坂口安吾『輸血』を演出している。
坂口安吾?
輸血?

劇作家だった?
という声を聞く。
そりゃそうだ。
生涯二作しか戯曲を書いてない、
晩年の作品がこの『輸血』だ。

さて。
演出とはなにか?
という話になる。

1.わかりやすくすること

が、先ずある。
戯曲に書かれた文字だけでは分からないこと。
ヒエラルキー。
結末(或いは描いてない場合もある)
などなどが、わかりやすくすることだ。
これらを客席に提示する、わかりやすく。

2.自らの主張的にラインを引く

が、次である。
戯曲を通して演出家の哲学を述べる。
わかって欲しい事を述べる。
などが。主張的にラインを引く事だ。

3.作家の願いを叶える

が、最後である。
戦争をなくす。
名前を取り戻す。
夢を信じる事を奨励する。
などなど、枚挙に暇がない。

僕の今回の一番大きいミッションはどれか。
残念ながらどれでもない。
強いて挙げるなら、

作家の叶わぬ願いを客席に委ね後世を望む

だ。
チェーホフっぽい。
そう。坂口安吾はチェーホフっぽい。
チェーホフっぽいけどチェーホフではない。

一つは暴論だ。
暴論というのは「AだからBだ!」ってヤツ。
「昼飯だから素麺だ!」みたいなやつ。
昼飯の度に素麺にされちゃう。暴論。

もう一つは遠慮だ。
遠慮というのは「Aだから言わなくても分かる」ってヤツ。
「田中くんだから、昼飯は素麺だ!って言わなくても素麺になるから大丈夫、待ってます。僕、田中くんにそんな事言える人間じゃないんで」みたいなヤツ。田中くんからすれば全くもって寝耳に水のやつ。遠慮。

チェーホフには暴論も遠慮も少ない。
暴論と遠慮は二律背反している。
でも、暴論と遠慮は根幹は似ている。
それは
「甘え」
だと思う。坂口安吾はこの甘えが魅力的だ。
行動しないも、行動するも、
根底が甘えだと酷く魅力にみえる。
この点、チェーホフに似てる。
甘えは人間関係の端境にある武器であり
ヒエラルキーの崩壊を促す劇薬であり
舞台で一番表現の難しい中身である。

坂口安吾を演出している。
暴論と遠慮を押し抱いて。



『輸血』はおそらくだが、
世の中に初出しに近いだろう。
だからこそ「言いたい形」でやりやすい部分もある。
暴論と遠慮を抱えて、坂口安吾の『輸血』に無頼派作家の真意に迫ろう。