[隋:開皇四年 陳:至徳二年 後梁:天保二十二年]


┃叙任
〔これより前、〕陳は智武将軍(四品)・東中郎将(四品)・東揚州刺史の新蔡王叔斉を侍中とし、将軍・佐史はそのままとした。
 戊子(5月27日)、陳が〔代わりに〕尚書僕射の永陽王伯智を使持節・都督東揚豊(現在の福建省)二州諸軍事・平東将軍(三品)・東揚州刺史・領会稽内史とした。〔代わりに、〕吏部尚書の江総を尚書僕射とした。
 また、軽車将軍(五品)・江州刺史の晋熙王叔文を信威将軍(四品)・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史とし(前任は晋安王伯恭)、〔代わりに〕仁威将軍(四品)・揚州刺史の始興王叔重を使持節・都督江州諸軍事・江州刺史とし、〔代わりに〕信武将軍(四品)・南琅邪彭城二郡太守の南平王嶷を平南将軍(三品)・揚州刺史とした。

 南平王嶷は字を承嶽といい、後主の第二子である。母は高昭儀。品行方正で優れた才能と度量を有し、数歳にして早くも成人のような思慮分別や立ち居振る舞いをするようになった。至德元年(583)に南平王とされ、間もなく信武将軍・南琅邪彭城二郡太守とされ、佐史を置くことを許された。


○陳後主紀
 夏五月戊子,以尚書僕射永陽王伯智為平東將軍、東揚州刺史,輕車將軍、江州刺史晉熙王叔文為信威將軍、湘州刺史,仁威將軍、揚州刺史始興王叔重為江州刺史,信武將軍、南琅邪彭城二郡太守南平王嶷為揚州刺史,吏部尚書江總為尚書僕射。
○陳28永陽王伯智伝
 出為使持節、都督東揚豐二州諸軍事、平東將軍,領會稽內史。
○陳28新蔡王叔斉伝
 尋為智武將軍,置佐史。出為東中郎將、東揚州刺史。至德二年,入為侍中,將軍、佐史如故。
○陳28晋熙王叔文伝
 二年,遷信威將軍、督湘衡武桂四州諸軍事、湘州刺史。
○陳28始興王叔重伝
 二年,加使持節、都督江州諸軍事、江州刺史。
○陳28南平王嶷伝
 後主二十二男:…高昭儀生南平王嶷…南平王嶷字承嶽,後主第二子也。方正有器局,年數歲,風采舉動,有若成人。至德元年,立為南平王。尋除信武將軍、南琅邪彭城二郡太守,置佐史。遷揚州刺史。

 ⑴新蔡王叔斉…字は子粛。宣帝(後主の父)の第十一子。母は劉昭儀。眉目秀麗・読書家で、文才があった。575年、新蔡王とされた。575年(3)参照。
 ⑵永陽王伯智…字は策之。文帝(陳二代皇帝)の第十二子。母は江貴妃。若年の頃より誠実で優しく、才能や度量があり、読書を好んだ。582年、尚書僕射とされた。582年(2)参照。
 ⑶江総…字は総持。名門済陽考城の江氏の出で、西晋の散騎常侍の江統(《徙戎論》の著者)の十世孫。七歲にして父を喪い、母方のもとで育てられた。幼くして聡明で、善良そのものな性格をしていた。品行は非常に正しく、容姿も抜きん出ていた。舅で当時名声のあった呉平光侯勱に可愛がられ、「きっと将来私より有名になるだろう」と言われた。家伝の書物数千巻を一日中読み続けて、手を止めることが無かった。梁の武帝に賞賛を受けるほどの文才を有した。尚書侍郎とされると張纘・王筠・劉之遴と忘年の交わりを結んだ。のち太子中舍人とされ、侯景が建康に侵攻してくると小廟を守備した。台城が陥ちると会稽郡に避難し、そこに数年滞在した。第九舅の蕭勃が広州に割拠するとこれを頼った。563年に中書侍郎とされて建康に帰り、のち次第に昇進して太子中庶子・掌東宮管記とされた。のち左民尚書とされた。のち太子叔宝(後主)に太子詹事に推挙された時、吏部尚書の孔奐に「江は潘・陸の様な華やかさはあるが、園・綺のような質実さは無い」と言われて反対を受けたが、結局叔宝のごり押しによって就任する事ができた。のち太子と夜通し酒を飲んだり、太子の側室の陳氏を養女としたり、家に招いて一緒に遊んだりしたため、宣帝の怒りを買い、免官とされたが、間もなく復帰して太常卿とされた。後主が即位すると祠部尚書・領左驍騎将軍とされ、人事に携わった。583年、吏部尚書とされた。583年(1)参照。
 ⑷晋熙王叔文…字は子才。宣帝(後主の父)の第十二子。母は袁昭容。軽率・陰険・見栄っ張りな性格だったが、非常な読書家という一面もあった。575年に晋熙王とされた。582年、宣恵将軍(四品)・丹陽尹とされた。583年正月~2月、軽車将軍(五品)・揚州刺史とされた。4月、江州(湓城。建康の西南)刺史とされた。583年(3)参照。
 ⑸晋安王伯恭…字は肅之。文帝(宣帝の兄)の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。579年、軍師将軍・尚書右僕射とされた。580年、僕射とされた。581年、左僕射とされた。582年正月、翊前将軍・侍中とされ、3月、安南将軍・湘州刺史とされたが、拝命する前に侍中・中衛将軍・光禄大夫とされた。582年(2)参照。
 ⑹始興王叔重…字は子厚。宣帝(後主の父)の第十四子。母は呉姫。素朴な性格で、秀でたものは無かった。582年、始興王とされた。583年、揚州刺史とされた。583年(1)参照。
 ⑺陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に32歳。在位582~。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。583年(4)参照。
 
┃陳の頽廃
 江総は仁義に篤く、寛大温厚な性格だった。また、学問を好み、優れた文才を有し、五言詩と七言詩を最も得意とした。その内容は軽薄に過ぎる所があったが、そこが後主に気に入られた。その詩歌は好事家たちによって愛好され、今(636年)に至るまで詠み継がれている。
 帝の代に宰相とされたが、政務は執らず、ただ日がな帝と後庭にて酒盛りをして楽しみ、陳暄・孔範・王瑳ら十余人と共に人々から『狎客』と呼ばれた。かくて陳の政治は日に日に堕落して腐敗し、諫言する者は罪を着せられて排斥された。

○陳27江総伝
 總篤行義,寬和溫裕。好學,能屬文,於五言七言尤善;然傷於浮豔,故為後主所愛幸。多有側篇,好事者相傳諷翫,于今不絕。後主之世,總當權宰,不持政務,但日與後主遊宴後庭,共陳暄、孔範、王瑳等十餘人,當時謂之狎客。由是國政日頹,綱紀不立,有言之者,輒以罪斥之。

 ⑴陳暄…梁の名将の陳慶之の末子。優れた文才の持ち主だったが、酒好きで素行が悪く、王公の屋敷を訪れては大声で騒ぎ立てて傲慢無礼な態度を取った。そのためなかなか仕官できなかった。566年、徐陵が吏部尚書となった際、派手な格好で会って追い出されると、逆ギレして非難した。566年(2)参照。
 ⑵孔範…字は法言。会稽山陰の人。読書家。宣帝の時に宣恵江夏王長史とされた。後主が即位すると都官尚書とされ、江総らと共に『狎客』の一員となった。立ち居振る舞いが上品で、作る文章も華麗で、五言詩を得意としたので、後主からもっとも親愛を受けた。帝が何か悪事を犯した時には美化した文章を書いてこれを誤魔化す役目を任された。583年(1)参照。
 ⑶王瑳…陳の臣。581年、兼通直散騎常侍とされ、副使として北周に赴いたが、到着した時既に北周が滅んで隋が建国されており、介国公とされていた宇文闡のもとに行くよう命じられた。581年(3)参照。

