吉行淳之介さんが住んだ市ヶ谷の街をたずねて | マサミのブログ Road to 42.195km

マサミのブログ Road to 42.195km

走る・観る・聴く・読む・歩く・食べる・楽しむブログ

私は日本人の作家で好きな人というと、吉行淳之介さん(1924~1994)になります。確か高校3年の時、後輩が持っていたエッセイの文庫本を読んだのがきっかけなので、名前を知ってからもう50年近くですね。1997年に放送されたNHKの連続テレビ小説「あぐり」のモデルになった故・吉行あぐりさんの息子さんです。女優の吉行和子さん、詩人で作家の故・吉行理恵さんのお兄さんでもあります。

私はそんなに「熱烈」というほどのめり込んではいなかったのですが、小説・エッセイ・対談など、吉行さんの作品なら「どれどれ」という感じで目を通してきました。彼のどこが好きか、を語り始めると際限がないので(笑)それはまたいつか。

 

 

この写真は40代ぐらいでしょうか。作家として油が乗っていた頃かな。そして、若い頃の写真を見て、ちょっと驚いたんですけど・・・

 

左の2枚が若い頃の吉行淳之介さん。右の2枚が高橋一生さん。似てますでしょう? ひょっとしてと思ってTwitterを検索したら、同じことを思って投稿した人がいました。2年前ですけど。

 

静岡県の掛川というところに、吉行淳之介文学館があります。私は去年の4月に初めて訪問しました。その時の記事は、こちら。

 

https://ameblo.jp/masami5681/entry-12507054487.html

 

 

 

 

 

 

 

先日、伊勢佐木町の古本屋で、吉行さんの初期の作品が大量に並んでいるのを発見しました。おそらくどこかの吉行淳之介ファンの方が、蔵書を一気に処分したのだと思います(持ち主が亡くなってご家族が売りに出したのかも?) 私も知らない珍しいものがあったので、何冊か購入しました。

 

 

ほかにもいろいろありましたが、いっぺんに買うのはお金が大変なので、行くたびに少しずつ買っています。買う人がいないらしくて、いつ行っても棚に並んでいるから安心ウシシ

 

 

そうなると、なんだか急に吉行さんのことが気になってきて、いろいろな方が書いた吉行さんについての本もアマゾンで探して読んでみました。お母さんのあぐりさん、妹の和子さんと理恵さん、事実上の伴侶だった宮城まり子さんはじめ、多くの方が淳之介さんの思い出を語っています。読んでいちばん心を打たれたのは、やっぱり宮城まり子さんが書いた『淳之介さんのこと』かなぁ。

 

吉行さんは岡山で生まれ、すぐに東京に引っ越してきて、市ヶ谷に住みました。そのあたりのことをエッセイに何度か書いているので、長くなりますが、引用します。

 

―――

 

当時は私は番町小学校児童で、市ヶ谷駅傍の広い坂道に沿ったところに住んでいた。その坂を登り切って、そのまま二百メートルほど歩くと、今は左側に日本テレビがある。

 

市ヶ谷駅のプラットホームは、水をたたえた堀のそばにある。階段を上がって、改札口を出ると、広い道路が目の前にある。左は堀を跨ぐ橋で、それを渡った突き当りが、市ヶ谷見附である。右は緩い坂が九段上まで続き、にわかに急勾配の下り坂になって九段下に向かう。この道路には、市街電車が走っていた。

 

九段上への電車道から直角に岐れて、勾配の大きい上り坂がある。駅を出て右へ歩くと、すぐその坂で、駅の建物の横に沿って上へ伸びていた。坂の途中の左側に、私の家があった。その坂を上ってそのまま歩くと、足袋屋、文房具屋、カメラ屋と続き、ところどころに細い路地の口が開いていた。その先の左側には、高い塀がつづいていたが、現在この場所は日本テレビになっている。

