●侯平叛す

〔これより前、王琳の別将の侯平は水軍を率いて後梁(西魏の傀儡国。首都は江陵)の攻撃に赴いていた(555年正月参照)。侯平は後梁の巴州と武州を攻め、刺史の莫勇魏永寿を捕らえた(555年5月1日参照)。西魏が大将軍の豆盧寧を派遣し(555年11月参照)、後梁が公安を攻めると、侯平は長沙王韶と共に長沙に逃げ帰った。王琳は平に巴州を守備させた(556年2月参照)。〕
 平は長江を渡ることはできなかったが、何度も後梁軍を撃破した。しかし、琳は平を支援しようとしなかった。これに不満を覚えた侯平は、遂に巴州助防の呂旬を殺して(巴州助防〜...出典不明)琳に叛いた。琳は討伐軍を派遣したが勝つことができなかった。のち、平は江州に奔って侯瑱を頼った。瑱は平と義兄弟の契りを結んだ(のち、平は〜...出典不明)。琳の勢力は弱まり、八方塞がりの状況に陥った。
 乙丑(6月22日)北斉文宣紀〉、北斉に使者を送り、馴象を献じた。
 これより前、江陵が陥ちた時、琳の妻の蔡氏と世子の王毅は西魏の手に落ちていた(これより前〜...出典不明)。琳は西魏にも貢ぎ物を贈り、妻子の返還を求めた。また、梁にも臣と称した《北斉32王琳伝》

○資治通鑑
 侯平頻破後梁軍,以王琳兵威不接,更不受指麾;琳遣將討之。平殺巴州助防呂旬,收其衆,奔江州,侯瑱與之結為兄弟。琳軍勢益衰,乙丑,遣使奉表詣齊,幷獻馴象【安南出象處曰象山,歲一捕之,縛欄道旁,中為大穽,以雌象前行為媒,遺甘蔗於地,傅藥蔗上。雄象來食蔗,漸引入欄,閉其中,就穽中敎習馴擾之,始甚咆哮,穽深不可出,牧者以言語諭之,久則漸解人意】。江陵之陷也,琳妻蔡氏、世子毅皆沒於魏,琳又獻款於魏以求妻子;亦稱臣於梁。
○北斉文宣紀
 六月…乙丑,梁湘州刺史王琳獻馴象。
○北斉32王琳伝
 侯平雖不能渡江,頻破梁軍,又以琳兵威不接,翻更不受指麾。琳遣將討之,不克,又師老兵疲不能進。乃遣使奉表詣齊,並獻馴象;又使獻款於魏,求其妻子;亦稱臣於梁。

 ⑴王琳...字は子珩。時に31歳。兵戸出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で侯景討伐に第一の武功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠した。556年(1)参照。
 ⑵侯平...王琳の部将。水軍を与えられ、後梁を攻めた。556年(1)参照。
 ⑶侯瑱...字は伯玉。時に47歳。梁の猛将。侯景討伐の先鋒となり、建康から逃げる侯景を追撃して破った。のち、東関にて郭元建の軍を大破し、北斉が郢州を陥とすとこれを攻めた。王僧弁が死ぬと豫章と湓城に拠って自立し、周文育の軍を撃退した。555年(2)参照。

●昏狂
 この年、北斉が三十余万の人民と工匠を動員し、鄴城の三台を改修した。もともとの三台よりも高く広くし、宮殿と遊豫園を造営した(558年完成)。
 宮殿の二つの棟木の高さは二十七丈(81メートル?)、距離は二百余尺(60メートル以上?)もあった。そのため、工匠は危険を感じ、命綱を付けて作業をしたが、文宣帝はその棟木の上に登ると、〔命綱をつけずに〕平気で走り回ったり、音楽に合わせて舞い踊ったりした。これを見た人たちは〔余りの危険さに〕ぞっとして震え上がった。
 帝はある時、金鳳台(三台の一つ)に赴いて仏教の戒律を受ける儀式を行なった。この時、よく死刑囚を呼びつけ、死刑を免じる代わりに、筵を羽代わりにして(北19元韶伝では紙鴟〈凧〉を用いている)台の上から飛び降りさせた。これを『放生』(仏教の慈悲行。捕らえられている魚や鳥などを河・山に放す)と言った。覚悟を決めて果敢に飛び降りた者はみな助かったが、恐れて躊躇いがあった者は落下して死んだ。帝はこれを見て笑った