┃佞臣たち
 陳暄後主が太子の時に登用されて学士とされ、帝が即位すると通直散騎常侍とされ、義陽王叔達・尚書の孔範・度支尚書の袁権・侍中の王瑳・金紫光禄大夫の陳褒・御史中丞の沈瓘・散騎常侍の王儀らと共に宮中に入り浸って帝と酒宴をして遊んで暮らし、人々から『狎客』と呼ばれた。
 暄は元来ぞんざいな性格で、俳優(芸人)を自認し、文章はふざけていて取り止めが無く、言葉も節度が無かったので、帝に非常に親しく接されたものの、軽蔑されていた。ある時、梁(はり)に逆さ吊りにされて刃を突きつけられ、指定の時間までに賦を作るよう命じられた。すると暄はたちまちの内に賦を書き上げ、全く問題としなかった。これよりのち、よりいっそう傲慢で無礼な態度を取るようになった。
 帝は次第に我慢できなくなり、遂に搏艾(もぐさ。ヨモギの葉から作り、灸をすえるのに使う、綿状のものを叩いて平らにしたもの?)で帽子を作って暄の頭にかぶせ、これに火をつけた。その火が髪にまで及ぶと、暄は涙を流して赦しを請い、その声は部屋の外にまで聞こえてきたが、帝は頑として赦そうとしなかった。この時、同座していた衛尉卿の柳荘が突然立ち上がって言った。
陳暄は無罪であり、〔このまま暄が死ぬと〕陛下に無闇に人を殺したという汚点が残ることになります。ここは怒りを押し殺して赦すべきです。いきなりのご無礼、申し訳ございません。謹んで罰を受ける所存です。」
 帝はもともと大人しい性格だったので、次第に勘気を解き、遂に暄を解放して外に出し、荘に座席に座るよう命じた。数日後、暄は恐怖の余り心臓発作を起こして死んだ。

 王瑳は琅邪の人で(名門琅邪王氏の出?)、冷酷・貪欲で、才能のある者を妬んで迫害した。
 王儀も琅邪の人で、後主の心を汲んで機嫌を取るのが上手く、更に二人の娘を献じて更なる寵用を求めた。
 沈瓘は陰険・苛酷な性格で、口先上手く後主に取り入った。

 柳荘柳太后の従祖弟で、聡明で見識があり、太建年間(569~582)の末に太子洗馬・掌東宮管記とされ、後主が即位すると次第に昇進して散騎常侍・衞尉卿とされた。〔太后の弟の〕柳盼が亡くなった後、太后の近親は荘だけになったことと、声望が高かった事から非常な厚遇を受けるようになった。

 柳盼は太建年間に文帝陳の二代目皇帝)の娘の富陽公主を娶り、駙馬都尉とされた。後主が即位すると帝の叔父である事を以て散騎常侍とされた。盼は愚かで酒癖が悪く、いつも酔っ払って馬に乗ったまま宮殿の門に入った。担当官に弾劾されて免官とされ、自宅にて死去した。侍中・中護軍を追贈された。

○陳7柳盼伝
〔高宗柳皇后弟盼,太建中尚世祖女富陽公主,拜駙馬都尉。後主即位,以帝舅加散騎常侍。盼性愚戇,使酒,常因醉乘馬入殿門,為有司所劾,坐免官,卒於家。贈侍中、中護軍。
○陳7柳荘伝
 后從祖弟莊,清警有鑒識,太建末,為太子洗馬,掌東宮管記。後主即位,稍遷至散騎常侍、衞尉卿。…自盼卒後,太后宗屬唯莊為近,兼素有名望,猶是深被恩遇。
○南61陳暄伝
 後主之在東宮,引為學士。及即位,遷通直散騎常侍,與義陽王叔達、尚書孔範、度支尚書袁權、侍中王瑳、金紫光祿大夫陳襃、御史中丞沈瓘、散騎常侍王儀等恒入禁中陪侍游宴,謂為狎客。暄素通脫,以俳優自居,文章諧謬,語言不節,後主甚親昵而輕侮之。嘗倒縣于梁,臨之以刃,命使作賦,仍限以晷刻。暄援筆即成,不以為病,而慠弄轉甚。後主稍不能容,後遂搏艾為帽,加于其首,火以爇之,然及於髮,垂泣求哀,聲聞于外而弗之釋。會衞尉卿柳莊在坐,遽起撥之,拜謝曰:「陳暄無罪,臣恐陛下有翫人之失,輒矯赦之。造次之愆,伏待刑憲。」後主素重莊,意稍解,敕引暄出,命莊就坐。經數日,暄發悸而死。
○南77孔範伝
 瑳、儀並琅邪人。瑳刻薄貪鄙,忌害才能。儀候意承顏,傾巧側媚,又獻其二女,以求親昵。瓘險慘苛酷,發言邪諂。

 ⑴義陽王叔達…字は子聡。宣帝(後主の父)の第十七子。母は袁昭容。582年正月、義陽王とされた。582年(2)参照。
 ⑵柳太后…諱は敬言。生年533、或いは531〈墓誌〉、時に52、或いは54歳。名門の河東柳氏の出。容貌美しく、身長は七尺二寸(約176cm)もあり、手も膝まで届くほど長かった。父は梁の鄱陽内史の柳偃。母は梁の武帝の娘の長城公主。552年頃に陳頊(宣帝)に嫁いだ。西魏が江陵が陥とした際に夫と共に長安に連行され、夫の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王妃とされた。569年、陳頊が即位すると皇后とされた。582年、子の太子叔宝(後主)が始興王叔陵に襲われた時、身を以て庇って負傷した。叔宝が即位すると皇太后とされ、弘範宮に住み、重傷を負っている後主の代わりに政治を執った。582年(2)参照。

┃豆盧勣重用
 6月、庚子(10日)、隋が囚人に減刑を行なった。
 乙巳(15日)、鴻臚卿の乙弗寔を翼州(広年。成都の西北にあり、吐谷渾の国境付近にある総管とし、上柱国の豆盧勣を夏州総管とした。
 文帝は勣の家が代々高官を務めて赫々たる勲功を挙げている事を以て非常に重用した。のち、勣の娘を漢王諒の妃とすると、更に厚遇の度を深めた。

○隋文帝紀
 六月庚子,降囚徒。乙巳,以鴻臚卿乙弗寔為翼州總管,上柱國豆盧勣為夏州總管。
○隋39豆盧勣伝
 開皇二年,突厥犯塞,以勣為北道行軍元帥以備邊。歲餘,拜夏州總管。上以其家世貴盛,勳効克彰,甚重之。後為漢王諒納勣女為妃,恩遇彌厚。

