これから秋~冬になる
このシーズンはヒグマと遭遇する危険性が非常に高いです。
今回はヒグマに対する恐ろしさを知ってもらおうと思い、このようなかたちでブログに掲載を致しました。
* 閲覧注意 ・・・ グロテスクな内容が含まれていますのでご注意下さい。
* 長文注意
何度も読み返し、ヒグマの恐ろしさや生態を頭の中に叩き込みました。
昭和45年7月26~27日
今から43年前の惨劇 『福岡大学ワンダーフォーゲル部 ・ヒグマ襲撃事件』
この出来事は、僕の中で1番衝撃的な事件です。
この事件は、ヒグマの生態について若干でも予備知識があれば
3人もの若い命を落とすような悲惨な大事件にはならなかったと思います。
福岡大学ワンダーフォーゲル部・ヒグマ襲撃事件
【事件概要】
昭和45年7月14日 午後~
福岡大学ワンダーフォーゲル部員の5人パーティーが
日高山脈の芽室岳(1754m)からペテガリ岳(1736m)までの日高山系縦走すべく入山。
パーティー
・竹末一敏さん(当時20歳 リーダー) *死亡
・滝俊二さん (当時22歳 サブリーダー)
・興梠盛男さん(当時19歳) *死亡
・西井義春さん(当時19歳)
・河原吉孝さん(当時18歳) *死亡
5人は7月12日午前9時に、九州・博多から列車「つくし1号」で出発し、14日新得に到着。新得署御影派出所などに登山計画書を提出し、その日の午後から登山を始めた。
7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ(※)山(1979m)にさしかかっていた5人だったが、大幅に予定が遅れていたため、翌日の登頂後に下山することにした。
※カムイエクウチカウシとは、「クマが転げ落ちるほど険しい峰」という意味である。
この日の夕方、パーティーは峰直下の「九ノ沢カール」(※)という箇所でテントを張ったが、ここでヒグマからの最初の襲撃を受けた。発見したのは竹末さんで、テントから7mほど離れたところにヒグマはおり、当初パーティーは誰もヒグマを怖がっておらず、しばらく興味本位で見ていたが、やがてヒグマの方から近づいてきて、テントの外にあった登山用のザックを漁り、中の食料を食べ始めた。発見してから30分ほど経った頃である。メンバーはラジオの音量を上げ、火を点し、食器を打ち鳴らしてなんとかヒグマを追い払うことに成功した。
※カール・・・・氷河の浸食によって、山頂直下の斜面が、すくい取ったように円形に削られた地形。日本では飛騨・赤石・日高山脈などにみられる。
しかし午後9時頃、疲れて眠っていたパーティーはヒグマの鼻息で目を覚ますこととなる。ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、去って行った。これが2度目の襲撃で、メンバーは2人ずつ2時間交替で見張りを立てることにした。
7月26日午前3時、起床。快晴。結局のところ、メンバーは恐怖のため誰一人眠ることができなかった。
そして4時半頃、3度目のヒグマの襲撃を受ける。ヒグマは執拗にテントを引っ張り続けるため、パーティーはテントを捨て、外に退避した。ヒグマはテントを引き倒し、あいからず登山用のザックを漁っていた。
竹末さんの命令により、サブリーダーである滝さんと1年生の河原さんが営林署に連絡してハンターによる救助の要請をしに山を下り始めた。2人は途中の八ノ沢で別の大学生パーティー「北海岳友会」(北海道学園大学の学生10人ほど)と出会う。北海岳友会もまたヒグマ(おそらく同じ個体)に襲われていたため下山するとのことで、2人は伝達を頼み、また食料や地図、ガソリンなどを譲り受け、再び残る3人を助けようと戻って行った。
滝さんと河原さんは戻る途中で2組の大学生パーティーと出会ったのち、午後1時頃に他の3人と合流。テントを修繕し、設営して、夕食を取った。
夕食を終え、寝にかかろうとしていた午後4時半頃、例のヒグマがまた現れ、テントのそばを離れず、それから約1時間も居座り続けた。パーティーはその場に居続けることは危険だと判断して、八ノ沢で設営していた鳥取大パーティー(滝さんらが先ほど出会ったパーティー)のテントに入れてもらおうとした。
山を下りようにも辺りはすでに真っ暗だった。それでも5人は無我夢中で歩き続けたに違いない。
午後6時半、西井さんがふと後ろを振り返ると、そこまでヒグマが来ていた。全員一目散に下り始める。ヒグマは河原さんを追い、他のメンバーは「ギャー」という叫び声を聞いた。
「チクショウ!」
暗闇のなか、河原さんの声がした。河原さんは背後からヒグマに襲われており、格闘の末に鳥取大のテントの方へ足をひきずりながら下りていくのを竹末さんが目撃していた。
