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●元来、鋳造家業の売り上げの根幹を占める製品は、生活必需品である鍋や羽釜(前94項)、鉄鍬などであった。これまでに見てきた江戸深川鋳物師の太田六右衛門は「釜六」、田中七右衛門は「釜七」、川越鋳物師の小川五郎左衛門は「鍋五」、矢澤四郎右衛門は「鍋四郎」が通称であったが、かなり端的ながらそれを裏付けている。

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埼玉県児玉郡金屋村(現在の本庄市南部)の主な鋳物師は、2軒の倉林家(前95項)であったが、明治半ばの売り上げを重量比でみると、9割がそれらであった。また、幕末の大砲鋳造家の川口の増田家は、明治維新を境にその受注が減少してくると、本来の鍋釜の鋳造に回帰している。

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あるいは、川口の金物問屋の鍋平商店(前88項)は、鍋釜を商って巨大な富を築いている。消耗品であるから、作れば必ず売れたのである。画像は、埼玉県入間市小谷田の法栄山東光寺(前80項)で見た、天水桶代わりの1対の羽釜だ。

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羽釜とは、竈(かまど)にかけるための「つば」があるお釜のことを言うが、飯炊きは勿論、味噌を作ったり豆を煮たりすることなどにも使われる。通販サイトを見ると、口径140cmの大釜は、1回で約2石8斗の炊飯が可能で、定価では300万円を超えている。

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大きな羽釜になると当然高価になるようだが、鋳物師の中には、「貸鍋」というレンタル的な事をする人もいたようだ。例えば年間契約で農家へ貸し出し、代金は、稲の実りの時期に収穫物で物納してもらったという。

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●今回は、その羽釜を中心に見ていくが、まずは、山梨県甲府市川田町の老舗蕎麦屋の前にある、「とりもつ神社」を見てみよう。鶏モツ煮は、甲府市のソウルフードとも言われるが、砂糖と醤油で煮込んだ濃厚な料理で、癖になる味だ。

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立札を見ると、「みなさまの縁を とりもつ神社」と洒落ているが、「平成23年12月吉日」に建てられた私設神社のようだ。丸に「縁」の字が掲げられた鳥居をくぐると、羽釜の上に小さな社が鎮座しているが、かつてはこの釜で鶏モツを煮込んだのであろう。

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●長野市箱清水の湯福(ゆぶく)神社は、長野市元善町の定額山善光寺(後122項)の北西に位置し、善光寺の守護神である善光寺七社のひとつとして数えられている。社名は「息吹(イフキ)の神」の御名が、「イフクの神」、「ユブクの神」に変わってきたもので、「井福大明神」とも称されるという。

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掲示板によれば、御祭神の健御名方命は、水を司る力の強い神として信濃国の守護神とされ、日本中に「諏訪信仰」として広まっているが、ここの神紋も諏訪大社と同じ「梶の葉」で、羽釜の正面に張り付けられている。

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10月には境内で大釜に湯を煮立たせ、その露を参列者に教布して修祓をする「湯立て神事」が行なわれる。聖なる熱湯で不浄を清め去り、明日への清浄発展を祈る神事という。その際、この羽釜を使う訳ではないようだが、この1対に、メーカー名などは見られない。


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●続いては、横浜市保土ケ谷区岩間町の香象院(こうぞういん)。在田山安楽寺と号し、天正11年(1583)の創建で、東国八十八ケ所霊場の26番札所だ。環状1号線沿いの境内への入り口に1対の大羽釜があり目を引く。

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かつて、天水桶として本堂前にあった羽釜は、消火や炊き出しに使えるとして、戦時中の金属供出(前3項)を逃れているが、モダンな現在の堂宇再建に当たって門の入口に移動され、その後、再塗装され甦っている。

保土ヶ谷・香象院

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口径1.3mの大釜で、鋳造年月日は不明だが、「深川(七)製」と陽鋳されている。江戸深川鋳物師の田中七右衛門、釜七(前17項など)だ。同氏作の数々の天水桶は見てきたが、羽釜は初めてだ。何に使われていたのだろうか。

