本日は、結城昌治の句集 豆本「歳月」のご紹介です。




結城昌治氏は、昭和2年、東京に生まれる。 昭和24年、早稲田専門学校を卒業し、東京地検に勤務したが、結核が発病し三年間の療養生活を送った。 昭和34年、短篇「寒中水泳」によって認められ、『ひげのある男たち』『ゴメスの名はゴメス』等を執筆し、昭和45年、『軍旗はためく下に』で第六十三回直木賞を受賞、『終着駅』にて吉川英治文学賞 を受賞し、俳句も作り句集もある。平成8年1月、逝去。

 

本業は小説家ですが、俳句を紹介している本で、度々、版元である未来工房の桑原氏の目に留まり、上梓の要請を受けて制作されました。

 

「歳月」 発行;昭和54年8月15日 部数;限定200部 全冊記番 肉筆著名入 121頁 天金 背・小口革 四方帙 寸法;縦87mm、横65mm、厚さ12mm




石田波郷の石碑と現在の療養所跡です。


 


「歳月」は、俳人 石田波郷の有名な句で始まります。


『七夕竹(たなばただけ)惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし』

療養生活のなかでの七夕祭。患者たちのそれぞれの思いが、短冊に書きつけられて飾られた。なかで波郷の目を引いたのが、というよりも凝視せざるを得なかったのが「惜命(しゃくみょう)」の二字だった。イノチヲオシム……、イノチガオシイ……。「隠れなし」とは、本当は他の短冊や笹の葉などに少し隠れていて、短冊全体は見えていないのだ。しかし「惜命」の二字がちらりと見えたことで、全てが見えたということである。


 

当時の療養所の写真です。


昭和24年2月、国立東京療養所に入所したとき、同じく入所していた石田波郷の影響を受けて、俳句を始めるきっかけとなりました。


枯原を出るまでうしろ振り向かず

 西武池袋線清瀬駅下車、療養所へは武蔵野の雑木林に囲まれた道を20分あまりあるかねばならなかった。


木の芽道遺体重しと下ろさるる

 病室の外は雑木林がつづき、その林の中の小径を担架にのせられた患者の遺体が霊安室へ運ばれて行く。それは毎日のように眺める風景のひとつだった。


病み呆けて大根に花を咲かせけり

 患者たちは給食の不足を補うため、窓際の空地を利用してさまざまな野菜を作っていた。


通夜の灯に梅雨寒き下駄揃えへ脱ぐ

遠蛙やむとき嗚咽漏れいだす

棺をうつ谺(こだま)はえごの花降らす

体温計舌にはさみて秋の暮

志ん生の「宿屋の富」も年の暮
 名人といわれた古今亭志ん生です。志ん生の長男で金原亭馬生さんは、当初から句会の仲間で、古今亭志ん朝さんの実兄です。

歳月や春雷遠くまた近く

青りんご噛めば血の色にじみけり

生きてゐることが不思議よ秋の空

柿食うふやすでに私服の余生かも

鼻唄の調子外れし寒さかな


抗生物質のストレプトマイシンが使用され始める前であったため、1回目の胸郭成形術で、右の肋骨6本、2回目で左の肋骨6本、合わせて背部の肋骨12本全て切除されています。


肺結核を患い、死と隣り合わせの日常で、俳句にその時の心情が映し出され、胸に迫るものがあります。

こうした中で、秀逸な小説を創りだす精神力には、驚嘆です。

この作品は、「死もまた愉し」結城昌治著(講談社)に、自身の生い立ちから執筆当時まで状況を、主な出来事の解説と共に、収載されていますので、ご一読ください。



結城昌治ファンや俳句にご興味の方には、おススメです。

次の機会に、2冊目の句集 豆本「余色」を紹介いたします。


ではまた。