不世出の名人、21世本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい、64才)は、1938年(昭和13年)、自らの健康と時代の流れを読み取り引退を決意し、名人引退碁で、木谷実(きたにみのる、29才)七段(のち九段)と対局しました。

 

  この碁は、観戦記を担当した川端康成(かわばたやすなり、39才)の名作、名人(木谷実七段は大竹七段として登場)として、1954年(昭和29年)に完成しています。

 

 

小説、名人(川端康成著、google画像)

 

Master1

 

名人引退碁対局(左 木谷実七段、 右 本因坊秀哉名人、google画像)

 

 川端康成、1899年(明治32年)~1972年(昭和47年)、の観戦記は、呉清源、1914年(大正3年)~の解説をもとに、対局光景や勝負師の表情、動作、心理などを流麗な筆致で活写し、それは観戦記というより一個の文学作品であった。

 

 観戦記の書き出しは、棋史を飾るこの日、降り続く梅雨も雷(は)れ間を見せて、青空に渋い夏雲が浮かんでいた。芝公園の紅葉館の庭は、緑が雨に洗われて、蘆(あし)の葉ずれのかすかに聞こえる微風である。対局室は、なんとなく明治が思われるような寂(さ)びのついた二階。十八畳に十五畳の次の間。襖(ふすま)から欄間(らんま)の模様まで紅葉づくめ、一階には光淋(こうりん)描くあでやかな紅葉の金屏風ー稚児髷(ちごまげ)の少女が、白い花簪(はなかんざし)して茶を入れる。名人の白扇が、氷水のコップを載せた黒塗りの盆に写って動く静かさ。観戦は私一人だけだ。

 

 小説、名人の書き出しは、第二十一世本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海(あたみ)のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。この一月十八日の命日は、熱海では覚えやすい。「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の熱海海岸の場、貫一のあのせりふの「今月今夜の月」の日を記念して、一月十七日を熱海では紅葉祭という。秀哉名人の命日は、その紅葉祭の翌日にあたる。

 

 本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい、本名、田村保寿)は、1874年(明治7年)、東京で生まれ、10才で方円社に入社、9年後に初段、19才で一時、方円社を離れ、17世本因坊秀栄の門に入り、1891年(明治24年)に四段を許されました。1908年(明治41年)、20世本因坊秀元の推挙により21世本因坊を襲名、名を秀哉と改め、八段に昇進、1914年(大正3年)、史上8人目の名人となりました。 

 

 名人引退碁は、東京日日新聞、大阪毎日新聞主催で、1938年(昭和13年)、6月26日、紅葉館(芝公園、東京)より打ち始め(2回打ち継ぐ)、7月11日より奈良屋(箱根)に移り、8月14日までの前半戦(8回打ち継ぐ)は、8月に入って名人が病気のため聖路加病院に入院して中断(白100のツギ、封じ手)となりました。加療約三ヵ月間の後、後半戦は、11月18日より暖香園(伊藤温泉、伊豆)で再開され、12月14日の終局まで(5回打ち継ぐ)、実に7ヵ月間に及ぶ長期対局となりました。結果は、木谷実七段5目勝で終わりました。

 

本因坊秀哉名人引退碁(先番 木谷実七段)

 

(解説) 前半戦は、黒11のノゾキに白12と押し上げ、名人の気迫が感じられる。白24,26も名人の新手らしく、32の抜きまで必然。黒33から37とカケてこの碁の骨格ができた。特に47のツギは信念の一手。白に48の大場を占められるものの、鉄壁を背景にした49が狙いだった。黒63,65は下辺の白を固めてどうかと是非の分かれるところだが、遠くから次なる戦闘へ応援しており、木谷流の大胆かつ思い切った構想である。黒69が苛烈な攻めだった。この手を打つ時、木谷は「雨か嵐か」とつぶやいた。名人は意表を突かれたらしく、次の70に1時間46分も費やし、左辺四子を捨てて本体の安全を図る方針をとった。立ち会いの小野田千代太郎六段は、黒69を<鬼手>、白70を<凌ぎの妙手>と評したという。白82が大場の手止まり。黒83とつめて堅実路線を行く。白88は本手。黒89に白90,92のツケ切りは手筋、黒97までは相場らしい。黒99が、箱根における最後の一手になった。