 ⑴乙弗寔…579年に戴国公とされた。579年(2)参照。
 ⑵翼州…《隋書地理志》曰く、『左封県に北周は広年県と広年・左封の二郡と翼州の治所を置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『左封廃県は成都府の西北四百五十里→茂州の北百二十里→疊溪守御軍民千戸所の西百九十里にある。』
 ⑶豆盧勣…字は定東。生年536、時に49歳。柱国・楚国公の豆盧寧の子。妹は斉王憲の妃。読書家で、明帝の時(557~560)に露門学で学問に打ち込ませてくれるよう求め、許可された。のち渭州(隴西)刺史とされると多くの祥瑞を現れさせるほどの思いやりに満ちた政治を行なった。父の死に遭うと(565年)礼法に外れるほどに嘆き悲しんでやつれた。のち楚国公の爵位を継いだ。580年に利州総管・上大将軍とされ、一ヶ月余りのちに柱国とされた。可頻謙が挙兵するとその侵攻に遭ったが固守し、四十日に亘って防戦を続け、蜀平定に大きく貢献した。この功により上柱国とされた。582年、突厥が侵攻してくると北道行軍元帥とされ、国境の防衛に当たった。583年、突厥討伐に参加した。583年(2)参照。
 ⑷文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に44歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。583年、大興に遷都し、北伐を行なって突厥を大破した。また、天下の諸郡を廃した。583年(4)参照。
 ⑸豆盧氏は前燕慕容氏の末裔で、父の豆盧寧は北周の柱国・楚国公。勣は北周末の大乱の際に利州を死守し、兄の通は北徐州を死守した。
 ⑹漢王諒…字は徳章。またの名を傑という。文帝の第五子で、母は独孤伽羅。581年に漢王とされた。581年(2)参照。

┃広通渠開通


〔これより前(583年)、隋は首都の大興の食糧庫が空っぽだったため、関東および汾・晋(河東)の穀物を大興に輸送するために、衛州に黎陽倉、洛州に河陽倉、陝州に常平倉、華州に広通倉を置いて一時保管させ、順次発送させていた(583年〈4〉参照)。〕
 ただ、〔黄河から大興に到るまでの〕渭水は、多くの箇所で水勢が弱まって川底に砂が溜まり、水位が浅くなって〔座礁の恐れがあったため、〕漕ぎ手が非常に難儀していた。
 そこで〔柱国の〕于仲文が帝に〔砂が溜まらない〕運河を作って渭水の水をそちらに流すよう求めた。
 この年、詔を下して言った。
『京邑(大興)には四方八方から物が集まってくるが、二重三重の要害に取り囲まれているため、水陸ともに輸送に不便が生じている。大河(黄河)は大きく波しぶきをあげながら東方に流れ、数多の川や湖と万里に亘って通じている交通の要であり、三門峡(弘農の東)という危険な箇所があるものの、それは小平津(洛陽近北の黄河の渡し場)にて〔荷揚げして〕陸送して陝州に到り、そこから再び黄河経由で渭川に入ればよく、また、その上流は汾・晋一帯を貫通し、船や車が往来して多くの利益を生んでいる。一方、渭川(渭水)の水勢は一定せず、流れが弱まると砂が溜まって直ちに難所に変貌するので、たった数百里の道のりなのに、季節が移り変わっても往復できない有様となり、船での輸送に従事する者は非常に難儀している。朕は天下に君臨するに当たり、人民の利益となるものを創始し、害悪となるものを排除するのを指針としているゆえ、官民が渭川に苦しんでいるのを聞くと、誠にいたたまれぬ心持ちになる。そのため、〔今、〕東は潼関から西は渭水に至るまでの地に、人民の力を借りて運河を開通させる事とした。その工事の規模を計算するに、その完成は容易である。〔また、〕今既に工匠たちに運河予定地を巡視させ、地理的に合っている事、工程がしっかりしている事を確かめさせたゆえ、一度開通させれば、万世に亘って壊れることはないであろう。〔また、〕官民のもやい船や巨船を動員して朝夕ひっきりなしに〔土の〕運搬に従事させれば、短期間の工事で済み、億万もの費用を節約する事ができるであろう。今は炎暑の時期に当たり、疲労しやすい時期である事は重々承知しているが、今暫し我慢する事で、永遠の安逸を得られる事をどうか分かってほしい。この詔を天下に告げ知らせ、朕の意を知らしめるようにせよ。』
 かくて于仲文・〔上開府の〕宇文愷・元暉・薛回・元寿に運河の工事の監督をさせた(元暉は間もなく更迭)。また、〔上柱国の〕郭衍を開漕渠大監とし、〔柱国・領冀州事の〕和洪を漕渠総管監とし、〔開府の〕蘇孝慈を知漕渠総副監事とした。
 愷と衍は水工を率いて運河を掘って渭水の水を引き入れた。
 壬子(6月22日)、完成した。

 愷は大興城の東から潼関に到る三百余里に運河を掘り、広通渠と名付けられた。
 衍は大興城の北から潼関に到る四百余里に運河を掘り、富民渠と名付けられた(或いは同一のもの?)。
 運河は輸送を潤滑にし、関中の人々はこれを頼りにした。
 諸州にて災害が発生して飢饉が起きた場合、そのつど各地の倉を開いて救済を行なった。

 薛回は字を道弘といい、北周に仕えて涇州刺史とされ、開皇の初めに舞陰郡公とされた。

○隋文帝紀
 壬子,開〔通濟〕渠【[二六]此「通濟」乃「廣通」之誤】,自渭達河以通運漕。
○隋食貨志
 其後以渭水多沙,流有深淺,漕者苦之。四年,詔曰:
 京邑所居,五方輻湊,重關四塞,水陸艱難。大河之流,波瀾東注,百川海瀆,萬里交通。雖三門之下,或有危慮,但發自小平,陸運至陝,還從河水,入於渭川,兼及上流,控引汾、晉,舟車來去,為益殊廣。而渭川水力,大小無常,流淺沙深,即成阻閡。計其途路,數百而已,動移氣序,不能往復,汎舟之役,人亦勞止。朕君臨區宇,興利除害,公私之弊,情實愍之。故東發潼關,西引渭水,因藉人力,開通漕渠,量事計功,易可成就。已令工匠,巡歷渠道,觀地理之宜,審終久之義,一得開鑿,萬代無毀。可使官及私家。方舟巨舫,晨昏漕運,沿泝不停,旬日之功,堪省億萬。誠知時當炎暑,動致疲勤,然不有暫勞,安能永逸。宣告人庶,知朕意焉。
 於是命宇文愷率水工鑿渠,引渭水,自大興城東至潼關,三百餘里,名曰廣通渠。轉運通利,關內賴之。諸州水旱凶饑之處,亦便開倉賑給。
○隋46元暉伝
 明年,轉左武候將軍,太僕卿如故。尋轉兵部尚書,監漕渠之役。未幾,坐事免。
○隋46蘇孝慈伝
 明年,上於陝州置常平倉,轉輸京下。以渭水多沙,流乍深乍淺,漕運者苦之,於是決渭水為渠以屬河,令孝慈督其役。渠成,上善之。
○大隋安平安公故蘇使君墓誌銘
 四年,詔知漕渠總副監事。
○隋55和洪伝
 數歲,徵入朝,為漕渠總管監。
○隋60于仲文伝
 上每憂轉運不給,仲文請決渭水,開漕渠。上然之,使仲文總其事。
○隋61郭衍伝
 徵為開漕渠大監。部率水工,鑿渠引渭水,經大興城北,東至于潼關,漕運四百餘里。關內賴之,名之曰富民渠。
○隋63元寿伝
 四年,參督漕渠之役。
○隋65薛世雄伝
 薛世雄字世英,本河東汾陰人也,其先寓居關中。父回,字道弘,仕周,官至涇州刺史。開皇初,封舞陰郡公,領漕渠監。
○隋68宇文愷伝
 後決渭水達河,以通運漕,詔愷總督其事。

