「屋島の戦い」 by斉藤範子
屋島の戦いとは・・・?
文治元年(1185)3月22日、屋島で行われた源平の合戦です。
昨日、JUN劇団員長濱氏がレポートしてくれた一ノ谷の戦いに敗れて屋島に逃れた平氏が、この屋島の戦いで源義経らに再び敗れる事となります。
この屋島の戦いの何処が重要かと申しますと・・・・
これが、その後の源平両家の運命が決まった戦い、歴史の分岐点だった、という事です。
順を追って説明致しますと。
一ノ谷で敗れた平氏は、讃岐の国(今で言う四国、香川県高松市)の
屋島に逃げました。
屋島は、今で言う香川県高松市の東方にある、標高293mの溶岩台地です。頂上部が平坦になっていて屋根の様に見える事から、その名がついたと言われています。「屋島の戦い」 が行われた頃は、独立した孤島だったそうですが、今では江戸時代の新田開発により陸続きになっています。
源氏は海上から攻め寄せて来るもの、と万全の迎撃態勢を整えていた平氏の裏をかき、源義経は屋島の背後の陸地から奇襲攻撃を仕掛けます。
奇襲大好き義経、ここでもやっちゃいます。
慌てて海上に逃れた平氏でしたが、落ち着いて良く見ますと義経の軍勢が意外に少ないので(150騎だったとか)反撃に出ます
はい、海(平氏方)と陸(源氏方)の戦いの始まり始まり。
では、この屋島の戦いの名場面の数々をご紹介しましょう。
まずは、
射落畠(いおちばた)
強弓で知られた平教経は、船上から矢を放ち、源氏の武者を次々と射殺します。そして勿論その矢は源義経に向かっても放たれるのですが、その時、
佐藤嗣信(つぐのぶ)が胸に矢を受け、義経の身代わりとなります。
つ~ぐ~の~ぶ~
嗣信は、欧州平泉を発ってからずっと付き添って来た義経の腹心でした。
やがて息を引き取った嗣信を悼み、義経は近くの寺から僧侶を招き供養させたということです。その際、自身の愛馬「太夫黒」をお布施として寺に送った為、その家来を思う心に源氏軍の一同は感動し、この人のためならと士気が上がりました。
この愛馬太夫黒こそ、一の谷の戦い、鵯越えの逆さ落としの際、義経をのせていた馬だったんですって。(逆さ落としについては、昨日のブログ参照です)
続きまして、屋島の戦いで最も有名な逸話!
扇の的
戦いが膠着状態に陥ったそのとき、一艘の屋形船が平氏の船陣から漕ぎ出て来ました。美しい女官の手招きの先には、金の日輪が描かれた扇が竿の先に立っています。戦局を打開したい平氏の挑発です。
風と波に揺られる扇に矢を射るのはもちろん至難の技ですよね。
なにふざけてんだとスルーしてしまえば良い所ですが、
戦でテンションが上がっている方達の考えは違います。
おっしゃ、やってやろうじゃないか射落としてやろうじゃないか
となってしまうんですね。
そこで一番大変なのが
この大役を任じられた源氏方の那須与一
受けて立った以上、この場はもはや座興ではなく
源平両家の存亡と、天下の覇権を賭けた本気のウケイ(占いの一種)の場と化している訳です。
与一は祈ります。
「 南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮大明神
願わくばあの扇の真中を射させ給え 」 と。
神明に祈りを捧げた与一は、足場を定めて、
見事扇を射落としました。
これには、敵味方の別なく拍手喝采が沸き起こったそうです。
そりゃそうです、オリンピックだったら余裕で金メダルです
錣引き(しころひき)
扇の的に感動したのか、50歳くらいの武者が平家の船から出てきて、扇のあった場所で舞い始めました。
風流ですねえ。
でもね、伊勢三郎義盛が、那須与一に「命令だ。これも射よ」と言ったので、与一は舞っている男も射倒してしまいました。
与一、なんでもやる人です。
雅を重んじる平氏と、武を重んじる源氏の気風が見事に現れた訳ですが。
これを見て、「よく射落とした」と言う人もいましたが、「情のない」という人も多くいました。
モチノロンで激怒した平氏方から、楯、弓、長刀を持つ三人の武者が渚に押し寄せます。
風雅も分からない山ザルめ!という所でしょう。
対して源氏方からは真っ先に三穂屋十郎(みほのやじゅうろう)が攻め入ります。
が、馬に矢が当たってしまいます。