 帝は即位した当初、気力充実し、熱心に政治の改革に努めて事務を簡略化した。また、適材適所に人を配し、自由に裁量させたので、楊愔らは思う存分その才腕を振るうことができ、治績は粲然と輝いた。また、百官に対しては法律を以て厳しく当たり、法に違反した者は親族や功臣であっても罰したため、綱紀は全く肅然とした。政治・軍事の重要な事柄は一人で決定したが、その計画は非常に遠大なものであって、真に人君の大略を有していた。また、戦地に赴いては矢石をものともせずに陣頭に立って兵を指揮し、征くところ必ず勝利を収めた。
 しかし、即位から六・七年経つと、自らの挙げた功業に驕って箍が緩み、酒色に溺れて淫乱・暴虐の限りを尽くすようになった。ある時は一日中自ら鼓を打って歌い踊った。ある時はザンバラ髪になって胡服を着、派手な帯を付け、肌脱ぎになって化粧をし、刀を抜き、弓を引いて街中を練り歩いた。ある時は民家に居座り、ある時は民家で寝泊まりをした。朝な夕な身内や功臣の屋敷に赴いたが、その際、鹿車に乗ったり、白象に乗ったり、駱駝に乗ったり、牛・ロバに乗ったりした。帝はそのどれにも鞍や轡を付けずに乗ることができた。また、盛暑・厳寒の時でも肌脱ぎになって走り回った。従者は暑さや寒さにへとへとになったが、帝は全く平然としていた。ある時は劉桃枝崔季舒に自分を背負わせて歩かせ、自分は肩に担いだ胡鼓[1]を打ち鳴らした。身内や功臣・左右近習・侍従はみなごっちゃになって傍に付いて歩き、身分の区別は無かった。
 ある時、道端で会った婦人にこう尋ねて言った。
「天子をどう思う?」
 婦人は〔帝を天子と思わず、〕こう答えて言った。
「あれは馬鹿ですよ。なんで天子になれたんでしょうね。」
 帝は激怒してこれを殺した。
 ある時は馬に乗って金品をばらまきながら大通りを駆け回り、人々がこれを争って拾い集め、取り合って喧嘩するのを見て楽しんだ。

◯北斉文宣紀
 是年,修廣三臺宮殿。…先是,發丁匠三十餘萬營三臺於鄴下,因其舊基而高博之,大起宮室及遊豫園。
◯北史北斉文宣紀
 及登極之後,神明轉茂,外柔內剛,果於斷割,人莫能窺。又特明吏事,留心政術,簡靖寬和,坦於任使,故楊愔等得盡於匡贊,朝政粲然。兼以法馭下,不避權貴,或有違犯,不容勳戚,內外莫不肅然。至於軍國機策,獨決懷抱,規謀宏遠,有人君大略。又以三方鼎峙,繕甲練兵,左右宿衞,置百保軍士。每臨行陣,親當矢石,鋒刃交接,唯恐前敵不多。屢犯艱厄,常致剋捷。…既征伐四剋,威振戎夏,六七年後,以功業自矜,遂留情耽湎,肆行淫暴。或躬自鼓舞,歌謳不息,從旦通宵,以夜繼晝。或袒露形體,塗傅粉黛,散髮胡服,雜衣錦綵,拔刃張弓,游行巿肆。勳戚之第,朝夕臨幸。時乘鹿車、白象、駱駝、牛、驢,並不施鞍勒。或盛暑炎赫,日中暴身,隆冬酷寒,去衣馳走,從者不堪,帝居之自若。街坐巷宿,處處游行。多使劉桃枝、崔季舒負之而行。或擔胡鼓而拍之。親戚貴臣,左右近習,侍從錯雜,無復差等。徵集淫嫗,悉去衣裳,分付從官,朝夕臨視。或聚棘為馬,紐草為索,逼遣乘騎,牽引來去,流血灑地,以為娛樂。凡諸殺害,多令支解,或焚之於火,或投之於河。沈酗既久,彌以狂惑,每至將醉,輒拔劍挂手,或張弓傅矢,或執持牟槊。游行巿鄽,問婦人曰:「天子何如?」答曰:「顛顛癡癡,何成天子。」帝乃殺之。或馳騁衢路,散擲錢物,恣人拾取,爭競諠譁,方以為喜。
 …三臺構木高二十七丈,兩棟相距二百餘尺,工匠危怯,皆繫繩自防;帝登脊疾走,都無怖畏。時復雅舞,折旋中節,傍人見者,莫不寒心。又召死囚,以席為翅,從臺飛下,免其罪戮。果敢不慮者,盡皆獲全;疑怯猶豫者,或致損跌。
○隋刑法志
 自六年之後,帝遂以功業自矜,恣行酷暴,昏狂酗醟,任情喜怒。…帝嘗幸金鳳臺,受佛戒,多召死囚,編籧篨為翅,命之飛下,謂之放生。墜皆致死,帝視以為歡笑。

 ⑴三台...三国魏の曹操が築いた銅雀台・金虎台・氷井台の事である。
 ⑵文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に31歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。556年(2)参照。
 ⑶北19元韶伝には559年頃の出来事に『帝は元世哲の従弟の元黄頭を、囚人たちと共に紙鴟(凧)を付けて金鳳台(文宣帝が改築した鄴の高殿の一つ)より飛び立たせた。彼らの内、黄頭のみが紫陌(鄴の西北五里)に着陸して生きのびることができた。しかし、結局帝は黄頭を御史台の獄に下した。御史中丞の畢義雲はこれを餓死させた』とある。
 ⑷楊愔...字は遵彦。名門楊氏の生き残り。時に46歳。554年(2)参照。
 ⑸劉桃枝...高歓の時からいる高家の家奴。声相見から非常に富貴な身分となり、王侯将相の多くを殺すと予言された。549年(6)参照。
 ⑹崔季舒...字は叔正。文宣帝の兄・高澄の腹心。澄が殺された時逃亡した。554年(2)参照。
 [1]胡鼓...〔バチを用いずに〕手で打ち鳴らす鼓。劉昫曰く、腰鼓の大なる物は瓦製、小なる物は木製で、どちらも首に掛けて腹(腰のあたり)に垂らす。もともと胡鼓と呼ばれた。

