[西魏:恭帝三年 北斉:天保七年 梁:紹泰二年→太平元年 後梁:大定二年]


●北斉軍の襲来
 この月(3月、北斉が大都督の蕭軌、都督〔で揚州刺史〕の李希光・〔もと東広州刺史の〕王敬宝・〔南兗州刺史の〕東方老、軍司の裴英起らに数万の兵を与え、梁を討伐させた


 戊戌(23日)、北斉の儀同三司の蕭軌・〔開府・鄭州刺史?の〕厙狄伏連字は仲山)・堯難宗東方老・侍中の裴英起・東広州刺史の独孤辟悪・洛州刺史(揚州刺史?)の李希光らの軍が任約・徐嗣徽⑼・王曄・席臯の軍と合流して十万の大軍となり、柵口[1]より出撃して梁山に向かった。陳覇先(11)は帳内盪主(別将)の黄叢を派してこれを迎え撃った。叢が北斉軍の先鋒を破り、その艦船を焼き払うと、北斉軍は蕪湖に退いた。
 覇先は定州刺史の沈泰(12)と呉郡太守の裴忌(13)侯安都(14)のもとに派し、梁山の防衛を強化した。湓城(江州)を攻めあぐねていた周文育(15)も帰還させ、梁山の守備に充てた。
 夏、4月、丁巳(13日)、覇先が梁山に赴き、諸軍を激励した。

○北斉文宣紀
 三月丁酉,大都督蕭軌等率眾濟江。
○梁敬帝紀
 戊戌,齊遣大將蕭軌出柵口,向梁山,司空陳霸先軍主黃菆逆擊,大破之。軌退保蕪湖。遣周文育、侯安都眾軍,據梁山拒之。夏四月丁巳,司空陳霸先表詣梁山撫巡將帥。
○陳武帝紀
 三月戊戌,齊遣水軍儀同蕭軌、厙狄伏連、堯難宗、東方老、侍中裴英起、東廣州刺史獨孤辟惡、洛州刺史李希光,幷任約、徐嗣徽等,率眾十萬出柵口,向梁山,帳內盪主黃叢逆擊,敗之,燒其前軍船艦,齊頓軍保蕪湖。高祖遣定州刺史沈泰、吳郡太守裴忌就侯安都,共據梁山以禦之。四月丁巳,高祖詣梁山軍巡撫。
○北斉21李希光伝
 顯祖責陳武廢蕭明,命儀同蕭軌率希光、東方老、裴英起、王敬寶步騎數萬伐之。以七年三月渡江,襲剋石頭城。
○陳8周文育伝
 高祖以侯瑱擁據江州,命文育討之,仍除都督南豫州諸軍事、武威將軍、南豫州刺史,率兵襲湓城。未克,徐嗣徽引齊寇渡江據蕪湖,詔徵文育還京。
◯南63徐嗣徽伝
 及石頭敗退,復請兵於齊,與任約、王曄、席臯同心度江。

 ⑴蕭軌...儀同三司。梁の晋州を陥とし、去年の11月に長江北岸に到り、陳覇先を圧迫した。555年(3)参照。
 ⑵王敬宝...王則の弟。東広州刺史。554年(2)参照。
 ⑶東方老...七尺の長身で、怪力の持ち主。南兗州刺史。韓陵の戦い・東関の戦いに参加した。553年(3)参照。
 ⑷裴英起...蕭淵明を江東に護送した。555年(1)参照。
 ⑸大都督の蕭軌ら...北斉21李希光伝では、彼らは『石頭城を陥とした』ことになっている。しかし、梁側の史書にはそのような記述は見当たらない。去年の石頭城攻略と混同したか?
 ⑹戊戌...北斉文宣紀には『丁酉(22日)、長江を渡った』とある。
 ⑺堯難宗…宿豫を包囲した。554年(2)参照。
 ⑻任約...もと侯景の司空。陸法和の取りなしによって死を免れ、天正帝の大破に貢献した。江陵が陥落すると侯瑱と合流して郢州を攻撃した。王僧弁が死ぬと北斉に付いて陳覇先を攻めたが、撃退された。556年(1)参照。
 ⑼徐嗣徽...もと江州刺史の尋陽王大心の部下。もと羅州刺史。軍才があり、王僧弁に重用された。僧弁が死ぬと北斉に付いて陳覇先を攻めたが、撃退された。556年(1)参照。
 [1]柵口...柵江口のことである。今の和州歴陽県の西南百五十里の地にあり、無為軍との境界にある。古の濡須口のことである。
 ⑽王曄…もと侯景配下。劉神茂と共に侯景に叛いた。552年(1)参照。
 (11)陳覇先...字は興国。時に54歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で権力者の王僧弁を攻め殺した。556年(1)参照。
 (12)沈泰...東揚州に割拠していた張彪の司馬。覇先に寝返り、彪を死に追い込んだ。556年(1)参照。
 (13)裴忌...字は無畏。生年521、時に36歳。名将裴邃の兄の孫。幼い頃より聡明で度量があり、史書に通暁していた。陳覇先に仕え、555年に覇先がクーデターを起こして王僧弁を殺害し、僧弁の弟の王僧智が呉郡に挙兵すると、これを奇襲して陥とし、呉郡太守とされた。555年(3)参照。
 (14)侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると建康を守り、覇先が帰還した後は水軍を率いて北斉の兵站を荒らし回った。556年(1)参照。
 (15)周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行なった。556年(1)参照。