坂を上り切って、右へ直角に曲がれば、広い道が真直ぐに伸びている。そして、市ヶ谷と四谷をつなぐ土手に、突当る。低い土手で簡単に登れるが、向う側は長い斜面になっていて、下のほうに市ヶ谷駅から四ツ谷駅への線路が見え、そのすぐ向うは堀の水であった。これは、江戸城の外濠だった。堀を越すと上りの急斜面で、その上の道には市谷見附からの市街電車が走っている。

土手の五十メートルほどの急斜面には、雑草が繁っていていつも人気(ひとけ)がない。四・五人誘い合って、ここを遊び場にしていたことがある。尻の下に茣蓙(ござ)を敷いて、斜面を滑り降りる。斜面の凸凹が尻に触れてきて面白い。下に着くと、また茣蓙をかかえて登ってゆき、飽きずに繰り返す。

土手の近くの四ツ谷駅寄りに、雙葉女学校があった。

 

―――

 

こういう文章をあらためて読んでいるうちに、私はこの場所を確かめたくなってきました。吉行さんが幼少の頃から30年近く住んだのはどこなのか、知りたくなったんです。仕事が早番で終わったある日の午後、思い切って行ってみました。あらためて地図を見ると、私の勤務先の赤坂見附から市ヶ谷は、意外に近いことに気がつきました。水道橋や飯田橋、四谷あたりはたまに行くことがありましたが、市ヶ谷って、私とは縁がなかったもので、なんか遠く感じていたもんです。でも旧赤坂プリンスホテルの前を過ぎ、新宿通りを渡ってまっすぐ歩いてみたら、30分かそこらで着いてしまった。こんなにすぐ近くなのかと驚きました。

 

 

JR市ヶ谷駅。中央線の各駅停車しか停まらない、わりと地味な駅です。

 

 

駅を出て左にはお濠があり、反対側にはこのように「坂」が見えます。ここをまっすぐ行けば日本テレビがあった所なので、吉行さんが言っている「坂の途中の家」はこのあたりに違いない。

・・・と思って歩きましたが、どうもよく分かりません。当時とまったく景色が違っているんだろうなとは思いましたが、手掛かりがまったく無いんです。お腹が空いていたので、坂の途中にあった、いかにも歴史がありそうなレストランに入って食事して、出る時にそこのおかみさん(老婦人)に尋ねてみたのですが分からず。「駅の前に古い床屋さんがあるから、そこで訊けば判るかもしれませんよ?」と言ってくださったので、駅前まで戻ったのですが、今度はその床屋さんがみつからない(泣)。こうして、一度目の捜索は空振りに終わってしまいました。そしてネットでいろいろ調べると役に立ちそうな情報を発見しましたので、10日後ぐらいにもう一度市ヶ谷を訪れたのです。

 

 

どうやら、この本屋さんが入っているビルのあたりに、吉行さんの家があったようです。吉行あぐりさんの美容院もここでした。あぐりさんはこのビルが建ってからは、ビルの1階に小さな美容室を設けて、そこで営業されていたそうです。

 

 

1階に「ヘアサロン・サイトウ」という看板がありますが、それがかつての吉行あぐり美容室。ああ、突き止めました! でも、あたりの風景はとにかく大きなビルばかりで、「吉行淳之介さんは、この光景を見て育ったんだろうなぁ」と思えるようなものはまったく無し。仕方ないけど、寂しいですね。

 

 

坂の向い側にあるこのマンションの一室には、吉行あぐりさん、和子さん、理恵さんのご家族が、それぞれ独立した部屋に住んでいらしたそうです。また宮城まり子さんのオフィスもここだったとか。こういうことはすべてネットで知りました。インターネットの有難さ。(怖さでもあるけど)。

 

 

坂の上から下を見ると、こういう感じ。ここは「新坂」というのですね。右側に吉行あぐり美容室と淳之介さんの家があって、左はあぐりさんたちが住んだマンション。私は目をつぶって、昭和20年代~30年代のこのあたりのことを心に浮かべてみました。千代田区立図書館に行けば、市ヶ谷界隈の古い写真があるかなぁ?こんど行ってみよう。

 

 