 ⑴于仲文…万紐于仲文。字は次武。生年545、時に40歳。太傅・柱国・燕国公の万紐于謹(于謹)の孫で、上柱国・燕国公の万紐于寔(于寔)の子。若年の頃から聡明で、父に「きっと我が一族を栄えさせてくれるだろう」と評された。九歲の時に宇文泰に「本を読むのが好きだと聞いているが、本にはどんな事が書いてあるのかな?」と問われると、「忠孝の一事のみであります」と答えて感嘆を受けた。のち《周易》・《三礼》の授業を受け、その大義に通じた。成長すると非凡な風格の青年に育ち、人々から『名公子』と呼ばれた。安固太守とされると、牛がどちらの家の物か当てる名裁きを見せた。また、権力者の宇文護の党人を捕らえる豪胆さも示し、「明断無双は于公(仲文)に有り、不避強禦(権勢家)は次武(仲文)に有り」と評された。間もなく中央に呼ばれて御正下大夫・延寿郡公とされた。のち、数々の征伐に参加して勲功を立て、儀同三司とされた。宣帝(天元帝)の時、東郡太守とされた。迥が挙兵すると普六茹堅に付き、敗れると長安に遁走し、家族を皆殺しにされた。間もなく大将軍・河南道行軍総管とされ、洛陽に赴いて檀讓を討伐するよう命ぜられ、平定に成功した。その途中、宇文忻を説得して安堵させた。功により柱国・河南道大行台とされたが、禅定の時期と重なったため赴任しなかった。のち叔父の于翼が疑われて捕らえられると弁護して解放させる事に成功した。のち行軍元帥とされて突厥を攻撃した。のち尚書省の多くの問題を摘発し、帝に明断ぶりを褒め称えられた。582年(3)参照。
 ⑵宇文愷…字は安楽。生年555、時に30歳。上柱国・英国公の宇文忻の弟。若年の頃から才能と度量があり、創造力に優れた。武将の家に生まれたが一人学問を好んで書物を読み漁った。文才など多くの技芸に優れ、名公子と呼ばれた。初め千牛備身とされ、のち次第に昇進して御正中大夫・儀同三司とされた。楊堅(のちの隋の文帝)が丞相となると上開府・匠師中大夫とされ、間もなく営宗廟副監・太子左庶子とされた。宇文氏が誅殺された時、処刑されかかった(眉唾?)。582年の遷都の際には営新都副監とされ、全ての設計を担当した。582年(3)参照。
 ⑶元暉…字は叔平。拓跋什翼犍(北魏の道武帝の祖父)の七世孫。祖父は北魏の恒・朔二州刺史の元琛、父は西魏の尚書左僕射の元翌。絵に描いたような美しい髭と眉を持ち、立ち居振る舞いに気品があり、学究心が非常に強く、大の読書家だった。宇文泰に礼遇を受け、泰の息子たちの友達とされ、一緒に勉強した。博学・雄弁だったためよく使者を任され、突厥や北斉と友好を結ぶのに貢献した。北斉が滅亡すると河北の住民の安撫を命ぜられた。楊堅が宰相とされると上開府とされ、隋が建国されると都官尚書・兼領太僕とされた。のち突厥の達頭可汗のもとに到り、 離間策を行なった。582年、運河を掘って杜陽水を三畤原に灌ぐよう進言した。のち左武候将軍→兵部尚書とされ、広通渠の工事の監督を任されたが、間もなく罪を犯して免官とされた。584年(1)参照。
 ⑷元寿…字は長寿。生年550、時に35歳。《元和姓纂》によると北魏の任城王澄の子孫で、北周の大将軍・涼州刺史の是云宝の子。優しく親思いで、559年に父を亡くすと痩せ細るまでに嘆き悲しんだ。その後は母に孝行を尽くし、成長すると品行方正の大の読書家となった。564年、儀同・儀隴県侯とされた。581年、隋の陳討伐の際、淮浦に派遣されて船艦の修理や建造の監督を任され、能吏の評判を得た。581年(4)参照。
 ⑸郭衍…叱羅衍。字は彦文。自称太原の人。父は北魏の侍中の郭崇。若年の頃から勇猛で、騎射を得意とした。北周の陳公純に登用されて従者とされ、純が陝州総管とされるとこれに付き従い、斉軍の侵攻を何度も撃退して純から信任を受けた。建徳年間(572~578)に武帝に謁見して北斉討伐を望み、その際には先鋒となる事を申し出た。576年、陳王純と共に千里径を守備した。のち晋州・高壁・并州の戦いに参加して、開府・武強県公とされ、叱羅氏の姓を与えられた。578年、右中軍熊渠中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると、宇文孝寛(韋孝寛)に従って武陟に戦い、相州に進撃した。尉遅勤らが青州に逃走すると精騎一千を率いて追撃して捕らえ、上柱国・武山郡公とされた。間もなく楊堅(隋の文帝)に禅譲を受けるよう勧めて大いに気に入られた。のち行軍総管とされて平涼(原州)に駐屯し、数年に亘って突厥の侵攻を阻んだ。582年(3)参照。
 ⑹和洪…汝南の人。北周の武帝の時に数々の戦功を立て、儀同三司とされた。龍州蛮の任公忻らが叛乱を起こすと独孤善に代わって刺史とされ、一ヶ月余りで公忻らを捕らえる事に成功した。575年、河陰攻めの際に力戦して西門を陥とし、武帝に勇気を称えられた。のち北斉平定の功により上儀同・北平侯・左勲曹下大夫とされた。のち呉明徹を捕らえるのに貢献して開府・折衝中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴き、懐州を救った。その後も戦功を立てて多くの賞賜を与えられ、柱国・領冀州事・広武郡公とされた。580年(6)参照。
 ⑺蘇孝慈…本名を慈といい、孝慈は字。生年538、時に47歳。元の姓は抜畧で、北魏の孝文帝の時に蘇に改めた。大人しく控えめな性格で、優れた才能と容姿を有していた。長期に亘って近衛兵の統率を任されたが、謙虚さを忘れなかった。569年・571年に北斉への使者とされた。575年、儀同とされた。576~577年、武帝の伐斉に従軍した。帰ると開府とされた。579年に司衛上大夫とされた。580年、工部上大夫(墓誌では『中大夫』)とされた。隋が建国されると太府卿とされ、各地からかき集められた工匠たちを良く取り捌いた。間もなく司農卿とされ、582年、兵部尚書・兼太子右衛率とされた。582年(3)参照。

┃戎官の禁制と関中の旱魃
 甲寅(6月24日)、戦功を立てていない者には上柱国以下の戎官を授けない事とした。
 また、旱魃が発生した雍・同・華・岐・宜五州の今年の租調を免除した。