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ここ保土ヶ谷宿の香象院の近くには、「ビール坂」と呼称される坂があるが、明治26年(1893)に「東京麦酒」がこの地でビールの醸造を始めている。後に「大日本ビール会社」もここで湧出する清水を使用しビールを作っていたが、そこでお役御免になった釜がここに寄進されたと想像されようか。

保土ヶ谷・香象院

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●釜七製をもう1例。横浜市港南区上大岡東の曹洞宗、西福寺だ。ホムペによれば、創建は慶長2年(1597)で、もとは神奈川県の真鶴にあり、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していたという。真鶴の海辺にあった西福寺は、海の安全や豊漁を祈る祈祷寺院で、檀家のいない寺であった。

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本堂前では、2基の羽釜が天水桶として設置されている。口径、高さとも3尺、900ミリの調理釜で、「上 (〇に)七製」と鋳出されているが、○の中に「七」の字の社章であり、釜七製だ。「上」の文字については、前61項で検証している。住職によれば、先代さんが、天水桶兼調理用として注文したといい、災害時の炊き出しを想定しての事だという。

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前30項では、川口市本町の川口市立文化財センターを訪問したが、懐かしのダルマストーブや火鉢、半鐘など、文字通り多くの文化財が展示されている。元川口市長の故永瀬洋治がここに寄贈した1基の天水桶は、「天保10年(1839)10月吉日」の銘で、高祖父の「永瀬文左衛門 藤原光次」作だというが、名の鋳出し文字は見られなかった。弘化2年(1845)に48才で没している6代目だ。

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永瀬家の来歴を大まかにまとめると、初代と思われる永(長)瀬治兵衛守久は、市内本町の宝珠山錫杖寺(前3項)に現存する「時寛永18年(1641)9月日」銘の梵鐘を手掛けているが、これは県指定の有形文化財で、現存する江戸期の川口製の梵鐘としては2番目の古鐘だ。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」などには7例の銘が記されている。

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本サイトでは、7例全てについて記載していて、鋳物師は違うが、3番目が「都内練馬区高野台・東高野山長命寺 慶安3年(1650)9月21日銘(前59項)」だ。最古は、「都内武蔵村山市中藤・龍華山真福寺 寛永15年(1638)3月21日銘(後131項)」となっているが、他の古鐘も登場しているので、是非ご参照いただきたい。

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●次に登場する羽釜を鋳た文左衛門は、宝暦年間(1750~)ごろの3代目だ。その後の代では、文化年間(1804~)からは、今は現存しないが、千葉県成田市・成田山新勝寺(前52項)、文京区千石・簸川(ひかわ)神社(前38項)などへの天水桶を鋳造、天保13年(1842)には、岩槻藩向けに大砲1挺を納めている。(前82項参照)

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明治初期、9代目は、鋳物師株を売却し醤油醸造業を始めていて、10代目の永瀬洋治は、昭和56年(1981)から第9代川口市長を4期務めているが、平成24年(2012)2月、80才で没している。また永瀬家は、江戸中期からは川口宿本陣や問屋を運営し、町役を担ってきた家系だ。

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●さて、ここの「鋳物資料室」には、「上(前61項) 佐野天明 大川文左衛門」と鋳出された5尺ほどの大きな羽釜がある。やはり永瀬洋治の寄贈で、一部に腐食による穴あきがあるが、外回りは塗油され管理されている。この鋳物師は、「永瀬文左衛門」だ。「天明」は、「天命」と表記されることもあるが、どんな意味であろうか。

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万延元年(1860)に書かれた、鋳物師元締めの、京都・真継家(前40項)の「鋳物師由緒書写」を見ると、第76代近衛天皇(1139年~)に献上された灯籠が、「斯のごとく闇夜たりと言えども、禁内日中のごとく、灯籠の光り上天まで輝きければ」とあり、余程明るかったのであろう、河内国丹南郡の天命という名前の鋳物師に対し、「天明と号称せられ」とある。

