あしや温故知新94 小出楢重(こいでならしげ)芦屋ゆかりの画家

 

 小出楢重は1887年(明治20年)、大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受けました。


 1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学します。

 日本画の下村観山の指導を受けますがのち洋画に転向し、1919年、二科展出品作の「Nの家族」で新人賞と呼ばれる樗牛賞を受賞します。

翌年は念願の「少女お梅の像」が二科賞を受賞しました。小出が38歳の時です

 

 小出が38歳の時です。大正15年から昭和6年に没するまで(1926年~1931年)

芦屋市川西町(武庫郡精道村平田)で暮らしていました。絵も小出も作品です。

 裸婦の小出のと異名を持つ画伯の作品は、日本全国の美術館に所有されています。

 

 芦屋市立美術博物館の一隅に復元されたアトリエは芦屋市川西町で建設されています。(1929年築、1991年復元)


 芦屋市立美術博物館の一角に小出楢重のアトリエが復元・保存されて当時の面影を再現しています。

 

 また、多くの随筆集を残していますが、「めでたき風景」は代表作です。

「芦屋という処に住んで2年になる。先ず気候は私たちの如く細々と生きているものにとっては先ず結構で申し分ない。そして非常に明るい事が、私たちがさびしがり屋のために適当しているようだ(中略)その気候や地勢の趣きが南フランスニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ、東はモンテカルロといった風な感が深い」

 

 1921年から1922年にヨーロッパへ。フランスから帰国後の1924年には鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らと大阪に「信濃橋洋画研究所」を設立し昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となったのです。

 

 大阪の風土が浄瑠璃を生み出したように、洋画を育てたのは洋風の生活様式だと考えた小出は阪神モダニズムの盛んな芦屋市での洋風生活が魅力的だったし、裸婦の作品が誕生したのは芦屋の西洋文化様式の影響なのです。

 

 1931年(昭和6年)、心臓発作のため43歳で死去。

 

 晩年に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。

 

 実は芦屋警察署の署長室には小出の油絵が飾ってあります。この作品は小出が寂しがり屋と自称するだけあって、自宅で犬を飼っておりました。ところが行方不明になってしまった。すると数日後に警察官は保護した犬を連れて「これ小出先生の犬ではありませんか?」小出は大喜びで、自分の作品を警察署へ寄贈したのです。


 これは長い間、世間に知られていませんでしたが、署長室を訪れた方が「あれ小出画伯の作品では?」となり、小出画伯の特別展でお披露目になった幻の作品なのです。

 

芦屋ゆかりの画家と言えば、小出楢重がまず挙がってしまいます。