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小林清親  清親畫帖  久松町ニテ見る出火  (画像提供:国立国会図書館ウェブサイト)

 

 
 
昨日は八百屋お七の話でしたが、今日は江戸の火事について少し書いていこうと思います。
江戸の町は武家の町と言っても良く、江戸の総面積の70%は武家地で寺社地が15%、のこりの15%の狭い土地に50万人を超す町民が住んでいました。
人口密度が高く、しかも木造建築の為にいったん火が出れば、たちまちのうちに大火事となりました。
 
「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど、江戸の町では頻繁に火災が発生しました。町を焼き尽くすような大火も何度も発生していて、何度も都市の広大な市街地を焼き払っては再建するという例は、世界でもあまり例がないとされています。
 
 
「江戸っ子は宵越しの銭を持たない」とは江戸っ子のきっぷの良さを表すセリフですが、本当の理由はおそらく、大火事が頻発している為に、いつ大火事に見舞われて自分の家が焼けてしまうか分からなかったからでしょう。
火事になればお金を貯めておいても全て焼けてしまいます。人々は着のみ着のままで、体ひとつで命からがら逃げ回るしかなかったことでしょう。
 
 
 
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江戸大地震之絵図  (画像提供:国立国会図書館ウェブサイト)
 
 
 
 
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関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、明治になるまでの267年間に、江戸では49回もの大火が発生しました。
江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえます。
 
大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、1601年からの100年間で269回、1701年からの100年間で541回、1801年から1867年までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加しました。
 
 
江戸の大火の中でも、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った明暦の大火(振袖火事)による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の町の三分の二を焼き尽くし、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷を焼失しました。死者は諸説ありますが3万から10万人と記録されています。
 
この火災は火元が1箇所ではなく、3箇所から連続的に発生していて原因は不明ですが、江戸の都市改造を一気に実行するために幕府が放火したとする放火説なども囁かれています。
 
 
またこの火事は振袖火事とも呼ばれているのですが、次のような伝承があるという事です。
麻布の質屋の娘の梅乃(16歳)は、ある寺の小姓の美少年に一目惚れしてからというものの、ひと時も忘れる事が出来ずに、とうとう寝込んでしまいます。少年の着ていた服と同じ柄の振袖を作ってもらい、抱きしめて思い続けますが、病は悪化して梅乃は亡くなってしまいました。
両親は葬儀の日、娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけて送りました。
その後、振袖は寺男によって転売されましたが、それを買った町娘も病で亡くなり奇しくも梅乃の命日に棺に掛けられて本妙寺に持ち込まれました。振袖はその後また売りに出されましたが、その振袖を着た娘は程なく病気で亡くなって、またも振袖は棺と共に本妙寺に運び込まれて来ました。
これは何かあると感じた住職は、振袖を寺で焼いて供養することにしましたが、火の中に振袖を投げこむと、突然風が吹き火のついた振袖は人のような姿で空に舞い上がり、寺に火を付けました。あっという間に炎は突風で燃え広がり、江戸の町を焼き尽くす大火となったと言う事です。
 
 
明暦の大火は天和の大火(八百屋お七の火事)の25年前の事ですが、梅乃もお七と同じ16歳で、寺の小姓の美少年に一目惚れしてしまう共通点があります。
 
 
 
 
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芳虎  江戸の花子供遊び  一番組に組  (画像提供:国立国会図書館ウェブサイト)
 
 
 
明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注ぎました。
町人による町屋の消防体制が出来たのは享保三年(1718)で、時の町奉行の大岡忠相が定めた町火消の制度です。
隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられました。同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせました。これらは混乱する火事場での目印にするという目的がありましたが、次第に各組を象徴するものとなりました。
 
下図の浮世絵には当時の町火消が使用した道具が載っています。
一番下の竜吐水(りゆうどすい)は押し上げポンプですが、当時の消火作業というのは水をかけて消火するよりも、家を倒して延焼を防ぐ破壊作業が主でした。
 
 
 
 
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  よし藤  東京町火消出火ヲ鎮図   画像提供:国立国会図書館ウェブサイト)