新型コロナウィルスの感染拡大という異常事態のために行動が制限されて、旅行もこの2年間自重せざるを得なかった。ところが、ワクチン接種の効果か最近感染者が急激に減少したので昨年秋に建立された大阪の観心寺の歌碑を見るために10月末久しぶりに新幹線に乗った。

 

 観心寺は空海ゆかりの真言宗の古刹で、本尊如意輪観音像はよく知られた仏像だが4月17・18日しか公開されない秘仏になっている。本尊を拝観できないのは残念だが出かけることにした。大阪の難波から南海電車高野線に乗り河内長野駅下車、バスで15分ほど金剛山地に向かう坂道の多い道を進んで門前に着いた。紅葉の始まりのちょっと前という中途半端な時期だったがそれだけに参詣者が少なく静かな時間を過すことができた。

 

 山門を入って金堂に向かう石段を登り、金堂の少し手前右に建つ訶梨帝母天堂の前を過ぎると背後に茂みのある低い石垣の上に會津八一の歌碑が建っていた。程よい大きさのすっきりした感じの歌碑で、歌も大変読みやすいのがうれしい。

 

   なまめきて ひざにたてたる しろたへの ほとけのひぢは うつつともなし

 

  (なまめかしく膝に立てた真白なこの仏の肱は、この世のものとも思えない - 吉野秀雄
 

 歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 に 「観心寺の本尊如意輪観音を拝して」 という詞書(ことばがき)で収められている 2首のうちの1首。もう一つは 「さきだちて そうがささぐる ともしびに くしきほとけの まゆあらはなり」 である。この歌によると本尊は当時も秘仏には違いないが今のように年1回の公開といった様子ではないことが分かる。

 

 この歌碑は、河内長野東ロータリークラブが創立35周年を記念して建立したもので、2020 令和 2年 9月23日に除幕された。記念事業委員会委員長が秋艸会の会報 『秋艸』 (2021年4月) に一文を寄せ、歌碑は高さ 140cm 幅 50cm 厚さ 40cm の六方石で、歌の部分は高さ 1m 幅16cm に彫り窪め、「地元が誇る名刹とその歴史を、會津八一の歌と共に広く知って頂こうと考え、彼の遺墨に忠実な歌碑を建立することを」 企画したこと、「會津八一を私たちが慕う最大の理由は、彼が独我個人の主義を掲げた一方、極めて情に篤く、学生を始めとする多くの人達に強い影響を与えたことにある」 と書いている。

 

 會津八一が観心寺を訪ねたのは1921 大正10年10月26日であることは、市島春城宛の同日のはがきに 「本日は河内観心寺と聖徳太子の墓とに詣で候」 とあることから分かる(全集第八)。私が訪ねたのは10月27日だが、ちょうど100年目にあたるのも何かの縁だろう。『鹿鳴集』 には聖徳太子陵の歌に続いて観心寺の歌が収められている。

 

 歌碑の歌は、八一の最初の歌集 『南京新唱』 にも収録されている。観心寺の本尊を含む平安時代初期の仏像は、総じて量感があり肉感的なものもあるが、なかでも観心寺の如意輪観音像は官能的な美しさで知られている。今回この国宝秘仏を拝観できなかったことはまことに残念だが、植田重雄はその著 『秋艸道人會津八一の生涯』(1988年 恒文社)で、「『南京新唱』 は青春の歌である。仏像の官能美もかなり詠まれている」 として法華寺・室生寺の諸仏と並んで観心寺本尊の歌をあげ、「いずれも密教仏像の官能美であり、それに陶酔没入してゆく。これをもって、宗教的敬虔性から逸脱した冒涜として感ずる人は少ないであろう」 と書いている(p.205)。 (如意輪観音像の写真はネットから拝借した。)

 

 

 

 

 

 広い境内には豊かな緑と貴重な建物などがいくつもあるが、南北朝時代に建てられた入母屋屋根の金堂(国宝)は 7間×7間の大きなお堂で、内部は密教寺院らしく内陣と外陣とに分かれて荘厳な雰囲気だが、外観は和様を基調とした大仏様・禅宗様との折衷様式(例えば正面5間の出入り口の戸は禅宗様の桟唐戸で両脇の各1間は白壁に連子窓の和様など)で明るく軽快な感じの建物になっている。

 

 また境内にある霊宝館には本尊と同時代の仏像が多数展示されている。やはり空海と同時代の古刹であることを実感する(寺の歴史はもっと遡るようだが)。また南北朝時代の後村上天皇陵や楠木正成の首塚があり、南朝ゆかりの寺としても知られている。

 

<追記>

 上の文で會津八一が観心寺を訪ねたのは大正10年10月26日とした。これは事実なのだが、だから如意輪観音像を拝観したのもその日であり、その印象が歌碑の歌となったと思ったのは早合点だったことが分かった。じつは次のはがきがある事を見落していた。

 

 10月27日の大泉博一郎宛のはがきに 「昨日観心寺に赴きしも時間なしとて遂に如意輪観音をみることを得ず遺憾に存候。いづれ十二月に再び来りて見せて貰ふやうにたのみおき候へば、別に失望といふにはあらず候へどもいささか拍子抜の気味にて候。」(全集第八) とあるから、歌碑の歌も後日の拝観後に詠まれたと考えられる。

 

 では八一は12月に再訪して拝観できたのだろうか。全集の手紙・はがきを見ていくと11月から12月にかけて九州各地を訪ねて大阪に戻ったのは12月29日である。翌11年1月2日から9日までは奈良に滞在し、13日には四国の高知に出発している。この間に観心寺を訪ねたとは思えないが、もし訪ねたならば筆まめな八一のことだから手紙かはがきがありそうに思う。

 

 大正11年は四国・九州の旅から2月20日頃に東京の自宅に帰り、10月27日には再び奈良へ出発し11月13日に帰宅している。この間の手紙・はがきが全集にはないのでどこを訪ねたか分からないが、年譜(全集第十二) にこの時の訪問先が列記してあり、その中に河内観心寺もあるので念願の本尊を拝観できたのかもしれない。

 

 以上が全集所収の手紙やはがき、年譜で判明することのすべてになる。『自註鹿鳴集』 の 「さきだちて…」 の歌の註に、「住職は開扉に先だちて、弟子僧とともに厳かに加持祈祷し、恭しく扉を開きたる後、燭台を捧げてわれ等を導きたり。」 とあることから、如意輪観音像を拝観したのは間違いないがその年月は特定できないというのが私の結論となる。(11月6日)

 

 

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