●外戚横暴
 乙丑(21日)、北斉の儀同三司の婁叡が魯陽(洛陽の南)の蛮族を討ち、大破した。
 叡は字を仏仁といい、文宣帝の母の婁太后の兄の婁抜の子である。幼くして父を亡くし、叔父の婁昭に引き取られて育てられた。若年の頃より弓や馬を好み、軍事の才能があった。文宣帝の父の高歓の帳内都督となり、掖県子に封じられ、光州刺史にまで昇進した。しかし在任中汚職の限りを尽くしたため、文宣帝の兄の高澄に厳しく叱責された。のちに爵位を九門県公に改められた。文宣帝が即位すると領軍将軍とされ、別に安定侯に封じられた。叡はこれといった才能が無かった(軍事の才能は?)が、外戚ということで富貴を得、財貨や女色をほしいままにした。


 丁卯(23日)、北斉が金華殿の造営を開始した。

 壬申(28日)、〔梁山を守備していた〕侯安都が軽兵を率いて歴陽を奇襲し、北斉の行台の司馬恭の軍を大破し、万を数える捕虜を得た。

○北斉文宣紀
 夏四月乙丑,儀同婁叡率眾討魯陽蠻,大破之。丁卯【[一三]諸本「丁卯」都作「丁亥」,北史卷七作「丁卯」。按天保七年五五六四月有丁卯,無丁亥,今據改】,詔造金華殿。
○梁敬帝紀
 壬申,侯安都輕兵襲齊行臺司馬恭於歷陽,大破之,俘獲萬計。
○北斉15・48婁叡伝
 昭(武明皇后)兄子叡。叡字佛仁,父拔,魏南部尚書。叡幼孤,被叔父昭所養。〔叡少好弓馬,有武幹,〕為神武帳內都督,封掖縣子,〔從破尒朱於韓陵,〕累遷光州刺史。在任貪縱,深為文襄所責。後改封九門縣公。齊受禪,得除領軍將軍,別封安定侯。叡無他器幹,以外戚貴幸,縱情財色。〔為時論所鄙。〕為瀛州刺史,聚斂無厭。

 ⑴文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に31歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。555年(3)参照。
 ⑵婁昭...字は菩薩。高歓の正室の同母弟。正直な性格で度量が大きく、優れた智謀を有していた。腰回りは八尺もあり、弓と馬の扱いは抜群のものがあった。早くから高歓の才能を見抜き、歓の雄飛に貢献した。548年(2)参照。
 ⑶高歓...字は賀六渾。爾朱栄横死後の混乱に乗じて華北東部を制圧し、東魏を建国した英雄。
 ⑷高澄...字は子恵。高歓の長子。女好きの美男子。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。
 ⑸司馬恭...歴陽にて覇先と盟約を交わした。555年(2)参照。
 
●封鎖突破
 これより前、周文育は都督南豫州諸軍事・厳威将軍(九階)・南豫州刺史に任じられ、湓城(江州)を攻撃していた。しかし苦戦している内に徐嗣徽が北斉軍を引き連れて長江を渡り、蕪湖を占拠すると、やむなく建康(梁山?)への帰還の途についた。
 徐嗣徽らは〔文育が帰ってきたのを知ると、〕青墩に艦船を並べて七磯に進み、その進路を塞いだ(詳細な時期は不明)。夕方、文育軍は太鼓を叩き、閧の声を上げて〔これを突破した〕。嗣徽らはこれを抑えることができなかった。
 翌朝、文育は嗣徽軍に攻撃をかけた。〔嗣徽軍が逃走すると、〕嗣徽配下の勇将である鮑砰はたった一隻の小艦でその殿軍を務めた。文育は一艘の小船に乗ってこれに攻撃を仕掛け、砰の艦中に飛び移って砰を斬り、艦を拿捕して帰った。梁水軍の強さに恐れをなした嗣徽は〔水戦を諦め〕、船を蕪湖に留め、歩いて丹楊に向かうことにした。