竹末さん、滝さん、西井さんの3人は鳥取大パーティーに助けを求め、彼らはホイッスルを吹いた。やがて鳥取大パーティーと別れ、3人は岩場に登り夜を明かした。興梠さんは逃げる途中に他のメンバーからはぐれ、別の場所に身を隠していた。3人は河原さんの無事を祈りつつ、はぐれた興梠さんの名前を呼び続けたが、1回応答しただけで姿を見せなかった。
7月27日早朝、深い霧のため視界は5mほどと、はぐれた2人を探したり、ヒグマの接近を察知するには絶望的な状況となっていた。3人は午前8時頃まで河原さんと興梠さんを探したが、応答はなく、いったん下山することにした。
下りる途中、一番前を歩いていた竹末さんは下方2~3mにヒグマがいるのを発見。
ヒグマは逃げる竹末さんを追い、この隙に滝さん西井さんはなんとか五ノ沢の砂防ダム工事現場までたどりつき、自動車の手配を頼む。これが午後1時頃のこと。それからさらに麓の中札内駐在所に到着したが、午後6時になっていた。
7月28日、遭難したメンバー達の救助隊が編成された。 だが・・ハンターたちが発見したのは3人の変わり果てた遺体だった。着衣は剥ぎ取られ、裸にベルトだけが巻かれている状態だった。
顔半分がなかったり、腸が引きずり出されていたり、鼻や耳や性器といった突起物が引きちぎられていたりと、目を背けたくなるような光景であったという。
検死結果によると、3人の死因は「頚椎骨折および頚動脈折損による失血死」であった。加害箇所は頸部・顔面及び鼠蹊部・陰部肛門に集中していた。3人はいずれも逃げている最中に後ろから臀部を攻撃され、うつぶせに倒れたところを臀部や肛門部を噛み切られたものと思われる。
29日にハンターによって射殺。(射殺後の解体で4歳 メスということが判明)
胃の内容物からは遺体の肉片などが出てこなかったことから、純粋に排除が目的であった。
一度、登山用のザックを奪ったヒグマは、それを自分の所有物と認識し、取り返されたことでパーティーのメンバーを敵と認識。排除するために襲いかかったのであろう。
悪天候により3人の遺体を下ろすことが出来なかったため、八ノ沢で荼毘に付され、遺族に遺骨が手渡されることとなった。
7月26日に仲間とはぐれた興梠さんはテントに一旦戻ったらしく、テント跡には彼の残したメモがあった。文字からは彼がただひとり恐怖と闘い、震えながらこれを書いたことが窺えた。
*文章は色々な資料をもとに分かりやすくまとめております。
襲撃した実物のヒグマを見ましたが・・
体長2mも無い小柄なヒグマ。こんな大型犬くらいのヒグマでも
若者3人の命を奪うほどの殺傷能力があることを思い知らされました。
* 中札内村にある札内川園地内の日高山脈山岳センターに剥製が展示されその姿をみることが出来ます。
このことから分かるように・・
・逃げるチャンスは度々あったこと。
・ヒグマが手を掛けた登山用のザックを奪い取ったこと。
などから、若干でもヒグマに対する予備知識があれば
このような悲惨な大事件にはならなかったと悔やまれる事件です。。
他にも国内・国外で
さまざまな人食いヒグマの被害があります。
最近では・・
2011年8月13日、ロシア(シベリアのカムチャッカ半島)で音楽学校を卒業し、数日前に運転免許も取得した娘のオルガ・モスカヨワさん(当時19歳)は、父親のイゴール・チガネンコフさんと一緒に記念のキャンプ旅行に来てたときにヒグマに襲われて亡くなっています。
父親は首の骨を折られ、頭骨を圧し割られて死亡
娘は生きたまま足から食べられて死亡
娘は家に居る母親に携帯電話から電話をして状況を報告するが・・
悪質な冗談と勘ちがいされて、初めは取り合ってもらえなかったが、周辺から大きな獣のうめき声とバリバリと骨を噛み砕く音が電話越しから聞こえて、事の重大さを知る。
娘は最後まで母親との電話を切らず、最後の言葉は
「お母さん、こんどは子供の熊が三匹来てまた私を食べてる・・・」
「お母さん、もう痛くなくなった・・ 今までごめんなさい。 ママ愛してる・・・」
だったそうです。
約30分後、通報を受けた警察と父親イゴールさんの兄弟が現地に到着。
彼等が目にした物は・・
父親イゴールさんを食べているヒグマの親子と、無残な姿で亡骸と化した娘オルガさんだった。
娘のオルガさんは、ヒグマに生きたまま食べられて亡くなられました。。
国外で、こんな悲しい残酷な事件もあるのです。
僕も数年前に
釣り場でヒグマに追われる恐怖体験を味わっています!
ヒグマの糞
川原でのヒグマの足跡
釧路市音別町 音別川にて
紋別郡滝上町 渚滑川にて
他にもいろいろな場所で痕跡を見つけております。
このようなヒグマらしき痕跡を見つけたら十分に注意して下さい。
そして、釣り・キャンプ・山菜、きのこ取り・山登りなど
ヒグマに遭遇する可能性がある方は・・
・ 出会わないための対策
・ 出会ってしまったときの対処法
などを少しでも学習して事件、事故に遭わないようにいたしましょう。
ヒグマに対する
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