坂を上って少し行くと、大規模な工事現場。ここが、かつて日本テレビがあった場所です。日テレは今では汐留に移転しましたが、前の建物はわりと最近まで残っていました。全部壊されていたのを知ってちょっとショックです。何が出来るんでしょうねぇ。

 

余談ですが、旧・日本テレビといえば、土居まさるさんが司会をしていた「TVジョッキー」という番組、ご存知ですか? 私が中学3年の時、同じクラスのH君がこの番組に出演することになって(視聴者が参加するクイズコーナーだかなんかだと思います)、私も付き添いでH君について行って、収録(生放送だったかな?)が終わるまでブラブラしていたことがあります。見学扱いでスタジオに入れてくれても良かったのにねぇ? それにしても、あれからもう50年ですか・・・ふぅ。

 

 

日本テレビの跡地から少し戻って角を曲がると、高級マンションが立ち並ぶ一角に、こんな表示板がありました。

 

 

 

おお~。ちゃんと吉行淳之介さんも紹介されていますね。千代田区、偉い!(笑) ちなみに内田百閒(うちだ・ひゃっけん)という作家もこのあたりの住民でしたが、吉行さんは「近所に住んでいたはずだが、会ったことはない」と書いています。

 

 

なお、このあたり一帯を「番町」と呼びますが、江戸時代の有名な怪談「番町皿屋敷」の舞台になったのがここだそうです。「いちま~い、にま~い」とお皿を数える、あの話ですね。詳しく読んだことがないので、いつか読んでみよう。

 

そして、さっきの表示板のある通りを歩いていくと、突き当りに小さな階段が見えてきました。

 

 

これです。私は見た瞬間に、何かピン!と来るものを感じて、上ってみました。すると・・・

 

 

 

JRの線路とお濠に向かって、こういう斜面があるんですよ。私はこれか!と思いました。

 

(再掲)

坂を上り切って、右へ直角に曲がれば、広い道が真直ぐに伸びている。そして、市ヶ谷と四谷をつなぐ土手に、突当る。低い土手で簡単に登れるが、向う側は長い斜面になっていて、下のほうに市ヶ谷駅から四ツ谷駅への線路が見え、そのすぐ向うは堀の水であった。これは、江戸城の外濠だった。堀を越すと上りの急斜面で、その上の道には市谷見附からの市街電車が走っている。

土手の五十メートルほどの急斜面には、雑草が繁っていていつも人気(ひとけ)がない。四・五人誘い合って、ここを遊び場にしていたことがある。尻の下に茣蓙(ござ)を敷いて、斜面を滑り降りる。斜面の凸凹が尻に触れてきて面白い。下に着くと、また茣蓙をかかえて登ってゆき、飽きずに繰り返す。

 

小さかった頃の吉行さんが、お尻に茣蓙を敷いて何度も滑り降りたのは、この斜面ですね。これは間違いない! 住まいがあった付近はビルだらけになってしまったけど、この斜面は当時と変わっていないのだろうと思います。ここに生えている一本一本の樹を吉行さんは見たはずだし、樹のほうも、無邪気に遊ぶ吉行さんを見おろしていたに違いない。そう思うと、私は不思議な感銘に打たれて、しばらくこの場所にたたずんでいました。

 

 

あとで分かりましたが、ここは外濠に沿って千代田区が整備した公園なんですね。赤坂見附の、ホテルニューオータニの下にボート乗り場があるでしょう?あのあたりから四谷~市ヶ谷~飯田橋にかけて、細長くず~~っとお濠を見おろす形で整備されていて、桜の季節はとても綺麗なようです。来年の春にレポートしますね。

 

そして、ここまで来れば四谷の駅が目の前。吉行さんが書いている「雙葉女学校」は「雙葉学園」と名前を変えて今も健在です。これで今回の市ヶ谷歩きは終了。とても味わい深く、また収穫の多いひとときでした。

 

 

 

 

 

<おまけ情報>

なお、この市ヶ谷歩きをきっかけにして、私の「吉行淳之介の足跡をたどる旅」が始まりました。近いうちに「第2章」をお届けしますので、どうぞお楽しみに!