○陳8周文育伝
 高祖以侯瑱擁據江州,命文育討之,仍除都督南豫州諸軍事、武威將軍、南豫州刺史,率兵襲湓城。未克,徐嗣徽引齊寇渡江據蕪湖,詔徵文育還京。嗣徽等列艦於青墩,至於七磯,以斷文育歸路。及夕,文育鼓噪而發,嗣徽等不能制。至旦,反攻嗣徽,嗣徽驍將鮑砰獨以小艦殿軍,文育乘單舴艋與戰,跳入艦,斬砰,仍牽其艦而還。賊眾大駭,因留船蕪湖,自丹陽步上。

 ⑴青墩...《読史方輿紀要》曰く、『青墩は青堆沙ともいい、太平府(蕪湖県の東北六十五里の地にある)の西南二十里にある。《志》曰く、蕪湖県の南に青墩河、或いは青墩沙がある。』
 ⑵七磯...明地理志曰く、『蕪湖の西北にある』。《読史方輿紀要》曰く、『蕪湖県の西北十五里の地にある。

●宇文泰、北方に向かう
 この月宇文泰が北方の巡視に赴いた《周文帝紀》。また、世子の宇文覚を大将軍とした《周孝閔紀》
 この年宇文毓を大将軍とし、隴右の鎮守をさせた《周明帝紀》
 この時、〔開府儀同三司・尚書右僕射の〕韋孝寬に再び玉壁を守備させた。

○周31韋孝寬伝
 三年,周文北巡,命孝寬還鎮玉壁。

 ⑴宇文泰...字は黒獺。西魏の実力者。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手も膝まで届いた。556年(1)参照。
 ⑵宇文覚...字は陀羅尼。宇文泰の第三子。時に15歳。
 ⑶宇文毓...宇文泰の長子。時に23歳。
 ⑷韋孝寬...本名叔裕。時に48歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。554年(3)参照。
 
●淵明の死
 5月、北斉が梁に使者を派し、建安公淵明を渡せば軍を返すことを約束した。覇先は船を用意して淵明を北斉軍のもとに送ろうとした。
 淵明はこのとき背中に悪性の腫瘍を患っていた。
 癸未(9日)、腫瘍が潰れて死んだ。

◯資治通鑑
 五月,齊人召建安公淵明,詐許退師。陳霸先具舟送之。
◯梁敬帝紀
 五月癸未,太傅建安公淵明薨。
◯北斉33蕭明伝
 明年,詔徵明。霸先猶稱藩,將遣使送明,會明疽發背死。

 ⑴建安公淵明...もと貞陽侯淵明、天成帝。547年、梁の北伐の総指揮官として東魏と戦ったが、大敗を喫して捕虜となった。のち、北斉に傀儡として擁立され、梁に送られて皇帝となったが、これに反発した覇先に退位させられた。555年(2)参照。

●北斉軍、陸路より建康に迫る
 甲申(5月10日)、北斉軍が蕪湖を発った。
 庚寅(16日)、丹楊県[1]に到った。
 丙申(22日)、秣稜故治に到った。覇先は周文育に方山(秣稜故治の東北)を、徐度に馬牧(秣稜故治の北)を、杜稜に朱雀大航の南をそれぞれ守備させた。

 この日、北斉の漢陽王洽が死んだ(享年15
 この月文宣帝が肉食を慈愛のない行為だと考え、以後二度と口にしなくなった。

 己亥(25日)、覇先が宗室王侯および文武百官を引き連れて大司馬門(台城の南門)外にある白虎楼の下において生贄を殺し、北斉が盟約に背いたことを訴えた。覇先は感情を大いに昂ぶらせ、満面に涙を流した。人々はこれに感じて〔涙を流し、〕顔を上げることができなかった。兵士たちはますます闘志を奮い立たせた。

