吉田拓郎を愛した『知識』人たち 岡崎武志 倉本一宏 柴門ふみ 重松清 江口寿史 江田憲司 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 コアなオールドファンならご存じだと思う。吉田拓郎に『知識』という歌があることを。1974年のLP『今はまだ人生を語らず』収録の、佳品ともいうべき、とてもいい歌です。

 同アルバムは『ペニーレーンでバーボン』で始まります。世の中への鬱憤をはき出すかのような詞で、『知識』も静かな調べながら、同系の趣きがあります。自由奔放な拓郎サンは各方面で軋轢を生んでいました。いわゆる「知識人」も怒りの対象であり、この歌でも「看板だけの知識人よ」と批判しています。

 当時拓郎サンには、井上陽水というライバルがいました。以下に紹介する引用文に書かれてあることですが、陽水は知識人に支持されていた。一方青春期に拓郎を体験し、その後、文筆業に就いたり学者になった人たちがいます。つまり拓郎ファンが知識人となったことになります。今日はその方たちが語る、「拓郎賛歌」をご紹介します。

 

 昨年ブログ筆者は、『吉田拓郎ヒストリー』をアップしています。三度の結婚歴を軸とした、女性遍歴物語です。本人の自著など、多くの公開資料を組みあわせ構成しました。しかしファンの立場を離れ、客観的に書いた結果、いささか辛口になってしまった。吉田拓郎を信奉した者として、軌道修正しなくてはならぬ。今日の一文は、そんな反省の意味も込めてアップしました(^_^;)

 

 さてブログタイトルで列挙した方々は、現在アラ還とされる世代です。その十代後半における熱き拓郎体験談を、執筆された活字メディアから引用させていただきました。知識人ゆえの達者な文章に、読みごたえを感じていただけるはずです。吉田拓郎ブレイク初期数年間の話であり、また相当マニアックな部分もありますが、幅広いファン層にお読みいただけれれば幸いです。

 


 

『知識』 収録

『今はまだ人生を語らず』

オリジナルLP盤ジャケット

 

 

引用させていただいた資料です。
深く感謝します。
 

・『雑談王』 岡崎武志著
・『京都新聞』 2019年12月
・『自分の事は棚に上げて』 吉田拓郎著
・『すばる』 2010年3月
・『レコード・コレクターズ増刊』 2010年

など

 

 

 

 

 

 

 まずは岡崎武志という書評家からです。氏は多くの本を著わしていますが、2008年の『雑談王』には、『拓郎に向かって走れ』との一章があります。この一文は、ブログ筆者が数多く読んだ拓郎評のなかで、もっとも共感し親しみを覚えたものです。そのままの引用は長尺過ぎるので、まずは冒頭部分を要約します。

 岡崎氏は2008年、吉田拓郎のラジオ出演を知ります。ほこりをかぶっていたラジカセを引っ張りだし、固唾をのんで放送開始を待った。前年拓郎はコンサートツアーを体調不良で中止し、数年前には肺がんの手術していた。ラジカセから流れてきた案外元気そうな声に、岡崎氏は安堵します。高校時代は、拓郎の深夜放送『オールナイトニッポン』の熱心なリスナーだった。自分のハガキが読まれた回の録音は今も時々再生し、また当時は、アルバム『明日に向かって走れ』までのすべての曲を、歌詞もコードもすべて記憶し、何も見ずギターを弾きながら歌えたという。

 では以下に、相当な長文(一部改略)となりますが、続きを引用させてもらいます。岡崎氏が吉田拓郎を知ったころの回想から始まります。

 

 高校へ入った一年目のある日。放課後、帰り支度をして、隣りの教室のドアが開いていて、黒板が見えた。そこに『せんこう花火』(吉屋信子・作詞/吉田拓郎・作曲)の全歌詞が書かれ、コードが振ってあった。「せんこう花火がほしいんです 海へ行こうと思います」で始る、わずか九行ばかりの詩に、見入ってしまった。それまで、読んだこともないような詩だと思った。アルバム『元気です。』1972年)に収録されている曲だと後になってわかった。