 戊午(28日)、〔文帝の第三子で上柱国・秦州総管の〕秦王俊が来朝した。

○隋文帝紀
〔甲寅,制官人非戰功不授上柱國以下戎官。以雍、同、華、岐、宜五州旱,命無出今年租調。〕戊午,秦王俊來朝。

 ⑴隋は582年5月と583年4月にも日照りに苦しみ、583年の時には文帝自ら雨乞いを行なうほどだった。そして今年もまた旱魃が発生してしまったのだろう。583年の四倉の設置や今年の広通渠開通は明らかにこれに対応したものであろう。また、天子震怒の詔にて、突厥も『去年(582年?)は最後まで雨も雪も降らなかった事で川は枯れ果ててしまい、蝗も暴れ回った事で草木も尽き果ててしまい、飢餓や疫病によって人や家畜の半分が死んでしまった』と日照りに苦しめられていた事が分かる。旱魃は隋・突厥の両方を苦しめたが、地力があるのは隋の方だった。
 ⑵秦王俊…楊俊。字は阿祗。生年571、時に14歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。優しい性格で、出家を希望するほど仏教を篤く信じた。隋が建国されると秦王とされた。582年、上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令とされた。間もなく右武衛大将軍を加えられ、関東の兵を統轄した。583年、秦州総管とされ、隴右諸州を全て管轄した。583年(4)参照。

┃白綸巾
 秋、7月、丙寅(6日)、陳の使者の兼散騎常侍の謝泉・兼通直散騎常侍の賀徳基が隋に到着した。

 賀徳基は字を承業といい、代々礼学を受け継いだ。祖父の賀文発と父の賀淹は共に梁に仕えて祠部郎とされ、世間に広く名が知られた。
 徳基は若年の頃に建康に遊学し、何年も帰らなかった。衣服を買うお金が無くなったのと、〔冬〕服がぼろぼろなのを恥じたのとで、真冬でも〔綿の入っている服ではなく〕ただ裏地のある衣服を着るだけだった。
 あるとき白馬寺の前にて一人の女性と会った。女性は非常に立派な服を着ており、徳基を門の中に呼び入れると、白綸巾(諸葛巾)を脱いで贈り、こう言った。
「あなたは立派な才能の持ち主ですから、長く貧乏でいる事はないでしょう。だからこれを贈るのです。」
 徳基は女性に姓名を尋ねたが、答えずに立ち去った。
 徳基は〔やがて〕《礼記》に詳しい事で評判になり、その授業で生計を立てた。のち〔陳に仕えて〕尚書祠部郎とされた。徳基は高官には至らなかったが、三代に亘って儒学を学び、共に祠部郎とされた事から、人々に家風を貶めなかったのを称賛された。

○隋文帝紀
 秋七月丙寅,陳遣兼散騎常侍謝泉、兼通直散騎常侍賀德基來聘。
○陳33賀徳基伝
 賀德基字承業,世傳禮學。祖文發,父淹,仕梁俱為祠部郎,竝有名當世。德基少遊學于京邑,積年不歸,衣資罄乏,又恥服故弊,盛冬止衣裌襦袴。嘗於白馬寺前逢一婦人,容服甚盛,呼德基入寺門,脫白綸巾以贈之。仍謂德基曰:「君方為重器,不久貧寒,故以此相遺耳。」德基問嫗姓名,不答而去。德基於禮記稱為精明,居以傳授,累遷尚書祠部郎。德基雖不至大官,而三世儒學,俱為祠部,時論美其不墜焉。

┃叔堅の復帰と太子の元服
〔これより前(583年12月23日[陳暦])、陳の後主長沙王叔堅を疎んじ、処刑しようとしたが結局取り止めて免官処分としていた(583年[4]参照)。〕
 戊辰(7月8日)、叔堅を復帰させて侍中・鎮左将軍(二品)とした。また、鼓吹(楽隊)と油幢車(油を塗って防水性を持たせた布で作った垂れ幕付きの車)を与えた。
 壬午(22日)太子胤の元服式を執り行なった。この時、文武百官にそれぞれ差をつけて絹を与え、父兄に良く仕える者、農業に熱心な者、後継ぎの者にそれぞれ一級の爵位(二十等爵)を与え、身寄りが無く自活できない者に五斛の穀物を与えた。

○陳後主紀
 秋七月戊辰,以長沙王叔堅為侍中、鎮左將軍。壬午,太子加元服,在位文武賜帛各有差,孝悌力田為父後者各賜一級,鰥寡癃老不能自存者人穀五斛。
○陳28長沙王叔堅伝
 尋起為侍中、鎮左將軍。二年,又給鼓吹、油幢車。

 ⑴陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に32歳。在位582~。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。583年(4)参照。
 ⑵長沙王叔堅…陳叔堅。字は子成。宣帝の第四子。後主の異母弟。母は酒家の下女の何淑儀。幼少の頃から悪賢く、乱暴で非常に酒癖が悪かったので兄弟たちから距離を置かれた。占いごとや風占い・お祓いなど神秘的なものを好み、金や玉の加工の技を極めた。始興王叔陵と仲が悪かった。天嘉年間(560~566)に豊城侯とされ、569年、長沙王・呉郡太守とされた。572年、宣毅将軍・江州刺史とされた。575年、雲麾将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。576年、平北将軍・合州刺史→平西将軍・郢州刺史とされた。579年、翊左将軍・丹陽尹とされた。582年に宣帝が亡くなって小斂の儀式が執り行なわれた際、始興王叔陵が太子叔宝を襲うと、背後から叔陵を羽交い締めにして刀を奪い取った。この功により驃騎将軍(一品)・開府儀同三司・揚州刺史とされた。間もなく司空とされた。後主の傷が治るまで政治の代行を任されると次第に傲慢になり、疎んじられ、583年に江州刺史→着任する前に再び司空とされ、実権を奪われた。間もなく処刑されかかったが結局免官に留められた。583年(4)参照。
 ⑵太子胤…陳胤。字は承業。生年573、時に12歳。後主の嫡長子。母は孫姫だが、姫が産褥死すると沈皇后に引き取られて育てられた。聡明で学問を好み、一日中書物を読んでも飽きることを知らず、広く大義に通じ、優れた文章を書いた。578年に永康公とされた。582年、皇太子とされた。582年(2)参照。

┃秦王俊の結婚
 8月、甲午(5日)、隋が十使を派遣して天下を巡察させた。
 戊戌(9日)、〔文帝の異母弟で上柱国・原州総管?の〕衛王爽が来朝した。
 この日秦王俊が〔上柱国・華州刺史の〕崔弘度の妹を妃に迎えた。〔帝はこれを祝って〕百官を招いて宴会を催し、下賜を行なった。

○隋文帝紀
 八月甲午,遣十使巡省天下。戊戌,衞王爽來朝。是日,以秦王俊納妃,宴百僚,頒賜各有差。
○隋45秦孝王俊伝
 妃崔氏。
○隋74崔弘度伝
 拜華州刺史。納其妹為秦孝王妃。