 辛丑(27日)、北斉軍が夜陰に紛れて秦淮河に橋を架け、河を渡って方山に到った。
 覇先は侯安都・周文育・徐度らを建康に呼び戻した。

○北斉文宣紀
 五月丙申,漢陽王洽薨。是月,帝以肉為斷慈,遂不復食。
◯梁敬帝紀
 庚寅,齊軍水步入丹陽縣。丙申,至秣陵故治。敕周文育還頓方丘,徐度頓馬牧,杜稜頓大桁。
◯陳武帝紀
 五月甲申,齊兵發自蕪湖,景申,至秣陵故治。高祖遣周文育屯方山,徐度頓馬牧,杜稜頓大航南。己亥,高祖率宗室王侯及朝臣將帥,於大司馬門外白獸闕下刑牲告天,以齊人背約,發言慷慨,涕泗交流,同盟皆莫能仰視,士卒觀者益奮。辛丑,齊軍於秣陵故縣跨淮立橋柵,引渡兵馬。其夜至方山。侯安都、周文育、徐度等各引還京師。

 [1]丹楊県...今の太平州(南豫州)の東北にある。
 ⑴徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好み、いつも召し使いに肉や酒の商いをさせた。始興の諸山洞を討って以降、驍勇なことで世に知られるようになり、覇先から丁重な招きを受けてその配下となった。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。555年(3)参照。
 ⑵杜稜...字は雄盛。呉郡の名家の生まれで、非常な読書好きだったが、幼い頃に家が没落した。覇先に従って書記となり、侯景の乱が起こると将軍とされた。覇先から王僧弁を討つ計画を打ち明けられると難色を示し、漏洩を危惧されて首を絞められ気絶した。552年(3)参照。
 ⑶漢陽王洽...字は敬延。高歓の第十五子。母は馮氏。550年(3)参照。
 ⑷漢陽王洽の死...北斉10漢陽王洽伝では天保五年(554)に13歳で亡くなっている。今は北斉文宣紀の記述に従った。
 
●北斉の遊騎、建康城下に到る
 癸卯(29日)、北斉軍が方山より倪塘[1]⑴に進んだ。その偵察の騎兵は建康周辺にまで到った。建康城内は大騒ぎとなった。覇先は周文育・侯安都を白土崗(建康の東)に派してこれと対峙させた。
 この時、覇先は密かに精卒三千を前線から引き抜いて沈泰に与え、長江を渡って瓜歩(建康の東北)にいる北斉の行台の趙彦深を奇襲させ、艦船百余艘と陳粟(古米)一万斛を奪取した。

 敬帝は禁兵を率いて長楽寺(建康の南にあるに駐屯し、戒厳令を発した。

 侯安都は建康に帰ると、高橋(建康の東南。方山の北)にて北斉軍を防いだ。また、耕壇(建康の東)の南にて十二騎を率いて敵陣を破り、儀同の乞伏無労[2]を捕らえた。更に東方老を刺して落馬させたが、ちょうど北斉の騎兵がやってきたため取り逃がした。

◯梁敬帝紀
 癸卯,齊軍進據兒塘,輿駕出頓趙建故籬門,內外纂嚴。
◯陳武帝紀
 癸卯,齊兵自方山進及兒塘,游騎至臺。周文育、侯安都頓白土崗,旗鼓相望,都邑震駭。高祖潛撤精卒三千配沈泰,渡江襲齊行臺趙彥深於瓜步,獲舟艦百餘艘,陳粟萬斛。爾日天子總羽林禁兵,頓于長樂寺。
陳8侯安都伝
 明年春,詔安都率兵鎮梁山,以備齊。徐嗣徽等復入丹陽,至湖熟,高祖追安都還,率馬步拒之於高橋。又戰於耕壇南,安都率十二騎,突其陣,破之,生擒齊儀同乞伏無勞。又刺齊將東方老墮馬,會賊騎至,救老獲免。
◯陳12徐度伝
 明年,嗣徽等又引齊寇濟江,度隨眾軍破之於北郊壇。

 [1]倪塘...建康の東にある。
 ⑴《読史方輿紀要》曰く、『倪塘は上元県(建康北部)の東南二十五里にある。《金陵記》曰く、建康は西に石頭、東に倪塘、南に石子岡、北に蔣山があり、おのおの四十里の距離がある。
 ⑵趙彦深…本名隠。東魏の名臣の陳元康と共に機密を担当し、『陳・趙』と並び称された。潁川包囲戦では王思政の説得に当たった。高澄死後も文宣帝に重用を受け、依然として機密を司った。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。555年(3)参照。
 ⑶敬帝...蕭方智。元帝の第九子。時に14歳。陳覇先に擁立されて皇帝となった。555年(3)参照。
 ⑷長楽寺...梁敬帝紀には『趙建故籬門に駐屯した』とある。
 [2]乞伏無労...考異曰く、『南史には「乞伏無芳」とある。今は陳書の記述に従った。