 決定的にファンとなるのは、73年に発表されたアルバム『伽草子』を聞いた時が最初だ。高二の夏だったと思う。友人が、級友数名と私の家に遊びに来て、買ったばかりだという『伽草子』を我がステレオでかけたのだ。

 『伽草子』『風邪』『暑中見舞』『夕立ち』『制服』『ビートルズが教えてくれた』など、一発でしびれた。土臭い匂いのする野太い声で、ときに軽く、ときに力強くシャウトする。メロディも、それまで聞いていた音楽の範疇からはみだした、新鮮で魅力あるものだった。ブラスを使ったアレンジも、それまで聞いた私にとってのフォークのイメージを一新させた。『伽草子』という、拓郎の全楽曲の中でも指折りの名曲を含むこのアルバムは、私の音楽生活をすっかり変えてしまった。作詞家・岡本おさみとのコンビにおいてもベスト、というべき一枚だった。岡本おさみの書いた「子どものように笑えないけど なにも考えず 駆けて 叫んで それから飛んで」(『暑中見舞』)といった詩句が、拓郎の曲に乗って、私のあばら骨のどこかにいつまでも引っかかっている。

 あわてて自分でも『伽草子』を、遡って『元気です。』『人間なんて』を買い込み、逆流を全力で泳ぐように、それまでの拓郎不在体験を埋めていくことになった。ライブ版の『ともだち』は、曲と曲のあいだに挟まるMCまでコピーし、拓郎熱を伝染させた友人と二人、学校から駅までの帰り道、そのセリフを暗唱してみせるほどの蕩尽ぶりだった。私が、1990年に上京し、その後『高円寺』に住むことになるのは、それが拓郎の住んだ町であり、アルバム『元気です。』所収の『高円寺』という曲の影響である。

 それにしても『元気です。』というアルバムタイトルはすごい。同アルバムにそんな曲はなく、ただ加川良作詞による『加川良の手紙』に 「おかげでぼくは元気です」という箇所があり、そこから取ったのだろうと思われるが、それでも『元気です。』と、最後に句点を持ってくるセンスがなんともいい。いまでは、「モーニング娘。」『クビ論。』など、アイドル名や本のタイトルに句点をつけるのは、珍しくもなんともないが、私の知るかぎり、それを最初にやったのがこの拓郎の『元気です。』だった。

 拓郎の歌の特徴は、大量の言葉数をコード進行の狭間に暴力的にねじこむところにあり、その勢いこそが快感だった。『制服』など、わずか一小節に二十字近くも言葉が押し込められている。それまでの歌謡曲や、既成のポピュラーソングは、たいてい五文字、七文字が精一杯だったから、いかに拓郎の楽曲における言葉数が多かったかがわかる。

 しかし、ギターを弾きながら歌うとなるとこれは難しい。『高円寺』『こっちを向いてくれ』『旅の宿』『制服』『ペニーレーンでバーボン』などは、弾き語りするには、リズムと歌詞を合わせるのに苦労したが、完全コピーすることで切り抜けた。『イメージの詩』なんて長い曲も、この頃は難なくソラで歌えたものだった。

 当時、拓郎と人気を二分したのが井上陽水で、『氷の世界』で初のアルバム百万枚を突破し、高い音楽性が評価されていた。その高踏的な詩の世界は、のちに文芸評論家の竹田青嗣が、キルケゴールやボードリヤールまで引っ張り出して『陽水の快楽 井上陽水論』(河出書房新社1986年)という一冊の本を書いたほどだ。インテリが褒めやすい音楽と言ってもいいかもしれない。いや、もちろん陽水は素晴らしいが……。中島みゆきも、仏文学者・詩人で宮沢賢治研究で知られる天沢退二郎による『《中島みゆき》を求めて』(創樹社・1986年)という、これまた難解な研究書がある。拓郎の場合、このようなインテリの接近はない。それは幸福なことだった、と私は思う。ボードリヤールと拓郎はあまりに似合わないからである。