●酒乱、母を傷つかす

 ある時、婁太后が帝の酒乱を責め、杖で打ってこう言った。
「あの父からなんでこんな子が産まれたのか!」
 帝は答えて言った。
「母ちゃんの血のせいだろう。」
 太后は激怒し、以降喋ることも笑うことも無くなった。
 ある時、太后は北宮にて小さな牀榻(座具・寝具)に座っていた。酔っ払っていた帝は太后を笑わそうとして、床を這い、太后ごと牀榻を持ち上げた。太后は床に転げ落ち、大怪我を負った。帝は酔いから覚めると非常に後悔し、人に柴を積ませて火を起こし、その中に入って焼け死のうとした。太后は仰天し、自らこれを引き止め、無理に笑顔を作ってこう言った。
「酔っていたんだろう。自分から体を傷つけるようなことはしないでおくれ(北史演義)。
 すると帝は床に筵を敷いて座り、自分の罪を数え上げて自らを責め立て、服を脱いで上半身を露わにし、平秦王帰彦に杖で背中を打たせた。この時、帝は帰彦にこう言った。
「血が出るまで打て! 手加減などしたら斬るぞ!」
 太后は帝を抱きかかえて引き止めたが、帝が泣いて何度も罰を求めたため、遂に折れ、帰彦に五十回の足の鞭打ちを許した。帰彦は足に万遍なく鞭打った。鞭打ちが終わった後、帝は正装し、泣いて陳謝した。帝は反省して断酒をしたが、十日後にはまた酒を飲むようになってしまった。以降、酒色への耽溺は悪化の一途を辿った。

 ある時、帝は李后の家を訪れると、后の母の崔氏を鏑矢で射、頬に命中させた。それから更にこう罵って言った。
「わしは酔うと、実の母ですら判別がつかなくなる。このババアなら尚更だ!」
 かくて馬鞭を以て百余回鞭打った。

○資治通鑑
 婁太后以帝酒狂,舉杖擊之曰:「如此父生如此兒!」帝曰:「卽當嫁此老母與胡。」太后大怒,遂不言笑。帝欲太后笑,自匍匐,以身舉牀,墜太后於地,頗有所傷。旣醒,大慚恨,使積柴熾火,欲入其中。太后驚懼,親自持挽,強為之笑,曰:「曏汝醉耳!」帝乃設地席,命平秦王歸彥執杖,口自責數,自責而數罪也。
○北史北斉文宣紀
 太后嘗在北宮,坐一小榻,帝時已醉,手自舉牀,后便墜落,頗有傷損。醒悟之後,大懷慚恨,遂令多聚柴火,將入其中。太后驚懼,親自持挽。又設地席,令平秦王高歸彥執杖,口自責疏,脫背就罰。敕歸彥:「杖不出血,當即斬汝。」太后涕泣,前自抱之,帝流涕苦請,不肯受於太后。太后聽許,方捨背杖,笞脚五十,莫不至到。衣冠拜謝,悲不自勝,因此戒酒。一旬,還復如初。自是耽湎轉劇。遂幸李后家,以鳴鏑射后母崔,正中其頰,因罵曰:「吾醉時尚不識太后,老婢何事!」馬鞭亂打一百有餘。
○北史演義
 太后驚懼,親自持挽,強為之笑曰:「向汝醉耳,毋自殘。」
○南北史演義
 婁太后聞洋昏狂,召洋訶責,且舉杖擊洋道:「當效汝父,當效汝兄!」洋不肯認錯,受杖數下,即起身奔出,回指太后道:「當嫁此老母與胡人!」婁太后大怒,遂不復言笑。洋頗知自悔,屢向太后前謝罪,婁太后怒氣未平,終不正視。洋自覺乏趣,唯飲酒解悶,醉後益觸起舊感,復趨至太后宮中,匍匐地上,自陳悔意。婁太后仍然不睬,洋不由的懊惱起來,把太后的坐榻,用手掀起。太后未嘗預防,突然倒地,經侍女從旁扶起,面上已有傷痕,當時怒上加怒,立將洋攆出宮外。未幾洋已酒醒,大為悔恨,又至太后宮請安。婁太后拒不肯見,洋使左右積柴熾火,欲投身自焚。當有人報知太后,太后究系女流,免不得轉恨為憐,乃召洋入見,強為笑語道:「汝前酒醉,因致無禮,後當切戒為是!」洋乃命設地席,且召平秦王高歸彥入宮,歸彥系高歡從祖弟。令執杖施罰。自跪地上,袒背受杖,並語歸彥道:「杖不出血,當即斬汝!」婁太后親起扶持,免令加杖。洋流涕苦請,乃使歸彥笞腳五十,然後衣冠拜謝,嗚咽而出。因是戒酒數日,過了旬餘,又復如初,甚且加劇。

 ⑴婁太后...諱は昭君。生年501、時に56歳。高歓の正妻で、高澄や高洋の母。
 ⑵南北史演義では『帝は匍匐して謝罪したが、太后が無視すると思わずカッとなり、太后を坐榻ごと持ち上げた。太后は予想外のことだったため姿勢を崩して床に転げ落ち、侍女に助け起こされたものの、顔に大きな傷ができていた』とある。こちらの方が経緯的にしっくりくるような気がする。
 ⑶もしくは「酒に酔っていたからついやってしまっただけで、本心では無かったんだろう!」か?
 ⑷平秦王帰彦...高歓の族弟。字は仁英。文宣帝に重用を受けた。清河王岳を陥れて死に追い込んだ。555年(3)参照。
 ⑸李后...諱は祖娥。文宣帝の正室。容姿・性格共に抜群の美女で、帝に丁重に遇された。550年(3)参照。