●龍尾の戦い
 6月、甲辰(1日)、北斉軍(嗣徽軍?)が潜行して鍾山の龍尾[1]に到った。周文育がこれと戦うことを求めると陳覇先はこう言った。
「兵法では向かい風での戦いを禁じている。」
 すると文育は言った。
「事態は切迫しております! 勝負はここで決すべきです。なりふり構ってなどいられません!」
 かくて槊を手に乗馬し、敵陣に突き進んだ。覇先軍がこれに続くと、やがて風は追い風に変わり、数百人を殺傷することに成功した。嗣徽軍は幕府山に陣地を移した。
 この時、侯安都は従弟の侯曉生年522、時に35歳)と軍主の張纂王敬宝の陣を襲撃させた。交戦の結果、纂は戦死し、曉は槍を受けて落馬した。〔この報を聞くと、〕安都は戦場に急行して曉を救出し、十一騎を斬って纂の遺体を回収した。それから帰還したが、北斉軍はこれに追撃をかけなかった。

○梁敬帝紀
 六月甲辰,齊潛軍至蔣山龍尾。
○陳8周文育伝・南66周文育伝・三国典略53
〔齊師伐梁,大至於鐘山龍尾。周文育請戰,〕將戰,風急,高祖曰:「兵(矢)不逆風。」文育曰:「事急矣,當決之,何用古法。」抽槊上馬,馳而進,眾軍從之,風亦尋轉,殺傷數百人。嗣徽等移營莫府山,文育徙頓對之。
○陳8侯安都伝
 賊北渡蔣山,安都又與齊將王敬寶戰於龍尾,使從弟曉、軍主張纂前犯其陣。曉被槍墜馬,張纂死之。安都馳往救曉,斬其騎士十一人,因取纂尸而還,齊軍不敢逼。

 [1]龍尾...山道は起伏があって曲がりくねって見える。ゆえに龍尾と言うのである。
 ⑴文育がこれと戦うことを求めると...典略53では北斉の軍が鍾山の龍尾に到った時の事とし、文育伝では覇先が嗣徽と白城(胡三省曰く、湖熟故県界にある。《志》曰く、応天府の東北三十里に白山があり、南にて鐘山と接する。白城はここにあるのであろう)にて対峙していた時の事とする。今は典略の記述に従った。
 ⑵十一騎...南史では『十二騎』。

●両軍共に疲弊す
 丁未(6月4日)、北斉軍(嗣徽軍?)が迂回路を取り、幕府山の北に到った。
 覇先の別将の銭明率いる水軍が江乗(建康と京口の中間にあるにて北斉の兵糧船を襲い、その糧秣を全て奪取した。北斉軍は〔これにより〕兵糧に不安が生じ、馬や驢馬を殺して食べるようになった。
 庚戌(7日)、北斉軍(本隊?)が鍾山を越えた。覇先は楽遊苑の東と覆舟山の北に兵を派してその進路を遮断した。
 壬子(9日)、北斉軍(嗣徽軍?)が玄武湖の西北・幕府山の南に到り、北郊壇を占拠しようとした。覇先は覆舟山の東から北郊壇の北に陣を移し、北斉軍と相対した。
 この日の夜、暴風が吹き荒れ、雷鳴と共に大雨が降り、平地の水かさは一丈余りにも到った。北斉兵は終日泥中に過ごしたため、足の指はみな爛れた。また、釜も高所に釣り上げて煮炊きをした。一方、〔比較的地勢が高かった〕城内及び潮溝[1]以北は水に浸からなかったため、覇先軍は兵の交代を円滑に行なえ〔、思う存分休息を取れた〕。

 この時、覇先軍は北斉軍の包囲によって地方との交通を遮断されていたため、建康の物資を頼りにするしかなかった。しかし、建康は連年の戦禍によって荒廃し、人口が減少していたので、住民から得られるものも限られていた。覇先の兵士たちはたまに麦米の餅を支給される以外は、麦のくずを葉っぱにくるんだものを食べて飢えをしのいでいた。
 甲寅(11日)、やや雨が落ち着いた。〔決戦を急いでいた〕覇先は〔この機を逃さず戦いを始めようとした。〕その時、たまたま陳蒨から米三千石と鴨千羽が送られてきた。覇先は直ちに建康令の孔奐に命じ、麦飯の上に鴨肉を数切れ載せ、それを葉っぱでくるんだものを作らせた。包みは一晩の内に数万個できあがり、兵士たちに分け与えられた。

