島崎藤村「胸より胸に」明治33年(1900年)後篇 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

島崎藤村・明治5年(1872年)3月25日生~
昭和18年(1943年)8月22日没(享年72歳)

 胸より胸に

 其の四
 吾戀は河邊に生ひて

吾戀(わがこひ)は河邊に生ひて
根を浸(ひた)す柳の樹なり
枝延びて緑なすまで
生命(いのち)をぞ君に吸ふなる

北のかた水去り歸り
晝も夜(よ)も南を知らず
あゝわれも君にむかひて
草を藉(し)き思(おもひ)を送る

 其の五
 吾胸の底のこゝには

吾胸(わがむね)の底のこゝには
言ひがたき祕密(ひめごと)住めり
身をあげて活(い)ける牲(にへ)とは
君ならで誰かしらまし

もしやわれ鳥にありせば
君の住む窓に飛びかひ
羽を振りて晝は終日(ひねもす)
深き音(ね)に鳴かましものを

もしやわれ梭(をさ)にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思(おもひ)
その絲に織らましものを

もしやわれ草にありせば
野邊に萌え君に踏まれて
かつ靡(なび)きかつは微笑み
その足に觸れましものを

わがなげき衾(しとね)に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ

口脣(くちびる)に言葉ありとも
このこゝろ何か寫さん
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ傳ふべきなれ

 其の六
 君こそは遠音に響く

君こそは遠音(とおね)に響く
入相(いりあひ)の鐘にありけれ
(かす)かなる聲を辿りて
われは行く盲目(めしひ)のごとし

君ゆゑにわれは休まず
君ゆゑにわれは仆(たふ)れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をわづかに搜(さぐ)

たゞ知るは沈む春日(はるひ)
目にうつる天(そら)のひらめき
なつかしき聲するかたに
花深き夕(ゆふべ)を思ふ

吾足(わがあし)は傷つき痛み
吾胸(わがむね)は溢れ亂れぬ
君なくば人の命に
われのみや獨(ひとり)ならまし

あな哀し戀の暗には
君もまた同じ盲目か
手引せよ盲目の身には
盲目こそうれしかりけれ

(「新小説」明治33年=1900年5月)

 島崎藤村(1872-1943)の詩人時代の最後期に書かれた連作「胸より胸に」についての概略は前回にまとめた通りです。前回は「其の一」の「めぐり逢ふ君やいくたび」、「其の二」の「あゝさなり君やいくたび」、「其の三」の「思より思をたどり」をご紹介しました。今回の「其の四」から「其の六」については、「其の四」が4行二連と短いのが注意を引きますが、この連作では「其の五」の「吾胸の底のこゝには」が4行六連と例外的に長く、二連の「其の四」、六連の「其の五」以外の作品はいずれも4行五連です。最長の「其の五」の前に最短の「其の四」を配したことで連作のクライマックスは「其の五」で頂点に達し、「其の六」は連作全体の総括をなしています。連作全体の「胸より胸に」のタイトルそのものが「其の五」「吾胸の底のこゝには」の最終連2行「たゞ熱き胸より胸の/琴にこそ傳ふべきなれ」にこめられており、「其の一」に4行四連の「罪なれば物のあはれを」が含まれていた七篇構成の雑誌掲載時に藤村には掲載誌「新小説」からの誌面割り当てが依頼されていたでしょうから、恋愛詩の連作という意図で各篇を仕上げて全篇の配列を整える構成とともに「胸より胸に」という総題を考えて、「たゞ熱き胸より胸の/琴にこそ傳ふべきなれ」の2行を含む「其の五」「吾胸の底のこゝには」を書いたと思われます。