●暴虐

 帝は宰相の楊愔を粗雑に扱い、ある時は厠にて厠籌(尻拭き用の竹片・木片)で尻を拭かせ、ある時は血が服に滲み出るまで馬鞭で背中を打った。
 愔はとても太っていたので、帝は愔を『楊大肚』(肚は腹)と呼んだ。ある時、帝は小刀を以てその腹を切り開こうとした。崔季舒はこれを見ると、劇の一句を借りてこう言った。
「老公子と小公子が悪ふざけをしていらっしゃる。」
 そしてそのまま刀を手に取って去った。
 また、ある時は愔を棺の中に入れて霊柩車に載せ、〔棺に〕何度も釘を打ち付けた。
 また、ある時は、馬上にて槊(馬上槍)を持ち、左丞相の斛律金の胸に三度突くふりをした。しかし金は直立して微動だにしなかったため、千段の絹を与えられた。
 また、ある宴会の最中、帯まで届く長く美しいひげを蓄え、『長鬣(あごひげ)公』と呼ばれていた殿中尚書(近衛を掌る)の許季良のひげを摑んでその美しさを褒めたのち、一握り分だけを残して刀で切り取ってしまった。季良は恐れおののき、以後、敢えてひげを伸ばさなかった。人々は季良の事を『斉(整えられた)鬚公』と呼んだ。

○北史北斉文宣紀
 雖以楊愔為宰輔,使進厠籌。以其體肥,呼為楊大肚,馬鞭鞭其背,流血浹袍。以刀子剺其腹,崔季舒託俳言曰:「老小公子惡戯?」因掣刀子而去之。又置愔於棺中,載以轜車,幾下釘者數四。
○北斉43許惇伝
 遷殿中尚書。惇美鬚髯,下垂至帶,省中號為長鬣公。顯祖嘗因酒酣,握(提)惇鬚髯稱美,遂以刀截之,唯留一握。惇懼,因不復敢長,時人又號為齊鬚公。
北54斛律金伝
 帝晚年敗德,嘗持矟走馬以擬金胸者三,金立不動,於是賜物千段。

 ⑴斛律金...字は阿六敦。時に69歳。敕勒族の長老で、咸陽王。文宣帝の父・高歓の盟友。帝に非常な寵遇を受けた。554年(1)参照。
 ⑵許季良…本名は惇といい、季良は字。高陽許氏の出。父は北魏の高陽・章武二郡太守(或いは州主簿)。高い見識を持ち、頭の回転が速かった。また、帯まで届く長く美しいひげを蓄え、人々から『長鬣公』と呼ばれた。行政手腕に優れ、司徒主簿とされると思い切りのいい判断で『入鉄主簿』と呼ばれ、陽平太守とされると天下第一の治績を挙げた。のち大司農とされ、王思政討伐の際には補給を担当し、最後まで兵糧を途絶えさせなかった。また、水攻めの提案も行なった。549年(3)参照。

●残虐
 帝は大鑊(大釜)・長鋸(長いノコギリ)・剉碓(刻み臼)などの刑具を庭に並べ《隋刑法志》、酔っている時に少しでも不快を感ずると、必ず剣を抜くか、弓に矢をつがえるか、槊を手に取るかして、手ずから人を殺し、〔刑具を使って〕死体をばらばらに解体すると、火の中か漳水(鄴付近に流れる川)の中に投げ込んだり、左右の者にその肉を食わせるなどして鬱憤を晴らした。
 帝は晋陽に居た時、遊び半分で都督の尉子耀を矟で刺し殺した。また、三台の太光殿にて都督の穆嵩を鋸で殺した。開府の暴顕の屋敷に赴いた際、何の落ち度も無かった都督の韓哲を突然呼びつけ、大勢の前でこれを斬った。甚だしきに至っては、民間の会った事も無い一般人を突然呼びつけて斬った事があった。
 ある時、大司農(司農卿)の穆子容に怒り、裸にして這いつくばらせ、自らこれを射たが、外れるとますます怒り、木の杭を子容の肛門に差し込み、腸にまで入れて殺害した《北史北斉文宣紀》
〔これに手を焼いた〕楊愔は、鄴の死刑囚の中から何人か選んで帝の傍に置き、帝が殺人の衝動に駆られた際の生贄とさせた。彼らは『供御囚』と呼ばれ、三ヶ月殺されなかった場合、死刑を免じられた《隋刑法志》

 穆子容は北魏の太尉の穆崇の昆孫で、太尉参軍事の穆士儒の子である。若年の頃から学問を好み、読まない本は無かった。中国中の書を探し求め、新しい本に会えばすぐさま筆写し、蔵書は一万余巻にもなった。武定年間(543~550)に汲郡(洛陽の東北)太守とされた。東魏の末に兼通直散騎常侍とされ、梁に使者として赴いた。北斉が建国されると司農卿とされた。