◯梁敬帝紀
 斜趨莫府山北,至玄武湖西北。
◯陳武帝紀・南史陳武帝紀
 丁未,進至莫府山。高祖遣錢明領水軍出江乘,要擊齊人糧運,盡獲其船米,齊軍於是大餒,殺馬驢而食之。庚戌,齊軍踰鍾山,高祖眾軍分頓樂遊苑東及覆舟山北,斷其衝要。壬子,齊軍至玄武湖西北莫府山南,將據北郊壇。眾軍自覆舟東移,頓郊壇北,與齊人相對。其夜大雨震電,暴風拔木,平地水丈餘,齊軍晝夜坐立泥中,懸鬲以爨,〔足指皆爛。〕而臺中及潮溝北水退路燥,官軍每得番易。甲寅,少霽,〔是時食盡,調市人餽軍,皆是麥屑為飯,以荷葉裹而分給,間以麥䬳,兵士皆困。會文帝遣送米三千石,鴨千頭,帝即炊米煑鴨,誓申一戰。士及防身,計糧數臠,人人裹飯,婫以鴨肉。
陳21孔奐伝
 高祖作相,除司徒右長史,遷給事黃門侍郎。齊遣東方老、蕭軌等來寇,軍至後湖,都邑搔擾,又四方壅隔,粮運不繼,三軍取給,唯在京師,乃除奐為貞威將軍、建康令。時累歲兵荒,戶口流散,勍敵忽至,徵求無所,高祖剋日決戰,乃令奐多營麥飯,以荷葉裹之,一宿之閒,得數萬裹。

 ⑴江乗...典略80には『江寧浦』とある。北斉軍の位置的に江乗が正しいか?
 北斉の兵糧船...北斉軍が北に大回りの軌道をとったのは、覇先の補給線を断つという理由の他に、兵糧船と合流するという理由もあったのかもしれない。
 ⑶大雨が降り...通鑑は『連日大雨が降り』とする。北斉21李希光伝は『五十余日に渡る長雨が降り』とある。
 [1]潮溝...呉の孫権が開削したもの。
 ⑷陳蒨...字は子華。覇先の兄の陳道談の長子。幼少の頃より沈着明晰で、優れた見識と度量を有した。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派で、どんな時でも必ず礼法に遵じた行ないをした。覇先が王僧弁の討伐に赴くと、長城県の守備を任され、杜龕軍の攻撃を数旬に渡って凌いだ。のち、東方の制圧に成功した。556年(1)参照。
 ⑸孔奐...字は休文。生年514、時に43歳。生真面目な性格。博覧強記で、文才があった。侯景が建康を陥とすとその重臣の侯子鑑に仕え、多くの住民を兵の乱暴から救った。侯景が滅ぶと揚州刺史とされ、陳覇先が実権を握ると司徒右長史・給事黄門侍郎とされた。

●幕府山南(鍾山西)の決戦

 乙卯(6月12日)、未明、陳覇先は兵馬に食事をとらせ、残った包みは全て廃棄した。夜明け前、覇先は麾下の兵を率いて幕府山の南に向かった。
 侯安都は部将の蕭摩訶にこう言った。
「そなたの驍勇ぶりは天下に轟いておるが、千聞は一見に如かずとか。〔実際はどうかな?〕」
 摩訶は答えて言った。
「今よりご覧に入れましょう。」
 覇先は呉明徹沈泰ら諸軍と共に一斉に北斉軍に攻撃を仕掛け、大会戦を繰り広げた。安都は白下に迂回し、そこから北斉軍の後軍の側面を突いた。激戦の最中、安都は落馬し、北斉兵に包囲された。摩訶はこれを見るや絶叫して単騎北斉軍の中に突入し、北斉兵を蹴散らした。安都は〔再び馬に乗り、態勢を立て直して北斉軍に攻撃を仕掛けた〕。
 北斉軍は総崩れとなり、逃げる味方に踏まれて死んだ者は数知れなかった。覇先は数千の首級と捕虜を得た。徐嗣徽は敗走の途中落馬して捕らえられ、兄を助けようとした徐嗣宗も捕らえられた。また、北兗州刺史の杜方慶も捕らえられた。覇先は彼らを斬首して見せしめとした。
 覇先軍は逃げる北斉軍を追って臨沂にまで到った。安都は摂山(建康と江乗の中間にある山)にまで到った。梁軍は江乗・鍾山などでも勝利を挙げ、蕭軌・東方老・王敬宝・李希光・裴英起・王僧智・徐嗣産嗣徽・嗣宗の弟・劉帰義ら四十六名の将軍を捕虜とした。
 なんとか長江に辿り着いた北斉兵は荻を縛って筏を作り、渡河を試みたが、筏は中途にて沈没し、〔多くの者が〕溺死した。遺体は漂流して京口に到り、岸辺に満ち満ちた。逃れられた北斉の将軍はただ任約王僧愔王曄たちだけだった。

