今月初め、京都市役所近くにある本能寺にて信長忌があったことをお伝えいたしましたが、元々の本能寺にも行って参りました。
蛸薬師通の北側、西に油小路通、東が西洞院通。この一帯が織田信長最後の地として知られる旧本能寺になります。
現在は閑静な住宅街となっておりますが、平成19(2007)年に行われたマンション建設に伴う発掘調査で、本能寺の堀と石垣の跡が初めて出土し、堀跡から出土した瓦の中には火災の高熱で赤くなったものや、本能寺の「能(異体字で、つくりが「ヒヒ」ではなく「去」になっている)」の字が書かれた軒瓦が出土したといいます。
それまで旧本能寺については記録が乏しくその姿がよく分かっていなかったといいますので、これは当時大ニュースになりましたね‼
現在はTVや雑誌などで城の惣構えのようなつくりだったという旧本能寺の姿がCGで再現されているのをよく見かけますが、この時の発掘調査を基にしているみたいです。
安土城の大手門も発掘調査でその姿が浮き彫りになりましたが、信長がらみの遺構はこう、土の中がその栄華を物語っているパターンが多く、だからこそロマンを掻き立てるんでしょうね(´・ω・`)
彼の人気も頷けます。
またすぐ近くには、信長の息子・信雄の屋敷跡もありました。
付近からは本能寺の存続期間と一致する建物跡や、堀跡が続々と見つかっているみたいなので、今後の新発見に期待したいですね‼
さて、場所を移して今度は信長を祀る建勲神社へ‼
国指定史跡・船岡山に鎮座する建勲神社は明治3(1870)年、明治天皇の命により、はじめ織田家の旧領地であった山形県天童市に創建されました。
明治8(1875)年には別格官幣社となり、明治43(1910)年に本殿以下の建造物を現在地に移設したといいます。
この船岡山は秀吉がかつて信長供養の為の寺を建立する予定だったみたいですが、計画は頓挫し、以後信長の霊地として大切に保護され、明治維新を迎えたといいます。
寺ではありませんが、300年近く経ってようやく形に出来たわけですね・・・。
境内を入ってすぐのところに、信長が好んだ「敦盛」の一節、「人間五十年~」の石碑が立っております。
・・・「人間五十年」も好きですが、私はこれもまた信長が好んだ小唄の一節である「死のふは一定~」が本ッ当に好きです。
死のふは 一定
しのび草には 何をしようぞ
一定語り をこすよの
(人は必ず死ぬ。自分の死後にも語り継がれるためには何をしようか。後世の人々が語り継いでいってくれるような事を成し遂げようではないか)
これを知ったのは大河ドラマ『利家とまつ』の時だったのですが、当時中学生だった私は意味を知ったとき本当にグッと来て、以降辛い事苦しいことがあったとき、自分を奮い立たせるための言葉として、胸に刻んでおります。
「人間五十年」も「死のふは一定」も、死生観をうたったものですが、当時は戦乱の世。常に死と隣り合わせだったからこそ重みのある一節だと思います。
しかし、どこか現代にも通じるものがあります。
人生は一度きり。一度きりだからこそ最期に「生きた」と言える何かを成し遂げたい。
これはいつの時代も同じかと。
現代社会も「何が起きるか分からない」と言われる時代に直面しておりますが、どんなことがあろうとも、明日を生きる“勇気”を持ちたいものです。ホント。
さて、気を取り直して手水舎へ。
手水鉢には織田家の家紋である「織田木瓜」が彫られておりました‼
入母屋造妻入檜皮葺の拝殿。
内側には織田信長公三十六功臣のうち、十八功臣の額が飾られております。
その奥には、切妻造妻入檜皮葺の神門が。
そしてこのさらに奥に本殿があります。
「しのび草にも何をしようぞ」
大事とまでは言いませんが、これは本当死ぬまで自分に問いかけていきたいですね・・・。
参拝の後社務所にて御朱印を頂いたのですが、ここの御朱印がまたカッコイイ‼
こちらには「天下布武」の印判が押されております(*'ω'*)
見開きパターンもあります‼
信長の花押入りでファンにたまりません。
それから・・・まさかの・・・(笑)
現在福岡市博物館が所蔵する国宝へし切り長谷部。
元々は信長の愛刀だったことで知られており、それにちなんでこちらでオリジナル御朱印を授与していただけます。
へし切り長谷部・・・福岡の短大に通っていたとき、福岡市博物館の特別展でたまたまお目にかかったんだよな・・・(笑)
まさか数年後大ブームが巻き起こるとかこの時は思わなんだ・・・
それにしても右下にちゃっかり「主命」の印が押されているの思わず笑いました←
ちなみにこの建勲神社は重要文化財の「義元(宗三)左文字」を所有しており、これまた刀剣女子の聖地となっているみたいです(`・ω・´)キリッ
信長ゆかりの地はこの他にもまだまだ沢山あるので、また追々巡って参りたいですね‼