アメリカとの国力の差を理解し、戦争は無謀と考えていた山本でしたが、海軍軍人・連合艦隊司令官という立場上、戦略を練ることとなります。しかし、戦争に勝つために持論の最新鋭零式艦上戦闘機などの増産を求めたものの軍部により却下されています。
 山本は昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を指揮し日米は開戦、戦況は当初、日本優位で推移しますが、山本が当初危惧していたとおり、次第にアメリカは体勢を立て直し、日本は劣勢に追い込まれていきます。
 山本は昭和18年(1943)ソロモン諸島、ニューギニア方面攻撃を直接指示するため ラバウル基地を訪れます。そして、前線航空基地の将兵の労をねぎらうため戦闘機により前線への視察を実施しますが、この計画をアメリカは無線傍受し暗号解読していたため筒抜けで、山本はブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死します。
 山本長官の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えるとして秘匿され、約一月後に遺骨が東京に到着した後に公表され国葬が行われます。五十六は多磨霊園の東郷平八郎元帥の墓の隣りに葬られましたが、後に故郷の新潟県長岡市の長興寺に改葬されます。ただ多磨霊園の墓はそのまま残されたそうです。
 
多磨霊園 7-特-1-2