 蕭軌らの大敗の報が伝わると、行台の司馬恭は歴陽から直ちに寿春(寿陽、揚州)に逃げ帰った。北斉の合州(合肥)も大いに動揺した。
 このとき、合州に有った兵器は遠征に使われてほぼ無くなっており、防衛設備も多くが損壊していた。当時着任したばかりだった刺史の封子絵は、そこで手早く防衛設備や兵器を整え、防備を完璧にした。すると州の人心は次第に落ち着きを取り戻した。

○北斉文宣紀
 六月乙卯,蕭軌等與梁師戰於鍾山之西,遇霖雨,失利,軌及都督李希光、王敬寶、東方老、軍司裴英起並沒。
◯梁敬帝紀
 乙卯,司空陳霸先授眾軍節度,與齊軍交戰,大破之,斬齊北兗州刺史杜方慶及徐嗣徽、弟嗣宗,生擒徐嗣彥、蕭軌、東方老、王敬寶、李希光、裴英起、劉歸義等,皆誅之。
◯陳武帝紀・南史陳武帝紀
 高祖命眾軍秣馬蓐食,遲明攻之。乙卯旦,自率帳內麾下出莫府山南,吳明徹、沈泰等眾軍首尾齊舉,縱兵大戰,侯安都自白下引兵橫出其後,齊師大潰,斬獲數千人,相蹂藉而死者不可勝計,生執徐嗣徽及其弟嗣宗,斬之以徇。追奔至于臨沂。其江乘、攝山、鍾山等諸軍相次克捷,虜蕭軌、東方老、王敬寶、李希光、裴英起〔、王僧智〕等將帥凡四十六人。其軍士得竄至江者,縛荻筏以濟,中江而溺,流屍至京口,翳水彌岸。〔惟任約、王僧愔獲免。
◯北斉20王敬宝伝
 則弟敬寶,少歷顯位。後為東廣州刺史,與蕭軌等攻建業,不克,沒焉。
◯北斉21東方老伝
 遷南兗州刺史。後與蕭軌等渡江,戰沒。
◯北斉21李希光伝
 天保中,揚州刺史,與蕭軌等渡江,戰沒。贈開府儀同三司、西兗州刺史。
◯北斉21裴英起伝
 天保中,都官尚書,兼侍中,及戰沒,贈開府、尚書左僕射。
北斉21封子絵伝
 七年,改授合州刺史。到州未幾,值蕭軌、裴英起等江東敗沒,行臺司馬恭發歷陽,徑還壽春,疆埸大駭。兼在州器械,隨軍略盡,城隍樓雉,虧壞者多。子繪乃修造城隍樓雉,繕治軍器,守禦所須畢備,人情漸安。
◯陳8侯安都伝
 高祖與齊軍戰於莫府山,命安都領步騎千餘人,自白下橫擊其後,齊軍大敗。安都又率所部追至攝山,俘獲首虜,不可勝計。
陳21孔奐伝
 軍人旦食訖,弃其餘,因而決戰,遂大破賊。
◯陳31蕭摩訶伝
 及任約、徐嗣徽引齊兵為寇,高祖遣安都北拒齊軍於鍾山龍尾及北郊壇。安都謂摩訶曰:「卿驍勇有名,千聞不如一見。」摩訶對曰:「今日令公見矣。」及戰,安都墜馬被圍,摩訶獨騎大呼,直衝齊軍,齊軍披靡,因稍解去,安都乃免。
◯南63徐嗣徽伝
 及石頭敗退,復請兵於齊,與任約、王曄、席臯同心度江。及戰敗,嗣徽墮馬,嗣宗援兄見害。…任約、王曄得北歸。

 ⑴蕭摩訶...字は元胤。生年532、時に25歳。もと群雄の蔡路養の配下。陳覇先が路養と戦った際、単騎で覇先軍に突撃し、大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、侯安都の配下とされた。550年(1)参照。
 ⑵呉明徹...字は通炤。時に45歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。554年(3)参照。
 ⑶白下...《読史方輿紀要》曰く、『白下城は応天府の治所の北十四里の地にある。
 ⑷臨沂...『臨沂郡は上元県の西北三十八里にある。南斉の時に白下を治所とした。《志》曰く、郡城は独石山の北にあり、長江に接する。
 ⑸王僧智...王僧弁の弟。呉郡太守。僧弁が殺されると覇先に抵抗したが、敗れると杜龕のもとに逃れ、杜龕が敗れると北斉に亡命した。556年(1)参照。
 ⑹劉帰義...もと侯景配下。劉神茂と共に侯景に叛いた。552年(1)参照。
 ⑺王僧愔...王僧弁の弟。もと豫章太守。556年(1)参照。
 ⑻封子絵...字は仲藻。高歓の挙兵に大きく貢献した封隆之の子。気遣いが上手く、器量があった。邙山の戦いで勝利した際、長安まで攻め込むことを主張したが聞き入れられなかった。高歓の臨終の際、山東の巡撫を託された。

