【複製記事】名古屋陶磁器会館~荒川豊蔵資料館に行った時の話 | マサミのブログ Road to 42.195km

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2022年の5月に愛知~岐阜方面へ出かけました。その時のレポートは既述ですが、その中から「やきもの」に関する部分だけを抜き出して記録しておきます。

このブログに「やきもの」というテーマを独立させて新たに作ったので、そこに入れる記事を増やしたくて。それに、こうしておくと後で記事を探し出しやすくて便利なんです。

 

 

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2022年5月25日(水)

 

名古屋に着き、鶴巻公園~徳川園と、タイプの異なる公園を楽しんでから、次の目的地へ向かいました。15分ほど歩いて向かったのは…

 

 

こちら。規模は小さいけど重厚な建物でしょう?「名古屋陶磁器会館」です。今回の旅は「やきもの」が大きなテーマのひとつだったんですが、地図を見たら徳川園の近くにこういう施設があることに気がつき、行ってみることにしました。

 

 

時の流れを感じるエントランス。

 

 

中部地方は昔からやきものが名産でした。名古屋はそのやきものに絵を描く「絵付け」の職人が集まり、特に輸出向け/お土産用の製品がたくさん作られたんだそうです。(館内は撮影自由でした)

 

 

 

 

いかにもオリエンタルなエキゾチック感覚。日本に商売や観光でやってきた外国の人がお土産に買って帰りたくなるのも分かりますね。そして、中でも私が驚いたのは…

 

 

 

 

コーヒーや紅茶を飲み終わって、カップを光にかざすと、底にゲイシャガールの顔が現れる…これなんかも外国の人には喜ばれたでしょうねぇ。こういうものがあるなんて、ちっとも知らなかった。今ではすたれてしまったたようですが、それだけに風情があります。

 

 

館内にはアウトレットコーナー的な場所もありました。

 

 

 

「え?こんな値段でいいんですか?」と思うような品物がズラリと並んでいます。ご覧のように、デザイン的には明らかに「古くさい」テイストですけど、それが逆にお洒落だなと私は感じました。なので「あれも欲しい、これも持って帰りたい!」とワクワクしてしまいましたが、それは次回の楽しみにすることに決定。ここ、やきもの好きな方には超穴場かもしれません。入館は無料ですし、見るだけでもぜひ一度お越しになってみてください。

 

 

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5月26日(木)

 

8時ごろホテルを出て、名古屋駅近くの地下街でモーニングを食べて出発。名古屋駅からJR 中央線で中津川方面へ向かいました。

 

 

特急や快速でなく、あえて各駅停車を使ったら、「神領(じんりょう)」という駅で乗り換え、すぐ次の「高蔵寺」でまた乗り換えです。

 

 

途中の「古虎渓(ここけい)」という駅から見える景色は山々に囲まれた深い谷底で、まさに「人里離れた」という言葉がぴったりでしたが、すぐ次の「多治見(たじみ)」についたら駅の回りはビルやマンションが林立する大都会で、ちょっと驚きました。ここで木曽方面へ行く電車を降りて、美濃太田~岐阜方面に向かう電車に乗り換え。

 

 

乗り換えたのは2両編成の電車でした。

 

 

そして目的地の最寄り駅に到着。「可児(かに)」です。ここまで名古屋から約2時間。可児の駅から、さらにタクシーで15分ほどで向かったのは…

 

 

今回の旅で「どうしても行きたかったところ」のひとつめ、「荒川豊蔵資料館」です。

 

 

こういう道をちょっと歩くと、資料館が見えてきます。

 

 

資料館の建物はうまく撮れなかったので、これは↑パンフから。

 

 

荒川豊蔵さんは明治27年、多治見市に生まれました。北大路魯山人などのもとでやきものを学ぶうち、400年前に途絶えていた「志野焼き」というやきものが可児市内の窯で焼かれていたことを発見。この地に窯を作り住まいを移し、やがて「志野」と「瀬戸黒」で人間国宝として認められました。昭和59年、自分が活動していた施設一帯を「荒川豊蔵資料館」としてオープン。その翌年、91歳で亡くなりました。

 

 

何度か書きましたように、私(マサミ)が「志野」というやきものに興味を持ったのは、川端康成の小説『千羽鶴』のなかで「志野」が重要な役割を果たしているのを読んで「これは、少しはやきものの勉強をしないといけないな」と思ったのがきっかけでした。たまたま都内で鈴木藏(おさむ)という作家さんによる志野焼きの展示があったのを見て、ますます魅かれるようになりました。現代の志野焼きは、荒川豊蔵さんがいなければずっと「幻」のままだったろうと言われています。なので、荒川豊蔵さんについて知るならここへ行くしかない、と私は思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

この資料館には、荒川豊蔵さんの作品のほか、古い陶磁器、工芸品、古い書画、この付近から出土した陶片などのコレクションが展示されています。また、荒川さんが暮らした住まいや作業場、風呂場なども可能な限り保存・復元され、見学することができます。ただ、肝心の「窯」だけは通常は非公開。まぁ、仕方ないですね。

 

 

やきものを焼く窯は「登り窯」といって山の斜面に造られるので、荒川さんはこういう場所を選びました。右も左も、急な崖です。

 

 

上に見える建物が、荒川さんが暮らした住まい。

 

 

室内は、こんなふう。照明以外に家電品はありません。あ、ラジオぐらいあったかな?荒川さんはそういう暮らしを選んだようです。

 

 

1時間半ほど滞在しましたが、来訪者は私だけ。自分の足音と鳥の啼き声、せせらぎの音しか聞こえない別世界でした。私の後ろに見えるのは、お風呂場です。

 

 

荒川さんが好きだった言葉「隨縁」(縁に随(したが)う)を彫った碑が立っています。

 

 

「隋縁」という文字、かすかに読めますね。荒川さんの「やきものは、作ろうとして作ったものよりも、何も考えず自然に出来上がったもののほうが美しい」という言葉に魅かれます。

 

パンフレットを読んだら、荒川さんは北大路魯山人のもとで修業していたとき、鎌倉に住んでいたんだとか! 驚き。昭和のはじめ頃、鎌倉の「星岡窯」で6年間ほど暮らしたそうです。地図を見ると、北鎌倉の駅と、今のモノレールの湘南町屋駅の間のあたり。鬱蒼とした山の中ですね。魯山人が暮らした家は非公開のようですが、いつか歩いてみます。荒川豊蔵さんも、北鎌倉の駅周辺を歩いたのかと思うと、ほんの少し、自分ともご縁が繋がるような気がして心が踊ります。

 

荒川豊蔵さんについては、またこのブログで触れることもあるかと思います。とりあえず資料館を出て、またタクシーで向かったのは…

 

 

 

荒川豊蔵資料館と可児駅の間にある「可児郷土歴史館」。

 

 

やきものを中心に、可児の町の風土や歴史が分かるような展示がされていました。こちらも館内の撮影は自由。

 

 

「窯」の模型もあって、分かりやすくて助かりました。

 

 

「美濃焼」と呼ばれるやきものは、とても短い間しか作られなかったんですね。「志野」なんて、せいぜい30年間ぐらいじゃん!なぜそうなのかの説明がなかったのは残念ですが、いずれ調べてみましょう。

 

 

 

 

現代の作家さんたちによる志野や織部の茶碗が展示されていました。やきもの以外にも興味を惹かれた展示がありましたが、それはまたにして、可児で過ごす時間は終了。とても充実した約半日でした。多治見から特急「しなの」に載って名古屋へ戻りました。