 とにかく、拓郎と陽水は、周囲からライバル関係にある、と思われていた。阪神・巨人、志ん生文楽のように、二人は対極に置かれ、ファンもまた拓郎派、陽水派とに分れたのである。ちなみに拓郎は志ん生、陽水は文楽タイプ、といっていい。もう少し言えば、陽水を好きな女の子には容姿が芳しがらざるタイプが多かった。これ、ほんと。

 陽水派に言わせれば、「拓郎はどれを聞いても同じ。メロディなんてなくて、ただ早口でどなっているだけ」と批判があったが、これこそわかっていないの見本のような例だった。アメリカンポップス、R&B、日本の歌謡曲、ボブ・ディランなど、多様な音楽を吸収した拓郎の曲は、じつは多彩でメロディアスなのである。

 後年、由紀さおり『ルームライト』を始め、森進一『襟裳岬』、かまやつひろし『わが良き友よ』、キャンディーズ『アン・ドゥ・トロワ』など、ほかの歌手に曲を提供しヒットを飛ばすが、さまざまなジャンルの歌手が拓郎の曲を歌って我がものにしたことでそれは証明されている。仔細に検討すれば、カントリーウェスタン風あり(『結婚しようよ』)、ボサノヴァ風あり(『雪』)、バッハのメヌエット風あり(『加川良の手紙』)、ギンギンのロックンロール風あり(『君が好き』)、R&B風あり(『たどりつたらいつも雨降り』和田アキ子に歌わせたい)、童謡風あり(『夏休み』)と、多種多様なタイプの曲を書いている。拓郎はじつは希代のメロディメーカーなのである。あれは鈴木茂だったか。拓郎の曲をアレンジすると、すごく面白くて、勉強になるとどこかで話していたのも、その証左だろう。

 拓郎メロディで特筆すべきは、ツーコードによる進行の曲が多いことだ。『なんとかならないか女の娘』が、サビにいたるまで2カポでEmとG。『襟裳岬』が、これもサビにいたるまで、Bmを挾むが、基本的に3カポでGとEm。『ペニーレインでバーボン』もしばらく1カポでGとEmが交互に入れ替わりながら疾走する。名曲『高円寺』にいたっては、とうとう最後までEmとA7の繰り返し。3コード、4コード覚えれば、フォークのたいていの曲は弾ける、なんて言われたが、拓郎はGとEmさえあれば十分だ、と思えるほど、ツーコード進行が多い。それでいて単調にならない。二つの和音にまたがる空間を、自在に音を氾濫させることで、新しいメロディを紡ぎ出したのである。歌ってみればわかるが、このツーコードの往環上でシャウトすることは、たまらなく快感だ。

 あるいは、拓郎のベスト1かもしれない『春だったね』(詞・田口淑子)は、曲はまったくのボブ・ディラン『ハッティー・キャロルの淋しい死』のパクリ(本人が認めている)であるものの、「振り返りながら走った」という素晴らしい詩句を、疾走感あふれるメロディに乗せ、つんのめりながら春の土手を駆けていく絵が思い浮かぶ。

 

 岡崎氏の話はまだまだ続きます。しかしそこには、氏の拓郎熱が次第に醒めゆく経緯が綴られています。アルバム『大いなる人』のころには、歌に「疾走感」がなくなったという。その後、拓郎サンが中島みゆきの作品『ファイト』を歌ったとき、岡崎氏はふたたび疾走感を感じるようになった。そして引用冒頭にまとめたように、その復活を喜んだのです。

 

 それにしても、70年代初頭に拓郎ファンになった方なら、岡崎氏の心情・自己描写に共鳴されたのではないでしょうか。すくなくともブログ筆者は、遠い過去の拓郎体験を、岡崎氏が代弁してくれたように感じました。『元気です。』や『伽草子』を夢中になって聴いていたあのころを、ここまで詳細に再現してくれたことを、とてもうれしく思います。

 

 

 

 

 

 

