エンタツ・アチャコ | ひまうまの蓄音機日記+α

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小生、SPレコードの収集を初めたのを起源に蓄音機もとうとう制作してしまった趣味人です。これから、その制作過程と共にコレクションも紹介して行きます。よろしくお願いします。

エンタツ・アチャコと言えば、現在の漫才の原型を作った事でも知られているが、戦後は明らかに花菱アチャコの人気が優勢で在り、横山エンタツは才能の点でも差異が感じられたのは惜しい事実である。それについては、息子の花紀京には、「自分には芸の力がない」と弱音を吐いていたらしい!だが現代の所謂しゃべくり漫才の先駆として類を見ない程の功績が在るのは、今更小生が明言するのは寧ろ愚言と言えるだろう!だが来歴は示す必要は在ると思うので、過去の名人を偲ぶ上からも述べようと思う!

$ひまうまの蓄音機日記?-エンタツ・アチャコ


横山エンタツと言えば、横山ノックの師匠で在る事も知られているが、元々は、新派演劇から芸能活動を始めている。1914年(大正3年)の事である。綾田五郎一座が初舞台であった。そして大正の初め頃にはソウル(京城)で演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていた事も在ったが、朝鮮に住んでいた祖父の勧めで満州から大連で新派連鎖劇の一座に入り、旅順、奉天、長春と転々としている。だが其の後、一座が解散した為、満州で小中村千代兵衛の一座に在籍してたが挫折し帰国した。次に、時田一瓢一座に入り「横山瓢(ひさご)」を名乗っている。その後、堀越一蝶一座で「横山太郎」と改名していた。巡業劇団にも参加している。アチャコとの出会いは、1919年(大正8年)に一座を組んだ事に端を発する。当時、既に幕間に「しゃべくり漫才」を試演しているが時流に合わなかった。これが漫才師としての起源で、本格的に始めたのは、1922年頃(大正11年)と言われる。因みに「横山エンタツ」を名乗ったのは、1928年頃からである。芸名の由縁は、東京浅草蔵前にあった煙突に似ていた事らしいが、どんな煙突だったのだろう?「横山」は生地(三田市横山町)から採っている。出生は、1896年(明治29年)4月22日である。其の後の動きとしては、1929年(昭和4年)8月31日から漫才師、浪曲師、踊り子などを引き連れて半年間アメリカ巡業に出ているが、失敗して帰国している。しかし巡業中に観たチャップリン等のスラップスティック・コメディーに影響を受け、口髭を真似たのが、御馴染の容貌である。1930年(昭和5年)に吉本興業に入社している。そこからが本当の意味でのメジャー・デビューである。そこで再び花菱アチャコに出会ったのが、「エンタツ・アチャコ」の本当の意味での出発と言える。ここで初めて現在のスタイルである背広姿の漫才師が誕生した。しかしネタは、以来の様な音曲万才では無かったので、相当の反発が在ったと言う!だがそれも当然だろう!しかし時流ネタを繰り返し苦慮していたが、当時人気の東京六大学野球をネタに「早慶戦」を始めた処、ようやく受けて、独自のスタイルも浸透したと思われる。と言うのも其の後の漫才師のスタイルは、それを継承しているからである。だが相方の花菱アチャコが中耳炎を患い入院してしまう程悪化したのでコンビを解消する事となる。1934年(昭和9年)の事であった。幻のコンビと時に揶揄されるのは其の経緯が要因である。アチャコは復帰後、杉浦エノスケと組んでいる。しかしコンビの復活を望むファンの機運が上がって来たのか、東宝の前身となるPCLが録音スタジオから事業を拡張し映画の製作部を始めた事から新興会社たる制作方針なのか都会的センスに溢れた作品を連発しており、浅草で人気の在った榎本健一や丸の内派の古川ロッパの起用もしていた。そこで見直されたのか1936年(昭和11年)公開の「あきれた連中」でコンビの復帰を映画では在るが果たしてる。だから実際は、本当に漫才をやっていた頃を知っている人は地元のファンしか知る由も無かろう!イメージとは、そう言うものである。戦時中は、1941年からだが、「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし、全国を巡業している。戦後はNHKで「気まぐれショーボート」(1950年~1952年)、「エンタツちょびひげ漫遊記」(1952年~1953年)、「エンタツの名探偵」(1953年~1954年)等、長期にわたってラジオ番組のレギュラーを務めている。これらの番組は東映で映画化され、こちらもヒットしている。しかし新派出身と言う事も在ってか、舞台人としての気質が影響してか、映画には対応出来てもテレビ時代に対応出来る程の先駆性が無いのか映画界が斜陽に成るに従い、人気も衰退して行く!其の後の功績としては、1969年(昭和44年)に大阪市から市民表彰を受けている。逝去は、1971年(昭和46年)3月21日である。エンタツの影響としては唯一のギャグとして2本の指でちょび髭を押さえて「ハッハー、照れくさー」と言う仕草が在ったが、後代にザ・ドリフターズの加藤茶が「加トちゃん、ペッ!」に改作している。あのハゲ頭でちょび髭の扮装は晩年のエンタツを模したものかも知れない!