○北史北斉文宣紀
 沈酗既久,轉虧本性。怒大司農穆子容,使之脫衣而伏,親射之,不中,以橛貫其下竅,入膓。…嘗在晉陽,以矟戲刺都督尉子耀,應手而死。在三臺太光殿上,鋸殺都督穆嵩。又幸開府暴顯家,有都督韓哲無罪,忽眾中召,斬之數段。…至有閭巷庸猥,人無識知者,忽令召斬鄴下。
○隋刑法志
 為大鑊、長鋸、剉碓之屬,並陳於庭,意有不快,則手自屠裂,或命左右臠噉,以逞其意。時僕射楊遵彥,乃令憲司先定死罪囚,置于仗衞之中,帝欲殺人,則執以應命,謂之供御囚。經三月不殺者,則免其死。…時有司折獄,又皆酷法。訊囚則用車輻𤠮杖,夾指壓踝,又立之燒犁耳上,或使以臂貫燒車釭。既不勝其苦,皆致誣伏。
○北斉39祖珽伝
 與陳元康、穆子容 、任冑、元士亮等為聲色之遊。
○北斉47樊遜伝
 太常卿邢子才、太子少傅魏收、吏部尚書辛術、司農少卿穆子容、前黃門郎司馬子瑞、故國子祭酒李業興並是多書之家,請牒借本參校得失。
○北20穆崇伝
 穆崇…長子逐留…子乙…子真…子泰…子士儒,字叔賢,徙涼州。後得還,為太尉參軍事。子子容,少好學,無所不覽。求天下書,逢即寫錄,所得萬餘卷。〔武定中,汲郡太守。〕魏末,為兼通直散騎常侍聘梁。齊受禪,卒於司農卿。

 ⑴暴顕...字は思祖。もと広州・鄭州刺史。侯景が叛乱を起こした際捕らえられたが、のち脱走に成功した。郢州が梁軍に包囲されると、水軍大都督とされてその救援に赴いた。555年(1)参照。

●淫虐
 帝は娼婦を集めると、衣服を脱がせて全裸にし、左右の者たちの傍に侍らせ(乱交させ?)、朝な夕なこれを見て楽しんだ。ある時、帝は茨を集めて馬を作り、〔彼女たちを?〕無理矢理これに乗せ、草を結んで作った縄で引っ張ってあちこち連れ回した。帝は〔彼女たちの?〕流血が地に満ちる様を見て楽しんだ。
 彭城王浟の母の爾朱氏は、帝の父・高歓の主君の爾朱栄の娘で、北魏の孝荘帝に嫁いだが、のち高歓の側室となって、正妻の婁太后よりも寵愛された。歓が死ぬと尼となり、歓の菩提を弔った《北14彭城太妃爾朱氏伝》。ある時、帝は彭城王の邸宅に赴くと、爾朱氏を犯そうとした。爾朱氏が抵抗すると(爾朱氏を〜...北14彭城太妃爾朱氏伝)、帝は激怒してこう言った。
「お前は昔、わしの母の寵愛を奪った。もう我慢できぬ!」
 かくて手ずから爾朱氏を斬った。
 故・東魏の楽安王の元昂は、李后の姉の夫だった。李后の姉は美しかったため、帝にしばしば犯された。帝は〔やがて昂を始末し、〕李后の姉を後宮に納れて昭儀(側室の筆頭)にしようと目論むようになった。かくて昂を呼びつけ、その場に這いつくばらせると、これに鏑矢を百余発射た。血溜まりが一石(南北朝では30リットル、隋唐では60リットルだという。人間の出血の限界は1.2リットルなので、誇張表現であろう)になろうとした時、昂は遂に絶命した。帝は自ら昂の弔問に行って哭礼を行ない、そこでまた李后の姉を犯した。それから、侍従の衣服を脱がせてはなむけの衣服()として昂に着せ、また、信物(結納品)と称して巨万に近い金品を后の姉に贈った。李后は〔姉の夫の訃報を聞くと〕泣いて食を断ち、姉に皇后の位を譲ることを申し出た。婁太后が帝を責めると、帝は李后の姉を後宮に納れることを諦めた《北史北斉文宣紀》
 帝は即位したのち、〔兄・高澄の正妻の〕元氏を文襄皇后とし、静徳宮に住まわせていたが、天保六年(555)、改めて高陽王湜の邸宅に遷し、その財産を全て没収してこう言った。
「兄は昔、わしの妻を犯した。今、その仕返しをしてやる。」
 かくて元氏を犯した。
 帝は高氏の女性に対し、血の繋がりを問わず、みな己の前に連れてこさせ、左右の者と乱交をさせた。ある時、葛を以て絙()を作らせ、〔元氏の叔母の〕北魏の安徳公主北史北魏孝武紀には北魏の清河王繹の娘とある)を馬(茨の馬?)に乗せ(10)、自分の所まで連れて行かせた。それから、胡人に犯させた《北斉9文襄元后伝》

 ⑴彭城王浟...字は子深。高歓の第五子。いっとき後継者に指名されそうになったことがある。滄州・定州にて善政を行なった。550年(3)参照。
 ⑵爾朱氏...北魏末の英雄・爾朱栄の娘で、北魏の孝荘帝の后、高歓の側室。蠕蠕公主に対抗して空飛ぶカラスを一矢で射落とし、歓に「我が二婦人は、充分賊と戦える。」と喜ばれた。545年(1)参照。
 ⑶高歓...字は賀六渾。爾朱栄横死後の混乱に乗じて華北東部を制圧し、東魏を建国した英雄。
 ⑷爾朱栄...字は天宝。北魏末に起きた叛乱を瞬く間に平定したが、野蛮で帝室を圧迫したため、孝荘帝に誅殺された。530年(3)参照。
 ⑸孝荘帝...元子攸。北魏十代皇帝。爾朱栄に擁立されて皇帝となったが、その専権を忌んで誅殺した。しかしその余党の逆襲を受け殺された。530年(5)参照。
 ⑹高歓は爾朱氏と会うときは必ず正装を着、自分のことは下官(謙称。小官、小生、やつがれ、わたくしめ)と称した。535年(1)参照。
 ⑺高澄...字は子恵。高歓の長子。女好きの美男子。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑻元氏...馮翊長公主。孝静帝の妹。容貌・性格ともに優れた。550年(3)参照。
 ⑼高陽王湜...高歓の第十一子。おべっかが上手く、文宣帝に寵用された。550年(3)参照。
 (10)娼婦の記事と似ている。

