会田誠『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』 | ムカデのあだ転び

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以前地元の美術館にて開催された「neoteny japan―現代美術の現在形―」を観たときの記録を残しておこうと思います。

四年ぶりに訪れたこの場所は、その間の街の都市整備事業によって大きく自身を取り巻く景色が変わる中で、以前と同じ佇まいで何だかほっとしました。

今回の展示のコンセプト―「neoteny」幼形成熟、生殖器官の発達に対して体の発達が慢性的に遅れることから生じる過渡的な差異の中にあること―は、コレクターである精神科医高橋龍太郎氏が日本の現代美術を横断するひとつの手立てとして標榜するもので「かわいさ、子どものような感性、サブカルチャー、卓越した技術力、内向性、物語性」といった要素を作品に読み解いていくようです。

また、個人蒐集家の美術展は、個々の作品だけではなく、蒐集家個人の美的感性や精神性に触れられる体験としても得難いものがあります。

奈良美智や村上隆、小川信治といった作家は以前目にしたことがあったけれど、今回初めて触れた作家たちも多く、またそれぞれに固有の表現空間を獲得していて総じて興味のつきない展示でした。

なかでも惹きつけられたのは、二点ばかりあった会田誠の作品です。

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『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』(1996)

何十何百もの夥しい日の丸戦闘機によって空爆された現代ニューヨークの街が描かれています。

蝶番で繋がれた六枚の襖を屏風に仕立てることで奥行きのある空間を創出するとともに、襖に貼られた日本経済新聞が画面となることで、絵筆は休むことを禁じられ、その細部にまで凄惨な空爆風景を描写するよう余議なくされています。

事実、画面はその街並みを除いては、すべて濃密な煙火で埋め尽くされていました。

また、六曲の屏風によって視界を塞がれた眼差しは、やむなく無機質に光るホログラムの戦闘機の螺旋、旋回を辿ることになり、またしてもぼくらはその執拗な空襲の反復へと連れ戻されてしまうのです。

不用意な発言かもしれませんが、ぼくがショックを受けたのは、本来凄惨な光景であるはずの空爆図において、目の前の画面がその本来的な光景に対してどこか軽妙な振舞いをしているということでした。

何らの迷い、逡巡もなく軽やかに旋回し続ける戦闘機、群れをなして爆撃を互いに反復しあうそのさま。
また、あたかも火災の街をただ飛び交うかのような、宙舞う戦闘機と地上の煙火を繋ぐ因果の希薄さ、その無関係を装った振舞い。

そして、既に決別したはずの大戦期を想起させる懐古的な表題や日本伝来の手法で描かれた煙火は怪しげにそこにあるべきリアリティを歪め、雲海のようにはりめぐされた金色の煙は地上にあるべき凄惨な光景を隠蔽しながら、地上の失われた煙上の楼閣、無人の世界を描き出していく…

このひとつひとつの作家のアレンジメントがあるべきリアリティを故意にすり替え、また覆い隠しているように感じられるのです。

「損なう人-失う人」、「奪う人-奪われる人」
この両者の隠匿された世界、当事者たちが不在の世界において軽やかに凄惨な光景が繰り返されていく、そうした振舞いが緻密に描き出されているのだとしたら、この作品には言葉では表現できない恐ろしさがあります。


あるいは別の視点から、この戦闘機が日本のものだと誰もが認めても、この戦闘機に乗り込んで何の躊躇いもなく爆撃を繰り返している当の人々がわれわれかもしれないということは同じように認められるだろうか。

こんな考えはナンセンスな問題意識でしかないだろう。ただそれでも、日本人としてこの画面の前に立つとき、どこか巧妙に「君たちはこの当事者ではない」と唆されてしまうような、そんな甘く軽やかな声をこの作品は忍ばせてはいないだろうか。