さて相方の花菱アチャコだが、1897年(明治30年)7月10日に福井県で出生している。来歴としては、1913年(大正2年)に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入り東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏んでいる。そして翌年は神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し「花菱アチャコ」を名乗り菅原家千代丸と組んでいた。そこで横山エンタツの来歴でも述べているが、1919年に一度だけ横山エンタツと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わっている。その際には客からはみかんの皮を投げられるほどであった。吉本興業には、1925年(大正14年)に入社している。そこでエンタツとコンビを組む事に成るのだが、それからの経緯は先に述べているので割愛する。アチャコもコンビ解消後は「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業している。ここから戦後の事に触れるが、第二次世界大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除している。しかし1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際(アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていたが、林正之助に一喝されてそれを新興に返している。)、アチャコは吉本から「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一札取っていたため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められ結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続された。映画では名脇役としても知られているが、1952年(昭和27年)に長沖一原作のラジオ番組「アチャコ青春手帖」が大ヒット作となり映画化もされている。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した「お父さんはお人好し」も人気を博し、これも映画化している。そして1959年(昭和34年)に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」や「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡したのは御存知の通りである。逝去したのは1974年7月25日、死因は直腸癌だった。享年77歳!戒名は阿茶好院花徳朗法大居士と在りし日の面影を伝えている。参考に弟子の名を上げておこう!粋曲漫談ののれん太郎、鶴野一声、岡八朗などは知られた処だが、実質の孫弟子(岡八朗の弟子)「オール阪神・巨人」に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせると言う話が在ったが、オール阪神・巨人側が「おそれ多い」と断っている。余談だが、孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はミュージシャンで、「アチャコ一座」というバンドを結成して活動している。また、大阪市中央区高麗橋に、子孫が経営する居酒屋「ACHAKO」が在る。

$ひまうまの蓄音機日記?-エチオピア探検 エンタツ・アチャコ
Nitto Record 6473A/B wax.?


ここでレコードを紹介するが、ネタは「エチオピア探検」と在る。収録年は、来歴を参考にすれば察しが付くが、1930年からコンビを解消する1934年迄と言う事になる。幸い電気吹込みが一般化した時代なので音質も良く、ふたりの掛け合いを堪能出来るが、聴いてみると流石に軽妙で、所謂しゃべくり漫才の原典を堪能出来るのが興味深い!ネタも意外性が先行し奇天烈だが本が、しっかりしているのか、結構聞ける。しかし沸き立つものが無いのは、寄席で御客さんを目の前に披露している訳では無いので仕方なかろう!最近の漫才師は、本を大事にしないコンビが多いが、嘗ての「やすし・きよし」も構成台本の大事さを説いており、それを消化する事でネタに出来ると明言していた。現在のお笑いは、ネタをやりませんな!