流政之の命日 | foo-d 風土

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 七月七日は流政之の命日でした

 

 もう50年以上前、まだ子供の頃、古流武道を修めた流政之(ナガレマサユキ)が日本刀を持って立っている凛々しい姿と、ナガレの作庭した凛とした坪庭の写真を見て古武士の様な人が現存していると感動し、それ以来ファンになりました。

 その後も各地の美術館や図鑑等で作品も何度かみましたが、日本美をこよなく愛し作品に生かされていますが、凛とした作品の中にお茶目な部分もあったり中々 素晴らしいんです。

 私は1985年頃から香川県高松市にレディースのセーターの商談でシーズン一度は行っていましたが、行きつけの海鮮料理屋にいると、大きな声で賑やかに話をしている方がいました。

話の内容が芸術家っぽい。

興味を持ってよく見ると流氏でした。

香川県が地元で、この店にもよく来られていた様です。一緒にいいですかと申しましたら、即一緒に飲みましょうとなり、芸術や様々な談義。活き造り等で結構飲みましたが予想通りの豪放磊落の中に繊細さも感じさせる素晴らしい方でした。

 

 鳥取県東伯郡琴浦町赤碕の菊港に、日本海の荒波に向かって立つ三人の旅姿の御影石の彫刻、

『波しぐれ三度笠』は、

どこかユーモアを感じさせる作品で、波の立つ強風の日や嵐の日にみると更に素晴らしいです。

 

 また、サントリー大山崎山荘美術館の『さむらいの涙』

刀の様に凛としていい味です

 

 

名古屋最古の400年の歴史の料亭『河文』に行った時は流 の「水鏡」と「流れ床の庭」という作品がありびっくりすると同時に嬉しかったです。その石の能舞台では日本舞踊や能が毎年行われています。。近場ですと、なぜか食品スーパーバローの恵那市の本店1F中央にも一体飾られています。

 (写真は私が撮ってきた『波しぐれ三度笠』、『さむらいの涙』と後は流政之美術館「NAGARE STUDIO」等の案内から)

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流 政之(ながれ まさゆき、1923年2月14日 - 2018年7月7日は、日本の彫刻家、作庭家。

長崎で生まれ、13歳の頃、京都の町方で父である中川小十郎のもとで教育を受け、剣法、古流武道を教え込まれた。それがきっかけで後に刀鍛冶の門を叩き、彫刻の道へとつながった。1943年には海軍飛行科予備学生としてゼロ戦パイロットとなるが、戦後は敗戦の日本の姿を確かめるため東京から下関まで倒れた墓を起こしながら放浪を続けた。

流政之は、1950年代の初期の作品から石を割った部分はそのままにして生かす「ワレハダ」の技巧を用いてきた。

1955年、初めての個展「飛行空間」で戦没パイロットを追悼した。

流氏談

「誰も飛行機乗りの追悼をしようなんてことは考えていない時代だった。『じゃあ俺がやらなきゃだめだ』と思って、日本軍だけじゃなく、米軍も含めて、戦争で死んだパイロットの弔いをしたんだ。国内ではあまり反響を呼ばなかったが、英字紙が『ゼロ・ファイター』の個展だと報じた。負けた国のパイロットとしては、おもしろい気分はしなかったが、それがきっかけになって米国でも名前が知られるようになった」

60~70年代は

「ロックフェラー3世夫人に作品を購入してもらったり、米国の美術館に作品が並べられたりと評価されるようになった。戦争で負けたという悔しさと同時に、米国にはあこがれのような思いもあって、必死で仕事をした。負けた国の軍人が、米国に乗り込んで活動するなんて、ほかにいなかったからね。米国でも尊敬された。ニューヨークに拠点を持って、67年には米タイム誌が選ぶ日本を代表する文化人として、三島由紀夫、川端康成、丹下健三、黒沢明と一緒に紹介された。75年には世界貿易センターに7年の歳月をかけた作品『雲の砦(とりで)』が完成した。米国でお金もだいぶ稼いだ」

「でも日本に帰国したきっかけはベトナム戦争だよ。この頃、ニューヨークのダウンタウンで米国人の仲間たちと飲んでいて、議論になった。『東洋で戦争があるなら、俺は東洋の味方だ』と言って、『では戦場で会おう』という話になった。米国もおかしくなってきたな、と感じて帰国することにした」

――日本各地に戦没者を追悼する作品を作っている。

「2006年に北海道七飯町の流山温泉彫刻公園ストーンクレージーの森に、海軍飛行予備士官の青春をとどめようと『もどり雲』を建てた。ここでは同じ土浦海軍航空隊に所属した裏千家の前家元、千玄室氏と一緒に平和を祈る茶会もやった」

「学徒出陣した戦没者を追悼する作品を東京・明治神宮に作ってほしいという依頼もあったが、これは断った。東条英機の主導で、学生たちが行進した明治神宮外苑競技場は、ふさわしくない。これとは別に高知県大月町に学徒出陣した戦没者を鎮魂する作品『雲が辻』を作った。北海道奥尻島には、北方領土の国後島を脱出した人々が入植した歴史がある。あまり知られていないが、戦争による『難民』が日本にもいたんだ。望郷のモニュメントを奥尻島の北追岬公園に作った」

「代表作の『サキモリ』シリーズは内臓部分が空洞になった人型の作品だ。

私が作るまで、そういうヌードはなかった。空洞の中に、生命とか夢を入れて考えるんだ。サキモリは文字通り『防人(さきもり)』が題材。防人は守る側で、自分から攻撃はしない。防衛する存在だ」

「少年時代、親父から古流武道を習わされた。武道には『受けてたつ』という武士道の思想がある。これも自分からは攻撃をしない。私が高松にいるのも、受けてたつ、の考えからだ。彫刻家として攻撃的に生きるなら、東京のような大都市に住めばいいんだ。攻撃の美学は好きになれないね。日本が再び武力の問題を考えるのなら、守ること、受けてたつことに、きっちりけじめをつけておかないといけない。そうしないと、また戦争することになる」(日経 戦後70年インタビューより)

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彫刻家として活躍するかたわら、庭園の作品も残す。代表作に東京天理教館庭園、皆生温泉東光園庭園などがある。

香川県のご当地グルメ「讃岐うどん」の命名者とされる。

 流政之は、1950年代の初期の作品から石を割った部分はそのままにして生かす「ワレハダ」の技巧を用いてきた。それは作品は未完成であることを意味している。「つくらざることはときにつくることをしのぐ」この表現は流の美学である。

アカデミズムと権力主義をことさら嫌い、日本芸術大賞さえもなかなか受け取らない。しかし、うまい飯といい女のためならどこへでも、一年の三分の一は旅に出るという破天荒な人。

 2018年に逝かれたが、もう一度逝かれる前に流流の話で美味い酒をご一緒したかった。

 

こういう古武士の様な日本人にはそれ以来会っていない。

その後政府もメディアもこぞって懐柔され過ぎて漢(おとこ)は

もう絶滅したのかもしれない 

 

 そんなことを思うからなのか

   七夕の今日は星一つ見えない

     流政之の命日でした。

 

 

近いうちに香川県高松市の 流政之美術館「NAGARE STUDIO」へ行きたいと思います。