●諫言
 開府参軍の裴謂之が上書して極諫すると、帝は楊愔にこう言った。
「この馬鹿は何故こんなことをするのか!」
 愔は答えて言った。
「陛下に殺されることで、後世に名を残そうとしているだけでございます。」
 帝は言った。
「小人めが! わしは彼奴を殺さぬ。彼奴の思い通りにはさせぬぞ!」《出典不明》

 ある時、帝は近侍の者と酒を飲み、こう言った。
「今日はとても楽しい。」
 すると領左右都督の王紘が言った。
「大きな楽しみは、大きな苦しみでもございます。」
 帝は言った。
「大きな苦しみとはなんだ?」
 紘は言った。
「夜通し荒飲して国家や自身を破滅に導いているのを悟らない、これを大苦と言うのです。」
 帝は黙りこくった。のち、帝は紘を責めて言った。
「お前は昔、紇奚舍楽と共に兄(高澄)に仕えた。しかし、兄が賊に殺された時、舍楽はこれと闘って死んだが、お前は死ななかった。それは何故だ!」
 紘は言った。
「主君が身罷られた時、臣下がこれに殉ずるのは当然の節義であります。しかし、あの時は賊どもの斬る力が弱かったため、死のうにも死ねなかったのです。」
 帝は燕子献字は季則。もと西魏の臣。東魏に亡命すると高歓に非常に喜ばれ、娘を与えられた)に紘を後ろ手に縛らせ、〔弟の〕長広王湛に紘の首を差し伸べさせ、手ずから斬首しようとした。その時、紘は言った。
「遁走して難を避けた楊遵彦楊愔)と崔季舒は僕射と尚書に栄達したのに、命を賭して難に当たった者は屠戮せられる。このようなことは、古今例に無かったことです。」
 帝は刀を床に投げ捨てて言った。
「王師羅(紘の字)を殺すことはできぬ。」
 かくて放免した《北斉25王紘伝》

 帝はある時、東山に赴いて酒宴を催した。帝は言った。
「今日はとても楽しい!」
 すると、武衛将軍(左衛将軍?)の斛律光が進み出て言った。
「仇敵の関西(西魏)がまだ平定されていないというのに、よく楽しめますな。十万の兵を三道より向かわせ、平〔陽?〕道を通って玉壁(勲州。北斉の軍都晋陽と西魏の首都長安の中間にあった)を陥とし、長安を抜き、兵士に甲冑を解かせてのち、ようやく楽しいと言うことができるのです。」
 帝は群臣に言った。
「明月(斛律光の字)はいつも自分の家の事のように国家を心配してくれる。敵う者はいまい。」
 かくて帝は魏収を呼ぶと、直ちに詔書を作らせ、天下に西征をすることを伝えた。西魏の人々はこれを聞くと恐れおののき、隴山(長安の西にある)の西に逃れる準備をした[1]かくて帝は〜...北斉文宣紀)。
 平原王の段韶は退出すると、光にこう言った。
「そなたは先帝(高歓)よりも優秀なのか? 先帝は四十万の兵を以て玉璧を攻めたが、陥とすことができずに引き返したのだぞ(546年〈2〉参照)。兵は擎盤(支柱を持って捧げる盤)の水の如くで、少しでも誤れば即座に覆って全滅する。どうして軽々しくあんなことを言ったのだ?」
 光は笑って言った。
「そなたの知ったことではない。」《三国典略46》
 結局帝は実行しなかった。

○擎盤
※百度百科より引用

 ある日、帝は泣いて群臣にこう言った。
「黒獺(宇文泰の字)、我が命を受けず。どうしたらいいものだろうか?」
 すると都督の劉桃枝が言った。
「三千騎をいただけますなら、長安に行って黒獺を捕らえてご覧に入れます。」
 帝はその勇気を褒め、絹千疋を与えた。趙道徳はこれを聞くと、帝に進言して言った。
「東西両国の力は拮抗しています。つまり、我らが三千騎で黒獺を捕らえられるなら、黒獺も三千騎で陛下を捕らえられるということなのです。〔そんな事があり得ましょうか? つまり、〕桃枝はでたらめを申したのです。彼には誅殺が適当。しかるに、なぜ陛下はあべこべに彼に下賜などなさったのですか!」(原文『「東西兩國,彊弱力均,彼可擒之以來,此亦可擒之以往。桃枝妄言應誅,陛下奈何濫賞!」』
 帝は言った。
「道徳の言う通りだ。」
 かくて桃枝に与えた絹を没収し、道徳に与えた。
 ある時、帝は馬に乗って崖を下り、漳水に入ろうとした。道徳が帝の馬の手綱を取って引き返させると、帝は激怒し、道徳を斬ろうとした。すると道徳は言った。
「殺すならご自由に。ただ、泉下にて先帝(高歓)にこう報告いたしますぞ。『ご子息は酒に溺れて発狂し、言うことを聞きませんでした』と。」
 帝はこれを聞くと、ぐっと言葉に詰まった。後日、帝は道徳にこう言った。
「先日は酒を飲みすぎてしまった。戒めとして杖で打ってくれ。」
 道徳が杖を手に取ると、帝は〔怖くなって〕遁走した。道徳は帝を追いかけて言った。
「天下のどこに怖くて逃げる天子がいるのですか!」(原文『「何物人,為此舉止!」』《出典不明》