十郎は倒れた馬から這い上がり、すぐに刀を抜いて構えますが、平家方の長刀を持った武者が向かってきました。
刀では長刀には勝てないと十郎が逃げるのを、長刀の武者がどんどん追いかけていきます。
十郎!長刀でグサリ
かと思いきや、長刀の武者は
十郎の兜の錣を掴み(なんでやねん)
強い腕の力で引きちぎったんです。
危機一髪、十郎は味方の方へ逃げましたが、敵は追うこともなく、長刀で兜の錣を差し上げ、
大音声で
「日頃は音にもききつらん、今は目にも見たまえ。我こそは京わらべの呼ぶ、上総の悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)よ」と名乗り捨て、戻っていきましたとさ。
錣を引きちぎった時、十朗は景清の剛勇さを、景清は十郎の首の強さをお互いで賞賛したとかしないとか・・・戦中なのに・・・なんというか、トップクラスのアスリート同士、通じ合う所があったんですねえ。
錣・・・しころ、って、ここです。
弓流し
そんなこんなしておりますと、戦闘中の義経がうっかり弓を海に落としてしまい、それを必死で拾おうとします。
平氏方は、これ幸いと義経を狙おうとしますし、源氏方は「弓など捨てちゃってもいいいじゃないですか?なにやってんすか!」的に義経に戻ってこいコールです。
奇跡的に助かった後で、義経にその訳を訪ねた所。
「もし、4人で引いても引けない強弓ならわざと捨てて行ったかもしれないが、源氏の大将の弓がこの程度の弱い弓かと笑われたくなかった」
と言ったそうです。
義経は、どうも美化して考えられがちですが、実際の義経は小柄だったとも言われています。ですから、弓もそんなに強くないものを使っていたのでしょうか?
ともあれ、源氏方にとっては義経あってのこの合戦。
源氏方の梶原景時が主力の大船団とともに屋島についた時には、平家は舟隠しにあった船に乗り、知盛のいる彦島を目指して逃げ去った後でした。
義経、本当にお疲れさま。
あ、「落人たちのブロードウェイ」は平家落人の話でした。
どうも判官びいきになってしまいます。
斉藤範子がお届けしました。
文治元年(1185)3月22日、屋島で行われた源平の合戦です。
昨日、JUN劇団員長濱氏がレポートしてくれた一ノ谷の戦いに敗れて屋島に逃れた平氏が、この屋島の戦いで源義経らに再び敗れる事となります。
この屋島の戦いの何処が重要かと申しますと・・・・
これが、その後の源平両家の運命が決まった戦い、歴史の分岐点だった、という事です。
順を追って説明致しますと。
一ノ谷で敗れた平氏は、讃岐の国(今で言う四国、香川県高松市)の
屋島に逃げました。
屋島は、今で言う香川県高松市の東方にある、標高293mの溶岩台地です。頂上部が平坦になっていて屋根の様に見える事から、その名がついたと言われています。「屋島の戦い」 が行われた頃は、独立した孤島だったそうですが、今では江戸時代の新田開発により陸続きになっています。
源氏は海上から攻め寄せて来るもの、と万全の迎撃態勢を整えていた平氏の裏をかき、源義経は屋島の背後の陸地から奇襲攻撃を仕掛けます。
奇襲大好き義経、ここでもやっちゃいます。
慌てて海上に逃れた平氏でしたが、落ち着いて良く見ますと義経の軍勢が意外に少ないので(150騎だったとか)反撃に出ます
はい、海(平氏方)と陸(源氏方)の戦いの始まり始まり。
では、この屋島の戦いの名場面の数々をご紹介しましょう。
まずは、
射落畠(いおちばた)
強弓で知られた平教経は、船上から矢を放ち、源氏の武者を次々と射殺します。そして勿論その矢は源義経に向かっても放たれるのですが、その時、
佐藤嗣信(つぐのぶ)が胸に矢を受け、義経の身代わりとなります。
つ~ぐ~の~ぶ~
嗣信は、欧州平泉を発ってからずっと付き添って来た義経の腹心でした。
やがて息を引き取った嗣信を悼み、義経は近くの寺から僧侶を招き供養させたということです。その際、自身の愛馬「太夫黒」をお布施として寺に送った為、その家来を思う心に源氏軍の一同は感動し、この人のためならと士気が上がりました。
この愛馬太夫黒こそ、一の谷の戦い、鵯越えの逆さ落としの際、義経をのせていた馬だったんですって。(逆さ落としについては、昨日のブログ参照です)
続きまして、屋島の戦いで最も有名な逸話!
