静岡県東部の廃車体を観てからR246を裾野へ。
裾野市を走ると左手にトヨタ自動車東日本東富士工場が見えます。

トヨタ自動車東日本
東富士工場
2019年8月7日

1942年、神奈川県横須賀市に設立された株式会社海雄会※を祖とし、1946関東電気自動車製造株式会社と社名変更します。1949年にはトヨペットSBP型セダンの生産を始めます。当初の業態は乗用車の車体架装会社でしたが、1950年には関東自動車工業株式会社と社名変更した上でトヨタ車の車体架装の比率を増やしました。1954年にトヨタ自動車工業㈱(当時)が資本参加した後は、開発への参加と最終組立までを行うようになりました。

※海雄会中島飛行機(後の富士重工業)の子会社でGHQ財閥解体令で分散独立した。こちらも戦後は車体架装事業を行なっている。
トヨペットスーパーRHK(1953年)
日本自動車博物館
(Wikipediaより)

トヨペットスーパーは1953年登場した国産乗用車開発への試金石として開発、生産されたセダンタイプの乗用車。当時日本の道路は世界に知られた狭路と悪路が続いており、6人乗れていくら走っても壊れない頑丈な乗用車を作りを目指します。そのため頑丈な格子型フレーム+四輪リーフスプリング+6プライタイヤと足廻りはトラックそのものであり現在の乗用車と比べモノにならない程の乗り心地の悪さでした。

発売されるとトヨペットスーパータクシー用に歓迎されます。戦後、タクシー業界は戦前の生き残りで走り出します。
戦前から残った車輌を修理して使い続けていたがそれが壊れると大型米車のほか2ドアのVWやパナール、足廻りが弱いシトロエン2CVまでも起用しますが既に舗装路が主であった欧州車は日本の悪路には耐えられませんでした。

頑丈な6名座席のトヨペットスーパーは人気上昇、昭和30年代初期、小型車のダットサンと中型車のトヨペットスーパーは人気で、この時代の日本のタクシー市場を二分する時代が続くと共に外車を市場から駆逐に成功しました。
トヨペットスーパーは今日の乗用車と異なりシャーシと車体架装が分かれており姿が違う二種類が同時発売されました。RHK関東自動車工業製RHN中日本重工業製で、前車を関東ボディー、後車を三菱ボディーと呼んだ。

関東自動車工業トヨタ自動車系列の自動車メーカーとして引き続き乗用車生産を続けます。
1960年にはセントラル自動車への資本参加を表明し同社は神奈川県相模原市へ移転、関東圏でのトヨタ自動車系生産体制整備を進めます。
その後業務拡大を続けて1967年に東富士工場を開設しました。

2011年、トヨタ自動車はセントラル自動車(宮城県)、トヨタ自動車東北(宮城県)および関東自動車工業を2012年7月を目標に統合し、東北地方を中部地方・九州地方に次ぐ国内第3の生産拠点にすると発表しました。 関東自動車工業を存続会社とした上でセントラル・トヨタ東北を合併し2012年7月1日にトヨタ自動車東日本に社名変更すると発表しました。

トヨタ自動車は2020年1月、米:ラスベガスで開催されるエレクトロニクスとITの見本市「CES」において、暮らしを支えるあらゆるモノやサービスをオンラインでつなげる実証都市"コネクテッドシティ'について、プロジェクトの概要を発表2020年末に閉鎖するトヨタ自動車東日本 東富士工場の跡地(約70.8万平方メートル)に於いて2021年初頭に着工。初期は、トヨタの従業員やプロジェクトの関係者をはじめ、2000人程度の住民が暮らすことが想定されています。街づくりを進めていくうえで、それぞれ独自のプロジェクトの実証に活用することを含め、世界中のさまざまな企業や研究者などに対して、実証への参画を募るそうです。
※コネクテッドシティ
このプロジェクトは、人々が生活を送るリアルな環境のもとで、自動運転、MaaS(モビリティー・アズ・ア・サービス)、パーソナルモビリティー、ロボット、スマートホーム技術、AI(人工知能)技術などを導入・検証できる実証都市を新たにつくるというもの。暮らしを支えるあらゆるモノ、サービスがつながる時代を見据え、街の中で技術やサービスの開発と実証のサイクルを素早く回すことで、新たな価値やビジネスモデルを生み出し続けることを狙いとしている。網の目のように道が行き交うデザインから「Woven City(ウーブン・シティ)」と名付けられた。

1953年に本格的国産乗用車:クラウンの礎となるトヨペットスーパーを開発した会社の遺伝子が還暦を超えて2020年代には暮らしを支えるあらゆるモノやサービスをオンラインでつなげる実証都市"コネクテッドシティ"として新たな未来へとその遺伝子を伸ばそうとしています。