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「そもそも天命と号する子細は、天児屋命(あめのこやねのみこと=日本神話に登場する神)が初めて鍋釜を用いはじめ給うにより」、この神の名の「天」の字と「命」の字をもってして「天命」と称されたという。そして「藤原の姓を賜り、末代にいたるまで他の鋳物師を堅く停止」、つまり、代々の世襲を認められている。

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この勅許鋳物師の天命の子孫は、諸国往還の自由や課税免除を認められ、これによって諸国に移動し土着、鋳造業を広めた訳だ。真継家はこの由緒書を基に、幕末に至るまで諸国の鋳物師達を支配下に置き統括し、上納金を収受していたのだ。鋳物師らにしてみれば、縄張り争いなどの紛争解決に、朝廷という権威を背景に介入してくれるなどのメリットがあった訳だ。

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●埼玉県川口の鋳物師も、栃木県佐野の鋳物師も「天命子孫の鋳物師」だとする説があるが、なぜここの羽釜は、川口鋳物師・永瀬文左衛門作であるのに、「佐野」であり、「大川」姓なのだろうか。小原昭二の「川口市史 川口鋳物業の成立」を参考に解析してみよう。

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宝暦13年(1763)に「大川文左衛門」ら4人は、川口で初めて、真継家から鋳物師許状を受領している。この許状の文言によれば、彼らは、「野州(栃木県)天明の伊賀守藤原信茂の後胤(子孫)」であり、信茂は、大川天命と称し、「佐野」天明鋳物師の中枢にあった由緒ある家柄であったという。

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前59項の文京区向丘の涅槃山西教寺では、「天明4年(1784)12月 天明伊賀守後胤 武州足立郡川口宿 永瀬次良右門」銘という銅鐘を見ている。文左衛門と次良右門の関係は不明だが、次良右門は、「後胤」、つまり伊賀守の子孫であるという重要な証言を遺していたのだ。

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前88項の、太田市金山町の大光院新田寺、「呑龍(どんりゅう)さん」では、「佐野天明 御鋳物師 大川善兵衛 藤原重光 元治元年(1864)5月」という天水桶を見てきている。大川は、堂々と「佐野天明」と表記しているのだ。

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●確かに前66項で記述したように、佐野鋳物師らは、慶長19年(1614)の江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦、大阪冬の陣の起因となった京都市東区・方広寺の梵鐘を、上洛して鋳造している。口径2.8mの巨鐘であり、国の重文だ。片桐且元(前18項)が真継家を通して製作依頼したものだが、このことからも、大川家は古くから真継家と関わりを持っていたことが判る。

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しかし、12年後の安永4年(1775)3月に、筋目を継承する継目許状を受けた時の名は「永瀬」という本名に戻っている。従ってこの「大川姓」は、来歴の不確かな永瀬家に対し、真継家が許状を発給するための、その場限りのとりあえずの手段であったと思われる。下の画像の許状は、「安政4年(1857)12月 武州足立郡川口宿 鋳物師 永瀬文左衛門」宛に、「禁裏諸司 真継大和守支配」が発給したものだ。安永4年以降は、「永瀬」で統一されているのだ。

永瀬文左衛門

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●一方で、矛盾する事実もある。上述のように、川口市本町の宝珠山錫杖寺(前3項)には、「寛永18年(1641)9月」銘の梵鐘が現存するが、当時、名主職であった宇田川宗慶が「長瀬治兵衛守久」に鋳造させている。

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守久は、改鋳され戦時に金属供出(前3項)し現存しないが、「北区岩淵町 天王山正光寺(後131項) 元和5年(1619) 長瀬治兵衛盛久」、「川口市舟戸町 平等山善光寺(後130項など) 寛永元年(1624) 長瀬治兵衛盛久」や、「北区中十条 無量山西音寺 寛永17年(1640) 長瀬治兵衛盛久」銘の銅鐘を鋳ている。

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●これらは「川口大百科事典」によれば「守久」ではなく「盛久」となっているが、西音寺の銅鐘は、「長瀬七郎右衛門盛次」との連名になっていたようだ。元は都内北区岸町・王子稲荷神社(前15項)の鐘で、その社殿の造営に際し、幕命により新規に鐘を鋳る事になったという由来が記されていたという。