扇の的
戦いが膠着状態に陥ったそのとき、一艘の屋形船が平氏の船陣から漕ぎ出て来ました。美しい女官の手招きの先には、金の日輪が描かれた扇が竿の先に立っています。戦局を打開したい平氏の挑発です。
風と波に揺られる扇に矢を射るのはもちろん至難の技ですよね。
なにふざけてんだとスルーしてしまえば良い所ですが、
戦でテンションが上がっている方達の考えは違います。
おっしゃ、やってやろうじゃないか射落としてやろうじゃないか
となってしまうんですね。
そこで一番大変なのが
この大役を任じられた源氏方の那須与一
受けて立った以上、この場はもはや座興ではなく
源平両家の存亡と、天下の覇権を賭けた本気のウケイ(占いの一種)の場と化している訳です。
与一は祈ります。
「 南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮大明神
願わくばあの扇の真中を射させ給え 」 と。
神明に祈りを捧げた与一は、足場を定めて、
見事扇を射落としました。
これには、敵味方の別なく拍手喝采が沸き起こったそうです。
そりゃそうです、オリンピックだったら余裕で金メダルです
錣引き(しころひき)
扇の的に感動したのか、50歳くらいの武者が平家の船から出てきて、扇のあった場所で舞い始めました。
風流ですねえ。
でもね、伊勢三郎義盛が、那須与一に「命令だ。これも射よ」と言ったので、与一は舞っている男も射倒してしまいました。
与一、なんでもやる人です。
雅を重んじる平氏と、武を重んじる源氏の気風が見事に現れた訳ですが。
これを見て、「よく射落とした」と言う人もいましたが、「情のない」という人も多くいました。
モチノロンで激怒した平氏方から、楯、弓、長刀を持つ三人の武者が渚に押し寄せます。
風雅も分からない山ザルめ!という所でしょう。
対して源氏方からは真っ先に三穂屋十郎(みほのやじゅうろう)が攻め入ります。
が、馬に矢が当たってしまいます。
十郎は倒れた馬から這い上がり、すぐに刀を抜いて構えますが、平家方の長刀を持った武者が向かってきました。
刀では長刀には勝てないと十郎が逃げるのを、長刀の武者がどんどん追いかけていきます。
十郎!長刀でグサリ
かと思いきや、長刀の武者は
十郎の兜の錣を掴み(なんでやねん)
強い腕の力で引きちぎったんです。
危機一髪、十郎は味方の方へ逃げましたが、敵は追うこともなく、長刀で兜の錣を差し上げ、
大音声で
「日頃は音にもききつらん、今は目にも見たまえ。我こそは京わらべの呼ぶ、上総の悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)よ」と名乗り捨て、戻っていきましたとさ。
錣を引きちぎった時、十朗は景清の剛勇さを、景清は十郎の首の強さをお互いで賞賛したとかしないとか・・・戦中なのに・・・なんというか、トップクラスのアスリート同士、通じ合う所があったんですねえ。
錣・・・しころ、って、ここです。
弓流し
そんなこんなしておりますと、戦闘中の義経がうっかり弓を海に落としてしまい、それを必死で拾おうとします。
平氏方は、これ幸いと義経を狙おうとしますし、源氏方は「弓など捨てちゃってもいいいじゃないですか?なにやってんすか!」的に義経に戻ってこいコールです。
奇跡的に助かった後で、義経にその訳を訪ねた所。
「もし、4人で引いても引けない強弓ならわざと捨てて行ったかもしれないが、源氏の大将の弓がこの程度の弱い弓かと笑われたくなかった」
と言ったそうです。
義経は、どうも美化して考えられがちですが、実際の義経は小柄だったとも言われています。ですから、弓もそんなに強くないものを使っていたのでしょうか?
ともあれ、源氏方にとっては義経あってのこの合戦。
源氏方の梶原景時が主力の大船団とともに屋島についた時には、平家は舟隠しにあった船に乗り、知盛のいる彦島を目指して逃げ去った後でした。
義経、本当にお疲れさま。
あ、「落人たちのブロードウェイ」は平家落人の話でした。
どうも判官びいきになってしまいます。
斉藤範子がお届けしました。