 ⑴衛王爽…字は師仁。幼名は明達。生年563、時に22歳。隋の文帝の異母弟。母は李氏。美男。優れた才能と度量を有した。北周の代に父の楊忠の軍功によって同安郡公とされた。六歲の時(568年)に忠が亡くなると、帝の妻の独孤伽羅のもとで養育され、これが縁で帝の弟たちの中で特に寵愛を受けるようになった。十七歳の時(579年)に内史上士とされた。帝が宰相となると(580年)大将軍・秦州総管とされたが、赴任する前に蒲州刺史とされ、更に柱国とされた。帝が即位すると雍州牧・領左右将軍とされた。間もなく右領軍大将軍・権領并州総管とされ、一年余りののちに上柱国・涼州総管とされた。582年、行軍元帥とされて突厥討伐に赴いたが、既に撤退した後だったため引き返した(このとき原州総管とされた?)。583年、再び行軍元帥とされて馬邑より突厥討伐に赴き、白道にて沙鉢略可汗の軍を大破し、可汗に重傷を負わせた。583年(3)参照。
 ⑵崔弘度…宇文弘度。字は摩訶衍。敷州刺史の宇文説(崔説)の子。人並み外れた筋力と逞しい体躯を持ち、髭や容貌は非常に立派だった。また、非常に厳しい性格をしていた。十七歳の時に北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて親信とされた。護の子の中山公訓が蒲州刺史とされた時(566年?)、望楼から飛び降りて傷一つ負わなかった。のち北斉討伐に参加して上開府・鄴県公とされた。間もなく汝南公神挙と共に范陽の盧昌期の乱(578年)を平定した。579年、淮南を攻め、肥口・寿陽などを陥とした。この功により上大将軍とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴いた。妹が迥の子に嫁いでおり、迥から金品を貰ったと疑われたが、肝心の戦いでは長安の勇士数百人を率いて大いに活躍し、尉遅迥の首を取る大功を挙げ、上柱国とされたが、迥に堅を罵らせる時間を与えたのを問題視され国公にはされなかった。のち突厥が侵攻してくると行軍総管とされて原州に出陣し、突厥が撤退すると霊武に一ヶ月あまり駐屯したのち帰還して華州刺史とされた。582年(3)参照。

┃竇熾の死
 8月、壬寅(13日)、隋の上柱国・太傅・鄧国公の竇熾が逝去した(享年78)。
 本官のほか、冀滄瀛趙衛貝魏洛八州諸軍事・冀州刺史を追贈し、恭と諡した。
 熾は親や兄に良く仕えた。高位高官となるとその子孫はみな爵位を授けられ、盛族となった。


 丁未(18日)秦王俊の属官たちを招いて宴会を催し、下賜を行なった。
 壬子(23日)、陳の使者(7月6日にやってきた謝泉・賀徳基らであろう)を招いて宴会を催した。
 乙卯(26日)、陳将の夏侯苗が隋に投降を申し出てきたが、隋は陳と和平を結んでいる事を以て受け入れを拒否した

 9月、甲子(5日)、帝が襄国公主の邸宅に赴いた。
 公主は帝の娘で、河陽郡公の李長雅に嫁いでいた。長雅は李綸の子である。

 乙丑(6日)、〔大興近東の〕覇水に赴いて漕渠(広通渠。6月22日完成)を観覧し、工事を監督していた者に差をつけて絹を与えた。
 己巳(10日)、帝が自ら囚人の審理を行なった。
 庚午(11日)、契丹が帰順してきた(今年の5月12日に契丹主が諸酋帥を率いて隋に帰順し、大将軍とされていた)。

○隋文帝紀
 壬寅,上柱國、太傅、鄧國公竇熾薨。丁未,宴秦王官屬,賜物各有差。壬子,享陳使。乙卯,陳將夏侯苗請降,上以通和,不納。九月甲子,幸襄國公主第。乙丑,幸霸水,觀漕渠,賜督役者帛各有差。己巳,上親錄囚徒。庚午,契丹內附。甲戌,駕幸洛陽,關內饑也(以關中饑,行幸洛陽)。癸未,太白晝見。
○周30竇熾伝
 開皇四年八月,薨,時年七十八。贈本官、冀滄瀛趙衞貝魏洛八州諸軍事、冀州刺史。諡曰恭。熾事親孝,奉諸兄以悌順聞。及其位望隆重,而子孫皆處列位,遂為當時盛族。
○隋54李衍伝
 衍弟子長雅,尚高祖女襄國公主,襲父綸爵,為河陽郡公。

 ⑴竇熾…字は光成。紇豆陵熾。生年507、時に78歳。知勇兼備の名将。北魏の高官を務める名家の出。北周の武帝の姉婿の竇毅の叔父。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、その関中亡命に付き従い、河橋・邙山の戦いで活躍した。552年、原州刺史とされ、善政を行なった。554年、柔然軍を撃破した。560年、柱国大将軍とされ、561年に鄧国公、564年に大宗伯とされた。のち、洛陽攻めに加わった。晋公護に嫌われ、570年、宜州刺史に左遷された。護が誅殺されると太傅とされた。東伐に志願したが、高齢のため許されなかった。577年、上柱国とされた。578年、兼雍州牧とされた。のち京洛営作大監とされて東京の宮殿の造営を任されたが、天元帝が崩御すると中止に遭った。尉遅迥が挙兵すると丞相の楊堅に付いて洛陽の防衛に当たった。堅が皇帝となる時、勧進表に署名しなかった。隋が建国されると太傅とされた。581年(3)参照。
 ⑵583年4月22日にも、陳の郢州城主の張子譏が隋に使者を派して投降を申し出てきたが、隋は陳と友好関係にある事から受け入れなかった。
 ⑶李綸…柱国大将軍・太師・魏国公の徒何弼(李弼)の第四子。文武ともに優れた。功臣の子であることを以て若年の頃から要職に就き、吏部・内史下大夫を歴任し、その両方で称賛を受けた。のち司会中大夫・開府儀同三司・河陽郡公に昇り、569年に正使として北斉に赴いた。569年(1)参照。

┃関中飢える
 甲戌(9月15日)、関中で飢饉が発生したため、文帝が〔人々を引き連れて?〕洛陽に赴いた

 これより前、〔上開府の〕令狐熙は滄州(冀州の東)刺史とされた。この時、山東一帯は北斉の悪弊が残り、〔税金から逃れるため〕戸籍には偽りの数が書かれていた。熙が自首するよう触れを出すと、一万戸がこれに応じて出頭した。数年後、州民の道徳心は大いに向上し、熙は良二千石(刺史)と称賛された。
 この年、帝が洛陽に赴くと、熙は謁見に行った。官民は熙が転任するのではないかと心配し、道端で酷く嘆き悲しみ〔ながら見送った〕。熙が〔転任せずに〕帰ってくると、州民は州境から出てこれを迎え、帰路は歓呼の声で埋め尽くされた。州内では白烏・白麞(ノロジカ)・嘉麦などの瑞物が現れ、甘露が州庁の庭の柳の木に降った。

 この時、帝は開府・衡州総管・四州諸軍事・譙郡公の周法尚を呼び寄せて引見し、金鈿酒鍾(金をはめ込んだ飾りのある酒杯)一双と綵五百段・良馬十五頭・奴婢三百口・鼓吹(楽隊)一部を与えた。法尚が固辞すると、帝は言った。
「公は国家に大いに貢献したではないか。それに、鼓吹を与えたのは、公の郷里の人々(陳?)に朕が公を寵用していると知らしめるためでもある。」
 かくて強いてこれらを与えた。

 癸未(24日)、昼間にも関わらず太白(金星)が見えた。

○隋文帝紀
 甲戌,駕幸洛陽,關內饑也(以關中饑,行幸洛陽)。癸未,太白晝見。
○陳後主紀
 九月癸未,太白晝見。
○隋56令狐熙伝
 會蜀王秀出鎮於蜀,綱紀之選,咸屬正人,以熙為益州總管長史。未之官,拜滄州刺史。時山東承齊之弊,戶口簿籍類不以實。熙曉諭之,令自歸首,至者一萬戶。在職數年,風教大洽,稱為良二千石。開皇四年,上幸洛陽,熙來朝,吏民恐其遷易,悲泣於道。及熙復還,百姓出境迎謁,歡叫盈路。在州獲白烏、白麞、嘉麥,甘露降於庭前柳樹。
○隋65周法尚伝
 遷衡州總管、四州諸軍事,改封譙郡公,邑二千戶。後上幸洛陽,召之,及引見,賜金鈿酒鍾一雙,綵五百段,良馬十五匹,奴婢三百口,給鼓吹一部。法尚固辭,上曰:「公有大功於國,特給鼓吹者,欲令公鄉人知朕之寵公也。」固與之。