●北斉軍の敗因
 北斉の大都督の蕭軌、都督の李希光・王敬宝・東方老、軍司の裴英起ら五将軍は名声も官位も同等であったため、誰も言うことに従わず、思い思いの作戦を計画した。そのため、行動を起こすと必ず食い違いが起こった。また、丹陽(建康?)城下に駐屯していた時、五十余日()に渡る長雨に遭ったため、戦いの前に兵器が全て駄目になってしまっていた。このため、北斉軍は大敗を喫したのである。北斉領に戻ってこれた兵士たちは二・三割にしか満たず、失った軍需品は数知れなかった。

○北斉文宣紀
 士卒散還者十二三。
◯北斉21李希光伝
 五將名位相侔,英起以侍中為軍司,蕭軌與希光並為都督,軍中抗禮,不相服御,競說謀略,動必乖張。頓軍丹陽城下,值霖雨五十餘日,及戰,兵器並不堪施用,故致敗亡。將帥俱死,士卒得還者十二三,所沒器械軍資不可勝紀。蕭軌、王敬寶事行,史闕其傳。

●斬首と報復
 丁巳(6月14日)、梁軍が南洲(姑孰の近西にある小島)にあった北斉の艦船を焼き払った(逃走防止のため?)。
 戊午(15日)、大赦を行なった。また、自軍の戦死者を集めて祭り、家族がいない者があれば、代わりに埋葬した。
 己未(16日)劉帰義・徐嗣産・傅野猪)を建康の市場にて斬首した。このとき、嗣産は全く屈する様子を見せず、堂々と処刑された。
 また、戒厳令を解いた。また、捕虜を連れてきた兵士に対し、一人の捕虜につき一杯の酒を与えた。これより前、このような歌が流行っていた。
「虜万夫、五湖(江東)に入り、城南の酒家、虜を奴とせしむ。」
 北斉は領地と牛馬と引き換えに、蕭軌・東方老・王敬宝・李希光・裴英起らの返還を求めた。
 庚申(17日)、覇先はこれを拒否し、彼らをみな斬首した。北斉はこれを聞くと、〔去年人質に取っていた〕陳曇朗を晋陽にて殺害した(享年28)。
 この日、覇先が南徐州刺史を辞職し、侯安都を代わりに刺史とした。

◯梁敬帝紀
 戊午,大赦天下,軍士身殞戰塲,悉遣斂祭,其無家屬,即為瘞埋。辛酉,解嚴。
◯陳武帝紀・南史陳武帝紀
先是童謠云:「虜萬夫,入五湖,城南酒家使虜奴。」自晉、宋以後,經絓在魏境江、淮以北,南人皆謂為虜,于時以賞俘貿酒者,一人裁得一醉。〕丁巳,眾軍出南州,燒賊舟艦。己未,斬劉歸義、徐嗣彥、傅野猪于建康市。是日解嚴。庚申,蕭軌、東方老、王敬寶、李希光、裴英起皆伏誅。高祖表解南徐州以授侯安都。
陳14陳曇朗伝
 齊果背約,復遣蕭軌等隨嗣徽渡江,高祖與戰,大破之,虜蕭軌、東方老等。齊人請割地幷入馬牛以贖之,高祖不許。及軌等誅,齊人亦害曇朗于晉陽,時年二十八。是時既與齊絕,弗之知也。
◯南63徐嗣徽伝
 嗣產為陳武軍所禽,辭色不撓而死。任約、王曄得北歸。

 ⑴己未...敬帝紀には辛酉(18日)とある。今は通鑑の判断に従った。
 ⑵陳曇朗...覇先の同母弟の陳休先の子。幼い頃に父が亡くなると覇先に引き取られ、溺愛を受けた。胆力があり、兵の統率を得意とした。東方光が宿豫にて北斉に叛き、梁に付くとその救援に赴いた。去年、覇先が王僧弁を討ちに赴くと京口の留守を任された。のち、人質として北斉に送られた。555年(3)参照。


 556年(2)に続く