 

 後半戦は、盤面は大ヨセに入り、中央の白がどの程度まとまるかが勝負。黒119に白129と引けばアジがいいが、それでは形勢に自信が持てない。黒129の切り込みが絶妙手だった。白130を利かそうとしたのが敗着。(黒121の封じ手が名人を怒らせ、また動揺させ、そして白130の運命的な敗着が導き出されたという。)

 

 白132は仕方がない。勝敗の分岐点になったらしき部分を、川端康成は次のように描いた。「黒129と切った。白のもう片一方を、黒133で切って、3目の当り、それから黒139まで、当り当りと、ぐんぐん一筋に押して<驚天動地>の大きな変化が起きた。黒は白模様の真只中に突入した。私はがらがらと白の陣の崩壊する音が聞こえるように感じた。どこからか上手な尺八の音が流れてきて、盤面の嵐がわずかにやわらげた」。

 

 本因坊名跡(300年伝承)は、1924年(大正13年)に創設された日本棋院また碁譜掲載権毎日新聞委譲され、本因坊戦という名のタイトル戦が誕生しました。本因坊戦が順調に発足進行し始めた頃、秀哉名人は、昭和15年(1940年)1月18日、67才、熱海で静養中に亡くなりました。

 

 2006年(平成18年)12月19日、朝日新聞(朝刊)に、「昭和の伯楽」木谷九段、没後31年、との木谷道場を主催して数多くの俊秀を育てた木谷九段の偉業を讃える特集記事が出ています。

 

 木谷実(関連年譜)は、1909年(明治42年)、神戸市生まれ、1921年(大正10年)、12才、上京、鈴木為次郎に入門、1924年(大正13年)、15才、設立された日本棋院に初段で参加、1933年(昭和8年)、24才、呉清源と新布石研究、1938年(昭和13年)、29才、本因坊秀哉名人引退碁、1957年(昭和32年)、48才、第2期最高位、1958年(昭和33年)、49才、第3期最高位(防衛)、1975年(昭和50年)12月19日、66才、自宅(平塚市、神奈川)で逝去。

 

 木谷実の歩みは、年譜の通りで、新布石を打ち出して現代囲碁に革新をもたらし、時の第一人者、本因坊秀哉名人の相手を務め、この対局はのち、川端康成の名作「名人」に結実しました。勝負では、最高位決定戦(1955年、昭和30年~1961年、昭和36年)で2連覇したが、3度挑戦した本因坊位の獲得は成らなかった。

 

 木谷実の弟子は、戦前の1933年(昭和8年)からとり始め、1970年(昭和45年)入門の日高敏之八段(日本棋院離脱)まで計54人で、孫弟子まで含めた一門の合計段位は500段に達し、2000年(平成12年)に記念の会が開かれました。

 

 木谷一門のすごさ弟子の多さだけではなく、囲碁界を代表する棋士が多く輩出したことにあり、20年ほど前には一門で七タイトルを独占していました。三大タイトル(棋聖、名人、本因坊)を獲得した7人(大竹英夫、石田芳夫、加藤正夫(故人)、趙治勲、小林光一、武宮正樹、小林覚)はじめ、多くの木谷門下の棋士が現在も活躍中です。 

 

(参考文献) 川端康成: 名人、新潮文庫(1962); 井口昭夫; 本因坊名勝負物語、三一書房(1995); 菊池達也: 木谷實とその時代、棋苑図(2000); 「昭和の伯楽」木谷九段、没後31年: 朝日新聞(朝刊)特集、2006年(平成18年)12月19日(火).