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しかしこれも戦時に金属供出し現存はしないが、画像の西音寺の現役の「昭和28年(1953)7月吉辰」の銅鐘には、その旨刻まれている。これを鋳た鋳物師は「東京都浅草 瀧田藤太郎 鋳造」銘だが、この人の来歴は不明だ。

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●守久は、錫杖寺の過去帳から、永瀬文左衛門の先祖であることが明白だが、重要なのは、真継家と関係する1世紀も前から「長瀬(永瀬)」姓で営業していた訳で、来歴が不確かだとは言えまい。遠い京都の地を本拠とする真継家にとっては、漏れ聞いたことも無い名前であったという解釈でよかろうか。

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要は、大川天命鋳物師というブランドの、虎の威を借りるキツネ状態での許状発給であったのだが、永瀬家としては、まさか大川家に無許可で発給を受けたとは考えられない。大川家の子孫、あるいは、それに近しい関係であったのだろう、懇願し名を借りたと想像できよう。それほどこの許状は、鋳造業を継続する上で重要な意味を持つお墨付きだったのだ。

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さて、これらを踏まえると、文字は鋳出されていないが、この羽釜の製造年は、「大川文左衛門」名で初の許状を受けた、宝暦13年(1763)から、「永瀬文左衛門」に変わった安永4年(1775)の前までの期間とみてよかろう。

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●さてお次だが、さらにこの文化財センターには、7尺サイズの大きな羽釜がある。右側に見える木製の枠組は、砂型を作るための挽き型(前33項)を支えるウマだ。外回りは塗油されこれも管理状態は良好だ。

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「川越○吹製」とだけ陽鋳されているが、川越鋳物師の小川五郎右衛門の作例だ。由緒ある鋳物師で、埼玉県川越市の有名な「時の鐘(前65項後126項)」を3度製作している。最初は、酒井忠勝が城主時代の寛永年間(1624~)に、続いて、明和7年(1770)の松平直恒時代には、「小川五郎右衛門為勝」、最後は、文久元年(1861)に「小川五郎右衛門栄長」が鋳ている。これは、口径2尺5寸、高さ4尺7寸という縦長イメージの銅鐘であった。

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前65項では、神奈川県伊勢原市大山にある大山阿夫利神社で、巨大な天水桶1対に出会っている。鋳造者のデータを拡大してみると同じ社章の「○に吹」が確認できる。奉納は、「明治37年(1904)4月」であったので、羽釜の鋳造もこの頃だろうか。

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●これと同じ大きさの羽釜が、川口市鳩ケ谷本町の鳩ケ谷氷川神社の境内にもある。前21項で見たように、ここの拝殿前には、「川口町 業工 永瀬正吉 明治16年(1883)3月27日」という天水桶がある。また本殿脇では、「明治三歳(1870)十月吉日」と鋳出された、「川口鋳物師 永瀬利右衛門」という桶も見た。

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「上(前61項)」の文字が羽の上にあるが、この羽釜の鋳出し銘を縦にしてみると、鋳造者は「武州川越 小川五郎右衛門製」となっている。恐らくは、明治期の鋳造であろう。何本かの横縞線が見え、文化財センターのものとは、少しデザインが違うようだ。これらの大きな羽釜の存在は、小川家も生活必需品の鋳造に重きを置いていた事の証左であり、「鍋五」と呼ばれ親しまれた所以であろう。

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●では最近見た、小川製の天水桶を1例見てみよう。千葉県香取郡神崎町の神崎(こうざき)神社だ。説明板によると白鳳時代(672~)に、常陸と下総国の境界にある大浦沼二つ塚からこの地に影向して遷座したといい、江戸期には20石を賜る朱印寺であった。

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7千坪の寺域は「神崎の森」と呼ばれ、大正15年(1926)指定の天然記念物のクスの大木は、「ナンジャモンジャの」木と呼ばれている。延宝2年(1674)4月、水戸光圀公の参詣の折、「この木は、何というもんじゃろうか」と自問し感嘆したという。主幹は明治40年(1907)に焼けたが、現在の樹高は20m以上に達している。