 ⑴開皇十四年にも『八月辛未,關中大旱,人飢。上率戶口就食於洛陽』とある。恐らくこの時も人々を連れて洛陽に赴いたのだろうか。
 ⑵令狐熙…字は長熙。北周の大将軍・彭陽県公の令狐整の子で、《周書》の編纂者の令狐徳棻の父。厳格な性格で、自分には厳しかったが、他人に対してはおおらかだった。大の読書家で、特に三礼(礼記・周礼・儀礼)に通じ、音楽にも造詣が深かった。また、騎射も得意とした。出仕するとどの職でも有能さを見せた。母が亡くなると父に戒められるほどに痩せ細った。父が死ぬと再び痩せ細った。武帝の北斉討平(576~577)の際には長安の留守を預かり、その功を以て儀同とされた。のち司勲・吏部の二曹の中大夫を歴任すると、その仕事ぶりを絶賛された。隋が建国されると上儀同・司徒左長史・河南郡公とされた。間もなく行軍長史とされて吐谷渾討伐に参加し、上開府とされた。581年(4)参照。
 ⑶周法尚…字は徳邁。生年556、時に29歳。陳の定州(蒙籠)刺史の周炅の子。若年の頃から勇猛果敢で、風格があり、兵法書を愛読した。576年、父が死ぬと監定州事とされ、兵を受け継いだ。のち数々の戦功を立て、定州刺史とされた。のち不仲の長沙王叔堅に讒言を受けて兵を差し向けられ、北周に亡命して開府・順州刺史・帰義県公とされた。陳将の樊猛が長江を渡って攻めてくると、武勇と智略によって大破した。580年、司馬消難が挙兵した際攻撃を受けると、寡兵で二十日に亘って抵抗したが、救援が来なかったため遁走した。この時、一門三百人を捕らえられた。のち巴州(戈州?)刺史とされ、三鵶叛蛮と陳軍を撃破した。のち衡州総管・四州諸軍事・譙郡公とされた。580年(7)参照。

┃妓妾再婚の禁
 当時、人々の倫理観は衰微し、高官が亡くなると、その愛妾や侍女は子孫によって売りに出されるのが慣習となっていた。〔治書侍御史(御史台〈検察庁〉の次官)の〕李諤はそこで上書して言った。
「臣はこう聞いております。『終わりを慎み遠きを追えば、民徳厚きに帰せん』(上に立つ者が父母の葬いを鄭重にし、遠い先祖の祭りを怠らなければ、人民はこれに影響されて風紀が良い方向に行く)『三年父の道を改むる無きは孝と謂うべし』(父の死後三年間そのしきたりを変えなければ、孝子といえるだろう)と。臣が聞いた所によると、朝臣の中には父が亡くなるとすぐにならず者となり、父の妓妾を分配して売りに出し、財貨を得る者がいるとの事です。このような事は、たとえ一つの事例しか無かったとしても道徳観念に非常な悪影響を及ぼします。妾は微賎の身ではありますが、故人から親しく衣服や靴などを受けたからには、斬衰の喪三年に服すべきであります。これは古今の通式であります。それなのに、故人の死後すぐに喪服を剥ぎ取られて白粉を塗られ、霊前にて泣く泣く別れの挨拶をさせられて他人の家に入れられるという事があっていいものでしょうか。このような事は赤の他人でも胸が痛むのですから、故人の子なら尚更堪えられない事ではないでしょうか? それに、〔これを買う〕朝廷の重臣たちも重臣たちであり、彼らは故人と共に貴顕の地位にあり、平素から交際してその情愛は兄弟のごとくだったのに、故人がひとたび亡くなるやその情愛は消え去ってそこらの通行人と等しくなり、朝に死んだのを聞くと夕方にはその妾との結婚を求め、しかも期限を付けるという有様で、まさに廉恥の心も友朋の義も捨て去ったというほかありません。家を治めるやり方がそのまま国を治めるやり方に繋がるというのに、その家を正しく治められないような者にどうして国政の輔佐ができましょうか?」
 帝はこれを読むとその内容を褒め称えた。五品以上の官吏の妻妾の再婚禁止は、ここより始まったのである(文帝は側室も持てない身だったので、そのやっかみもあったのだろうか)。

○隋66李諤伝
 諤見禮教凋敝,公卿薨亡,其愛妾侍婢,子孫輒嫁賣之,遂成風俗。諤上書曰:「臣聞追遠慎終,民德歸厚,三年無改,方稱為孝。如聞朝臣之內,有父祖亡沒,日月未久,子孫無賴,便分其妓妾,嫁賣取財。有一於茲,實損風化。妾雖微賤,親承衣履,服斬三年,古今通式。豈容遽褫縗絰,強傅鉛華,泣辭靈几之前,送付他人之室。凡在見者,猶致傷心,況乎人子,能堪斯忍?復有朝廷重臣,位望通貴,平生交舊,情若弟兄。及其亡沒,杳同行路,朝聞其死,夕規其妾,方便求娉,以得為限,無廉恥之心,棄友朋之義。且居家理治,可移於官,既不正私,何能贊務?」上覽而嘉之。五品以上妻妾不得改醮,始於此也。

 ⑴李諤…字は士恢。名門趙郡李氏の出。学問を好み、文才があった。北斉に仕えて中書舍人とされた。弁才があったため、常に陳の使者の接待を任された。北斉が滅ぼされると北周に仕え、天官都上士とされた。この時、楊堅(隋の文帝)の傑出した容姿を見て深く交際し、堅が地方官の職を求めると十二策を述べて強く反対した。堅が丞相となると非常に親密な待遇を受け、施策の可否について尋ねられた。当時、国庫が底をつく有様となっていたため、《重穀論》を献じて遠回しに諭した。隋が建国されると比部侍郎とされ、律の改定に携わった。のち考功侍郎とされた。品行方正で事務の処理に通じていたため、人々から高い評価を受けた。のち治書侍御史とされた。文帝に「諤のおかげで中央に残り、皇帝になることができた」と感謝された。581年(5)参照。

┃文体改革
 文帝は華美な修飾や難解な表現を用いた文章を嫌った。
 この年、詔を下し、公私の書簡はみな簡潔に記すようにさせた。
 この月、泗州(下邳。宿豫。梁の東徐州、東魏・北斉の東楚州、陳の安州)刺史の司馬幼之が上表文の華美のために獄に下された。