 藤村は英語教師でしたから西洋文学の教養は主にイギリス19世紀のロマン派詩に由来しており、ソネット形式(14行詩)は当然学んでいたでしょう。ソネット形式は4行・4行・3行・3行のペトラルカ式、または4行・4行・4行・2行のシェークスピア式が原則ですが、藤村は厳密なソネット形式よりも4行一連単位の詩作を重視しており、『若菜集』の著名な「初戀」は4行四連です。もっとも藤村の詩は抒情詩の短詩でも4行四連より短いことはめったになく、これは文語詩で七五律1行を採る藤村の詩では4行四連で漢詩や西洋詩に匹敵する内容を展開できないので、1行七五律で4行一連を単位としながら十分な内容を盛りこもうとすると四連以上の長さになるのが必要だったという事情によるものと考えられます。詩人時代の最後の年、29歳の年、明治33年に藤村はそれまでの1行七五律から1行五七律に転換し、その達成として同年4月に6行三連の「小諸なる古城のほとり」、4行四連の「千曲川のほとりにて」が発表されます。いずれもソネット形式の14行よりはわずかに長いのですが、七五律から五七律への転換によって格段に詩行の凝縮度は上がり、その達成を踏まえたのが翌月発表の「胸より胸に」の連作となっています。藤村は6月発表の連作「海草」五篇で詩作を終了するので、明治33年度の半年間の発表詩篇18篇は藤村自身が20代いっぱいで詩作から小説に転換する追いこみの意気のかかったものでした。藤村の詩集には社会や歴史を詠みこんだ長大な叙事詩もありますが、成功した詩作は恋愛詩や望郷詩などの抒情詩で、社会や歴史などへの関心は小説でないと表現しきれなくなっていたのでしょう。また明治・大正時代には詩人が専業文筆家として身を立てていくだけの読者層がありましたが、それでもやはり多くの読者を持つのは詩よりも小説でした。経済的な背水の陣で同和問題に自身の境遇の疎外感と社会的軋轢を託した第一長編『破戒』に取りかかった藤村は夫人を栄養失調から来る病床に、また長女、次女、三女を幼児のうちに次々と亡くしています。『破戒』が朝日新聞文芸欄主筆・夏目漱石に認められて朝日新聞連載となった第二長編『春』は「文學界」同人との交友や生徒との恋愛事件による女学校教師免職前後の『若菜集』創作直前の時期の藤村自身の自伝的小説になり、続く第三長編『家』は藤村の実家を中心とした姻戚関係の血肉の因縁を暴露した大作でした。また夫人の病没後に家事まかないに住みこんでいた姪(実兄の娘)を妊娠させて実兄に脅迫された顛末は第四長編『新生』で明らかにされます。藤村の長編小説は『家』『新生』ともすでに上下巻の大作でしたが、さらに長編4冊分の大作にして最大の力作になった第五長編『夜明け前』は明治維新前後の政変にあって挫折から狂死した藤村の実父の生涯を描いた壮大な社会・歴史小説でした。藤村もまた、なかなか純情な恋愛詩人どころではないのです。

 逝去により未完に終わった遺作長編小説『東方の門』までの藤村の作品歴をたどると、30歳から72歳の享年までの40年間に書かれた長編小説は『破戒』『春』『家』『新生』『夜明け前』の五大作に集中され、それに長編小説の衛星的な位置づけになる中短編小説、紀行文、エッセイ集などが書かれており、まるで生涯全体の創作力から逆算したかのように無駄なく計算された藤村の全文業には用意周到を通り越した計画性を感じさせます。普通これは計画しても実現は不可能な業績です。孤高の文人を気取った石川淳は事あるごとに馬琴を嫌い、「いやな奴だ。それから藤村」と藤村嫌いを表明しましたが、石川淳はもとより森鴎外、泉鏡花、夏目漱石、谷崎潤一郎、志賀直哉、有島武郎、芥川龍之介、横光利一、川端康成、井伏鱒二、太宰治、三島由紀夫など、もっと上げてもいいですが明治以降の作家で生涯に5作の大作長編小説だけをライフワークにして明治・大正・昭和に渡って成功した小説家など島崎藤村、せいぜい多作家だった徳田秋聲・正宗白鳥以外にいないので、10年1作のペースが当然など欧米の文学者並み、その上に小説家転身前に画期的な全詩集を持つ詩人でもあった文人など欧米諸国にすらほとんど見当たりません。藤村は書き下ろしの第一詩集『若菜集』を25歳で刊行した時にはおそらく4冊目までの全詩集の構想があったと思われ、しかも20代のうちに詩人時代を終わらせ専業小説家に転身する計画も織り込んでいた節があり、見事にそれを完遂した周到きわまりない文人でした。粋人を持って任じる石川淳が「いやな奴だ」と言うのも当然ですが、詩人としても小説家としても(さらにエッセイストとしても)藤村は最小限の力作だけに創作力を集中して巨大な業績を残したので、何を言っても負け惜しみになります。藤村の全詩集には叙事詩、風諭詩なども含みますが、何よりも抒情詩、まず恋愛詩、次いで望郷詩を中心としたのが藤村の強みであり、叙事詩や風諭詩などは抒情詩を引き立てて詩集を風通し良くするための工夫でした。「吾胸の底のこゝには」の二連~四連、「もしやわれ鳥にありせば/君の住む窓に飛びかひ/羽を振りて晝は終日(ひねもす)/深き音(ね)に鳴かましものを」、「もしやわれ梭(をさ)にありせば/君が手の白きにひかれ/春の日の長き思(おもひ)を/その絲に織らましものを」、「もしやわれ草にありせば/野邊に萌え君に踏まれて/かつ靡(なび)きかつは微笑み/その足に觸れましものを」とたたみかける直喩の連続は藤村以降複雑化していく明治詩の技巧より平明で率直な分効果は絶大です。また藤村がここで簡明な表現に十分な達成を見せたからこそ薄田泣菫、蒲原有明、初期の北原白秋らは凝りに凝った技巧に進まざるを得なかったとも言え、藤村の達成があったからこそ現代詩の口語詩への転換は少なくとも10年遅れたとも考えられます。藤村詩集は各種文庫のロングセラーですから持っていても持て余している現代の読者も多いでしょうが、改めて藤村詩集を読むのは120年前のタイムカプセルを開ける、入りこむ作業のようなものです。そしておそらく藤村詩集、また5作の長編小説はさらに120年後の2140年にも確実に版を重ねるものです。