 典御丞の李集が面と向かって帝を諫め、帝を〔古代の暴君の〕桀・紂になぞらえた。帝は集を縛って水中に沈め、暫く経ってから引き揚げてこう言った。
「わしは桀・紂か?」
 集は言った。
「陛下は桀・紂以上の暴君であります!」
 帝は怒り、同じことを何度も繰り返したが、集の返答は変わらなかった。すると帝は大笑して言った。
「天下にこれほどまでの馬鹿がいるとはな! 龍逄・比干[3]もこの馬鹿ほどでは無かっただろう!」
 かくて釈放した。間もなく、帝は集を呼びつけた。集が前回と同じような諫言を行なうと、帝はこれを腰斬に処した。斬るか赦すかは〔帝の気分一つで変わり〕、全く予測がつかなかった《北史北斉文宣紀》

○資治通鑑
 帝遊宴東山,以關、隴未平,投盃震怒,召魏收於前,立為詔書,宣示遠近,將事西行。魏人震恐,常為度隴之計【宇文泰識虛實,何得因西行一詔,便為度隴之計!此齊史官之華言耳。】,然實未行。一日,泣謂羣臣曰:「黑獺不受我命,柰何?」都督劉桃枝曰:「臣得三千騎,請就長安擒之以來。」帝壯之,賜帛千匹。趙道德進曰:「東西兩國,彊弱力均,彼可擒之以來,此亦可擒之以往。桃枝妄言應誅,陛下柰何濫賞!」帝曰:「道德言是。」回絹賜之。帝乘馬欲下峻岸入於漳【欲入漳水】。道德攬轡回之;帝怒,將斬之。道德曰:「臣死不恨,當於地下啓先帝,論此兒酣酗顚狂【酗,吁句翻。陸德明曰:以酒為凶曰酗】,不可敎訓。」帝默然而止。他日,帝謂道德曰:「我飲酒過【過,謂過多】。須痛杖我。」道德抶之【抶,升栗翻,擊也】。帝走。道德逐之曰:「何物人,為此舉止!」

 ⑴原文『「小人,我且不殺,爾焉得名!」』。南北史演義では『洋笑道:「我不殺他,怎得成名!」』となっている。
 ⑵王紘...字は師羅。文宣帝の兄の高澄が賊の襲撃に遭って落命した時、賊に立ち向かって負傷し、その忠節を以て領左右都督とされた。のち、帝の柔然討伐に従い、包囲に遭うと力戦して帝を救った。554年(2)参照。
 ⑶紇奚舍楽...文宣帝の兄の高澄が賊の襲撃に遭って落命した時、賊に立ち向かって闘死した。549年(6)参照。
 ⑷長広王湛...高歓の第九子で、文宣帝の同母弟。時に21歳。550年(3)参照。
 ⑸斛律光...字は明月。時に42歳。斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれた。555年(2)参照。
 ⑹魏収...字は伯起。魏書を編纂した。554年(1)参照。
 ⑺段韶...字は孝先。婁太后の姉の子。知勇兼備の将。邙山の戦いで高歓の危機を救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。554年(2)参照。
 ⑻宇文泰...字は黒獺。西魏の実力者。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手も膝まで届いた。556年(2)参照。
 ⑼趙道徳...高家の家奴。東魏の孝静帝が宮廷から去る際、牛車の上からその乗車を助ける無礼を犯した。のち、黎陽郡守の房超に賄賂を要求したが拒絶された。550年(4)参照。
 [1]隴山の西に逃れる準備をした...宇文泰は真偽を見抜ける者である。その彼がどうして、西行の詔一つを受けただけで即座に隴山の西に逃れる準備をしようか! これは北斉の史官が誇張して書いただけのものである。
 [2]五代志曰。後齊制官,多循後魏之舊。尚食、尚藥二局,皆有典御及丞。尚食總知御膳事,尚藥總知御藥事,屬門下省。
 [3]龍逄は夏の桀王を諌めて殺され、比干は殷の紂王を諌めて殺された。

●上昏下清
 帝は外では長城を、内では宮殿を次々と築いたため、官民ともに疲弊した。また、けじめなく賞賜を行なったため、国庫は空っぽとなった。〔その補填のため徴税を厳しく実施した結果、〕天下は騷然とし、人民は非常に苦しみ、大きな不満を抱いた。しかし、帝が厳しい態度で臣下に臨んだことや、記憶力が抜群で〔ごまかしが一切効かなかったことから〕、百官は背筋を正し、不正を働かなかった。
 また、宰相の楊愔が政務を万事上手く処理し、一切滞らせなかった事も大きかった。天保五年(554)以降に帝が暴君と化しても国家が回ったのは、実に愔のおかげであった《北斉34楊愔伝》。故に、当時の人々は密かにこう言った。
「皇帝が狂っても、政治は清らかだ。」