 李諤は軽薄な文体が流行しているのを以て、上書して言った。
『魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)が文章を尊び、治国の大道を打ち捨てて文章を飾る小芸を好むと、国民もその影響を受けて文章の華麗さを競うようになりました。江左()の斉(南斉)・梁に至るとその弊風はいよいよ甚しくなり、貴賎も賢愚もただただ作詩に熱中し、本質を忘れて瑣末な事にこだわり、一韻の奇を衒い一字の巧を凝らすようになりましたが、どれだけ文章を書き連ね、机に積み上げ箱を満たしても、その内容は月光に照らされる露や風に流れる雲などの自然の事ばかりで、〔全く社会の役に立ちませんでした。〕しかし、その出来不出来で人々は人物の優劣を決め、朝廷は登用する人材かどうか判断するものですから、詩文ができると出世の道が開かれるということで、人々はいよいよこれに入れ揚げるようになり、庶民の子どもも貴族の子どもも六甲を覚えるよりも先に[1]、五言詩の作り方を学び、伏羲・舜・禹の典故や伊尹・傅説殷の武丁の宰相)・周公旦・孔子の言説には関心を持たず、耳に入れようとしませんでした。また、勝手気ままに振る舞う事を清らかな行ないとし、縁情(作詩)を名誉ある物とし、儒者を古臭く野暮ったい者と見なして〔軽蔑し〕、詩人を君子と見なして〔尊敬しました。その〕結果、文章は日に日に繁雑な物となり、政治は日に日に乱雑な物となりました。この原因は実に大聖の教えを打ち捨て、無用の物を有用と見なした事にあります。この根本をおろそかにして枝葉を追い求める風潮は中国(華北)の地にまで波及し、代を重ねるごとにいよいよ深刻な物となりました。しかし、大隋が建国されますと聖人の道は再興され、軽薄で害のある物は排除・抑止され、儒教の経典に通じて質朴で、正しい道を踏み行ない、他者に気遣いができる者でなければ仕官できぬようになりました。開皇四年に公私の書簡をみな簡潔に記すよう詔を下し、その年の九月に泗州刺史の司馬幼之が上表文の華美のために獄に下されると、以後、公卿大臣たちはみな正しい道を歩むようになって儒教の経典を仰ぎ尊び、軽薄で中身の無い物を打ち捨てて先人の残した素晴らしい典籍を手に取り、大いなる教えをこの世に実現しようと考えるようになりました。しかし、遠方の州県では未だに昔の悪い慣習のまま登用・推挙を行ない、朝廷の定めた規則に従わず、一族から孝行者、郷里から気遣いのできる者との評価を受け、聖人の教えを学び、人を良く選んで交際する者を排斥して挙用せず、古典を学ばずに世間の流行に乗って軽薄な詩文を書き、党派を作って栄達を求める者を任用し、朝廷に推挙する有様です。これは恐らく県令や刺史たちが未だに朝廷の意思を理解せず、私情を挟んで公正さを放棄しているからでありましょう。臣は今、憲司(御史)の任を忝のうしておりますからには、彼らを糾察せねばなりませんが、もし風聞を頼りに弾劾をいたしますと検挙される者が非常な数に上ってしまいますので、一度部下たちに広範囲に調査をさせ、本当にそのような行ないをしている者がいれば、罪状を列挙して御史台に送らせる、という手順を踏む事をお許しください。』
 諤はまた官位に就いている者が自慢を好んでいるのを見て、再び上奏して言った。
『倫理の衰退は周(北周)代に極まり、下は廉恥心が無く、上はその風潮を醸成しました。人材の登用の際、採用者は候補者の言うことを信じて日頃の行ないを見ようとしないので、でまかせを言って自分を大きく見せる者だけが有能と判断されて抜擢を受け、謙虚で控えめな者はその沈黙のために多くが登用されずじまいとなりました。その結果、臣下の者たちは自分がどんな功績を挙げたか主張したり、「臣こそ最も気遣いのできる者です」と媚び諂ったりする事に汲々とするようになりました。自分を大きく見せる者は廉恥心が無く、ゆすりやたかりを行なって収奪することのみを得意技とした〔ので、人民は大きく疲弊しました〕。しかし、隋が建国されますと、この風潮は瞬く間に改められ、農夫や物売りの女性ですら居住まいを正しました。まして大臣なら尚更これまでの弊風に従ってはならぬはずです!臣は刺史の朝見する者の中にまだ自分の功績を過大に喧伝する者がいると耳にしております。不遜な言辞を吐き、自慢話ばかり口にし、陛下に不敬な態度を取る者は特に赦し難いものがあります。およそこのような輩はみな罪状を列挙して御史台に送り、処罰を加えて退けるべきであります。さすれば風紀は引き締まるでありましょう。』
 帝は諤の前後の上奏文を天下に頒布すると、天下の人々は草木が靡然向風に靡き従うように旧弊を深く改めた。

○隋66李諤伝
 諤又以屬文之家,體尚輕薄,遞相師効,流宕忘反,於是上書曰:
『…魏之三祖,更尚文詞,忽君人之大道,好雕蟲之小藝。下之從上,有同影響,競騁文華,遂成風俗。江左齊、梁,其弊彌甚,貴賤賢愚,唯務吟詠。遂復遺理存異,尋虛逐微,競一韻之奇,爭一字之巧。連篇累牘,不出月露之形,積案盈箱,唯是風雲之狀。世俗以此相高,朝廷據茲擢士。祿利之路既開,愛尚之情愈篤。於是閭里童昏,貴遊總丱,未窺六甲,先製五言。至如羲皇、舜、禹之典,伊、傅、周、孔之說,不復關心,何嘗入耳。以傲誕為清虛,以緣情為勳績,指儒素為古拙,用詞賦為君子。故文筆日繁,其政日亂,良由棄大聖之軌模,構無用以為用也。損本逐末,流徧華壤,遞相師祖,久而愈扇。及大隋受命,聖道聿興,屏黜輕浮,遏止華偽。自非懷經抱質,志道依仁,不得引預搢紳,參廁纓冕。開皇四年,普詔天下,公私文翰,並宜實錄。其年九月,泗州刺史司馬幼之文表華豔,付所司治罪。自是公卿大臣咸知正路,莫不鑽仰墳集,棄絕華綺,擇先王之令典,行大道於茲世。如聞外州遠縣,仍踵敝風,選吏舉人,未遵典則。至有宗黨稱孝,鄉曲歸仁,學必典謨,交不苟合,則擯落私門,不加收齒;其學不稽古,逐俗隨時,作輕薄之篇章,結朋黨而求譽,則選充吏職,舉送天朝。蓋由縣令、刺史未行風教,猶挾私情,不存公道。臣既忝憲司,職當糾察。若聞風即劾,恐挂網者多,請勒諸司,普加搜訪,有如此者,具狀送臺。
 諤又以當官者好自矜伐,復上奏曰:
『…世之喪道,極於周代,下無廉恥,上使之然。用人唯信其口,取士不觀其行,矜誇自大,便以幹濟蒙擢,謙恭靜退,多以恬默見遺。是以通表陳誠,先論己之功狀,承顏敷奏,亦道臣最用心。自衒自媒,都無慚恥之色,強干橫請,唯以乾沒為能。自隋受命,此風頓改,耕夫販婦,無不革心,況乃大臣,仍遵敝俗!如聞刺史入京朝覲,乃有自陳勾檢之功,諠訴堦墀之側,言辭不遜,高自稱譽,上黷冕旒,特為難恕。凡如此輩,具狀送臺,明加罪黜,以懲風軌。
 上以諤前後所奏頒示天下,四海靡然向風,深革其弊。

 ⑴司馬幼之…北斉の太尉の司馬子如(四貴の一人)の兄の子。清廉で品行が良く、若い頃から要職を歴任した。567年、散騎常侍とされて陳に使いした。武平(570~576)の末に大理卿とされ、北斉が滅ぶと長安に連行された。577年(3)参照。
 [1]昔の人々は、8歳になると小学に入り、六甲・五方・読み書き計算を学んだ。六甲とは、六十甲子(干支)の事である。


 584年(3)に続く