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堂宇前に鎮座するのは、2尺強の鋳鉄製の天水桶で、正面には「三つ巴紋」が映えている。奉納は、「東京大相撲協会 理事長 春日野七五郎」だ。日本相撲協会の「年寄名跡目録」を見ると、明治32年(1899)7月から大正14年(1925)5月まで年寄の名を襲名し、親方株を保持していた春日野系の7代目だ。

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鮮明な文字で、「埼玉県川越町 小川五郎右衛門造 大正11年(1922)11月」と読める。本サイトで見る同氏の天水桶の作例としては、上述したが、前65項の「大山阿夫利神社」、前89項の「群馬県前橋市・臨江閣 鎔工 小川五郎右衛門 文久2年(1862)」、「埼玉県入間郡越生町龍ケ谷・長昌山龍穏寺 川越市 小川五郎右衛門製 昭和2年(1927)10月」に次いで4例目であった。

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●続いての羽釜は、都内目黒区上目黒の天台宗、新清山観明院寿福寺だ。境内の掲示板によれば、元和元年(1615)、鳳算大阿闍梨(ほうさんだいあじゃり)が創建したと伝わるが、保持する鎌倉期の板碑からすれば、さらに遡るとされる。本尊は、阿弥陀如来像だ。

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ここでは、口径1.4mほどの羽釜が天水桶代わりとして使われている。四角いコンクリート製の台座は、かまどを模していて、下半分がそこへ埋め込まれている。側面に丸い耳が取り付いているが、移動用の吊り輪だ。鋳造者銘として、「永島喜平造」と鋳出されている。過去に1例だけ出会っている鋳物師だが、前25項で見た墨田区押上の飛木稲荷神社の天水桶で、「佐野 永島喜平 大正14年(1925) 9月吉日」銘であった。

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文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(川口市・増田忠彦蔵)」や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」の「下野安蘇(あそ=栃木県にあった郡) 佐野天明駅」の項に登場する、天明鋳物師、「永島孫七」の系統だ。「安政4年(1857)6月 三木半右エ門 分家ニ付許容ス」とあり、筋目を継承したのが判るが、この三木も鋳物師であった。

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●永島製の羽釜がもう1例ある。栃木県佐野市堀米町の開本山妙顕寺(後120項)だが、ホムペを見ると、中老僧(ちゅうろうそう)の天目上人が、永仁2年(1294)に開創した寺となっている。中老僧は日蓮聖人の本弟子である六老僧に準ずる直弟子の12人の事だ。天目上人は美濃阿闍梨(みのあじゃり)と称し、下野安蘇郡奈良渕村で布教していた時、唐沢城主の佐野家及び家臣の若田部源五郎光盛が帰依して一宇を建立、同上人を開山に仰いだのが寺の始まりという。

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本堂の正面からは見えない、狛犬の奥の樹木のさらに裏側に、3.5尺サイズのΦ1.050ミリ、高さ900ミリの羽釜が2基ある。大きさからして業務用の羽釜であったろう。正面に銘が向けられているが、「永島喜平造」とある。永島家も市民生活に根付いた羽釜の鋳造に重きを置いていたようだ。

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●では次に、永島作の天水桶を2例見てみよう。まずは、千葉県成田市名古屋にある小御門神社だ。ウィキペディアによれば、第96代後醍醐天皇の側近の花山院・藤原師賢(もろかた)を祀る。師賢は元弘元年(1331)、天皇の身代わりに比叡山で討幕の挙兵したが捕えられ、翌年に下総国に流され32才で没している。

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明治15年(1882)に、師賢の墓跡に社殿を造営し、同年4月に鎮座祭が行われ、6月14日には別格官幣社に列格している。後醍醐天皇の身代わりとなったことから「身代わりの神」として、交通安全・航空安全に御利益ありとして信仰されている。