○北史北斉文宣紀
 兼以外築長城,內營臺殿,賞費過度,天下騷然,內外憯憯,各懷怨毒。而素嚴斷臨下,加之默識強記,百僚戰慄,不敢為非。
○隋刑法志
 然帝猶委政輔臣楊遵彥,彌縫其闕,故時議者竊云,主昏於上,政清於下。
○顔氏家訓慕賢
 齊文宣帝即位數年,便沈湎縱恣,略無綱紀;尚能委政尚書令楊遵彥,內外清謐,朝野晏如,各得其所,物無異議,終天保之朝。

●名宰相楊愔
 愔は名門の貴公子で、早くから令名高く、上品な態度と優れた見識によって朝野から尊敬を受けた。若い頃に一家が禍難に遭い、二弟・一妹・兄の孫娘数人だけになってしまったが、〔人情の厚い〕愔は彼らを引き取り、大事に育てた。財貨を軽んじて情義を重んじ、下賜があると大体これを親族に分け与えた。そのため、家には数千巻の本しか蓄えがなかった。従弟姪十数人は愔と共に生活し、愔が帰宅を待ってから食事を摂った。
 愔は若い頃より幾度の艱難に遭った[1]が、栄達すると、〔逃走中に助けてくれた者に対し、〕わずか一飯の恩だったとしても必ず厚く報い、自分を殺そうとした者に対しても罪を一切問わなかった。
 愔は二十余年に渡って人事を司り、人材を抜擢することを己が責務とした。ただ、愔は大体話しぶりや立ち居振る舞いなど、〔上辺の良さを〕登用基準としたため、人々からこう謗られた。
「愔の登用の仕方は、貧乏人の瓜の買い方と一緒だ。大きくて〔上っ面がいい〕物を買うのだ。」
 愔はこの非難を歯牙にもかけなかった。
 愔は記憶力が抜群で、一瞥しただけで顔を覚えた。人を呼ぶ際、ある時は名字だけを、ある時は名前だけを呼んだが、どちらも誤る事が無かった(原文『每有所召,或單稱姓,或單稱名,無有誤者。』)。選人(候補者)の魯漫漢という者は、〔一度愔に会った事があったが、〕自分が卑賤の生まれゆえ、既に忘れられているだろうと思っていた。しかし、愔は漫漢に会うと、こう言った。
「そなたとは以前、元子思坊[2]にて会ったな。そなたは短尾の雌ロバに乗り、私に会っても下馬せず、方麴(大漢和辞典曰く、『扇の類。竹で四角に編み、顔を隠すもの。便面。』)で顔を隠した。その卿をどうして忘れようか!」
 
○方麴
※互動百科より引用

 漫漢は驚いて敬服した。愔はまた、漫漢をからかって言った。
「名は体を表すとか。漫漢(『漫』には『隠れる』という意味がある。『漢』は『男』)の名は伊達ではないな。」
 ある時、愔は部下に〔名簿を与え、〕人の名を呼ばせた。しかし盧士深魏47盧玄伝によれば、開府行参軍になったという)の名が士琛になっていたので、士深がその誤りを告げると、愔はこう〔言い訳して〕言った。
「盧郎は容姿が優れているゆえ(北斉書では『玉潤』、北史では『潤朗(艶があって朗らか)』)、美玉になぞらえたのだ。」

 天子が軒(テラス)に臨んで大臣を任命する際、愔は〔天子に代わって〕任命書を読み上げたが、その言いぶりは上品で、物腰も美しかったため、百官はみな謹んでこれを聞いた。
 愔はまた、大臣の位に登ると、私的な交遊を絶った。太保・平原王の高隆之は愔の屋敷の隣に邸宅を構えていた。ある時、愔は隆之の屋敷の門前に数人の富胡がたむろしている(甘い汁を吸うため?)のを見て、左右の者にこう言った。
「私の門前には、幸いあのような俗物はいない。」
 愔は謙虚な性格で、いつも自分を凡才とみなし、何か命を受けると、いつも自分には荷が重いと考えて心配し、沈痛な面持ちをした《北斉34楊愔伝》

 ⑴一家が禍難に遭い...叛乱を計画したという罪で、爾朱世隆により一門の殆どが皆殺しにされた。531年(4)参照。
 [1]〔531年に〕爾朱氏が楊氏を虐殺した時、愔のみ逃れて高歓を頼ることができた。のち、嘘を信じて田横島に隠れたが、真実を知ると再び高歓のもとに帰った(535年(2)参照)
 ⑵北斉38辛術伝曰く、『楊愔(吏部尚書の在位546~552)は風流で弁舌に優れていたが、表面の華やかさだけを重視する所があった』。552年(3)参照。
 [2]元子思坊...鄴の街の坊(一区画)名。東魏の侍中の元子思がここに居を構えていたため、この名が付けられた。のち(537年9月)、西魏に亡命しようとしたという罪で誅殺された(537年〈2〉参照)。
 ⑶高隆之...字は延興。身長八尺、美鬚髯。高歓に気に入られて義弟とされた。四貴の一人。魏書の監修を任された。死に追い込もうとしたことで崔季舒に怨まれ、子が楊愔の妻と姦通したことで愔に怨まれ、讒言を受けて誅殺された。554年(2)参照。


 556年(4)に続く