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大きめな金色の「十六八重表菊紋」が据えられているが、化粧直しすれば見違えることだろう。この紋章には、花弁の枚数など様々な種類があるが、正式な天皇と皇室の紋とされている。その直ぐ右横に、作者の銘がある。通常は奉納者と比肩するかの様な配列を避け、裏側に記すのが常識的だが、意外な場所での表記だ。

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銘は、「佐野 永島喜平 製造 明治33年(1900)4月29日納之」だ。「小御門神社 創建同志会員連名」として、「贈正三位子爵 稲葉正邦」、「正四位子爵 青山忠誠」ら多くの人名が列挙されている。正邦は、幕末の京都所司代で、山城淀藩最後の12代目の藩主だが、明治31年(1898)の没。忠誠は、篠山藩第5代藩、主青山忠良の十男であったが、明治20年(1887)に29才という若さで他界している。いずれも、没後に名を刻まれているようだ。

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●千葉県東北部から茨城県東南部にかけて、「東国三社」と呼ばれる神社がある。創建時に神宮と呼ばれたのは、他には伊勢神宮のみであり、格式の高い神社だ。江戸期には「下三宮参り」と称して、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後にこれら3社を巡拝する慣習が存在したという。

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茨城県神栖市の息栖(いきす)神社の主祭神は、久那戸神 (くなどのかみ)で、第15代応神天皇年間の創建と伝わる。古文書に見られる「沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられていて、水上交通の神であるという。

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茨城県鹿嶋市宮中の常陸国一宮の鹿島神宮は、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する建御雷神(たけみかづち)を祭神としている。初代天皇、神武天皇元年を創建年としているが、紀元前660年だ。有名な「要石」は、地震を起こす大鯰を押さえつけるとされ、その守り神として信仰されている。なお、この2社には天水桶は存在しない。

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●3社目は、千葉県香取市香取の下総国一宮(前89項)、香取神宮だ。各地にある香取神社の総本社格で、初代神武天皇18年の創建という。主祭神は、武神・軍神として崇められる経津主(ふつぬし)大神で、天照大神の御神勅を奉じ、国家建設の基を築く大業を果たした大功神だ。

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通常、拝殿の裏に祭神を安置している本殿がある。木柵で囲まれていて立ち入りは出来ないが、その内側に1対の鋳鉄製の天水桶がある。かつては拝殿前にあったと思われるが、今は現役を退き保管されている状態のようだ。

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「三つ巴紋」が正面に据えられていて、裏には多くの世話人の名が並んでいるが、願主は、「新市場村 越川貢」となっている。大きさは、3尺、Φ900ミリほどであろうか。

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作者は、「鋳物師 江戸深川 釜屋七右衛門(花押・前13項) 嘉永元年(1848)5月吉日」銘で、上述の釜七だが、この元号での作例とはお初の出会いだ。多くに花押が見られるがここのも例外ではない。が、「衛」の文字が「エ」という片仮名に省略されていない。他の作例のほとんどは、「七右エ門」なのだ。

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●県指定有形文化財の旧拝殿、祈祷殿前にも、1対の天水桶がある。元禄13年(1700)の造営で、昭和の大修築に伴って南東に移築されているが、朱塗りであることや、彫刻等の随所に当時の様式が見られる。

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4尺ほどの鋳鉄製の1対で、正面には「三つ巴紋」があり、右側の台座には、「報恩」と刻まれている。辞書によれば、「仏教では、祖師などの恩に感じて仏事、布施などを行うこと」とある。

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神職によれば、左には「酬徳」とある。報恩に対して、感謝するということだ。「酬」という文字には、報いるという意味があるが、通常は、「報恩謝徳」で成句だ。奉納は、「当国佐原町 小森半助 謹献」であった。

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鋳造は、「下野国佐野町 鋳物師 永島喜平 明治29年(1896)4月11日」で、「御本殿御修営竣工之際」に造立されている。このように、永島家も必需品の羽釜や、神前への献納物を多く手掛けていたのが判るが、今に伝わり見られる鋳出し文字の存在は貴重なのだ。つづく。