 さて次にご紹介するのは、倉本一宏氏です。日本古代政治史を専門とする先生ですが、この方も相当な拓郎ファンのようです。引用文は、昨年の京都新聞に掲載されたものです。

 

 「最後のコンサートツァー」と銘打った吉田拓郎さんの「2019 ライブ73イヤーズ」が無事に終了した。これは1973年に中野サンプラザで録音した「よしだたくろうライブ73」と、当年73歳になられたことを引っ掛けたものである。実は私はかなり拓郎マニアで、東京に出てきてすぐに行った場所は、表参道のペニーレインだった。先年は「旅の宿」舞台の蔦温泉も訪れた。

 そういえば拓郎さんが久しぶりにラジオ番組を担当した「ラジオでナイト」も、103回の放送が終了した。生ギターを持ち込んで歌いながらの放送とか自分の歌についての解説とか、自分の曲の歌詞の読み間違い(「野心」を「のごころ」)とか、高校時代以来の秘蔵音源とか、自宅で録音したデモテープとか、とにかく面白い番組だった。今でもネットで聞けるのでぜひお勧めする。ギター講座もやってくれて、私もかつてフォークソング研究会にいたので、一緒に練習したくなったが、幸いギターは研究室に置きっぱなしなので、近所に迷惑をかけずに済んだ。

 ネットと言えば、先程のライブ73のフルバージョンが、ネットで聴ける。そこでは、早稲田大学の校歌や広島商科大学の応援歌、果ては「あんこ椿は恋の花」なんてのもあって、実はコンサートの実態はこんなだったのかと、かなりびっくりしたものである。

 

 ライブと言えば、70年の篠島ライブでの拓郎さんの発言が、私の人生の指針である。近所に住んでいる「TMN」の木根尚登さんに借りた業界用ビデオにあった発言であるが、「俺は顔も不細工で歌はへたくそナンバーワンだけど、ソウル(魂)だけは誰にも負けない。それだけで生きている」と言うものである。

 

 このライブがどうして人目に触れないかと言うと、「ペニーレインでバーボン」の歌詞の一部が問題だとして、この歌が入った作品は販売自粛とされたからである。特に代表作の「今はまだ人生を語らず」というアルバムが販売されなくなったとは、拓郎さんは実は不運な方なのである。近年のネットのデジタル配信でも、この歌だけは除かれている。

 不運といえば、拓郎さんの最大の不運は、74年のザ・バンドとの全国ツアーが中止になったことである。ボブ・ディランが突然に復活して、ザ・バンドと「偉大なる復活」全米ツアーに出てしまい、拓郎さんとのツアーがキャンセルされてしまったのである。拓郎さんは事務所の社長さんたちとそのツアーを見に行ったそうだ。その際、社長が奥さんの作ったおにぎりを持っていって、皆で食べたと言う話には、大いに笑った。ザ・バンドは76年に解散してしまったが、拓郎さんは80年に、ザ・バンドが使っていたシャングリラスタジオで録音し、しかもガース・ハドソンをミュージシャンに使い、アルバムの名前も「シャングリラ」にして、酒も断って録音に臨んだ。私は拓郎さんのアルバムでこれが一番好きなのだが、「男の夢をかなわさん」という拓郎さんの詞の一節を思いおこしてしまう。

 

 聖地ペニーレインを巡礼するのは拓郎ファンの定番だとしても、『旅の宿』の舞台まで訪れるとは、さすがマニアを自称するだけあります。実はブログ筆者は日本古代史が好きで、倉本氏の本(専門は平安期や藤原氏のようだが)もよく読みます。その方がまさかの拓郎ファンとは、引用した記事で初めて知りました。これはうれしかった。著書で古代を論ずる、いささか難解で堅い文章と打って変わった、とても楽しげな語り口には、心の中で快哉を叫んだほどです。

 

 倉本氏は本業の近著において、所在地論争のある邪馬台国に言及し、この国は九州にあったと主張しています。学会の趨勢は畿内説が有力とされているなか、敢然と自説を唱える姿勢は、拓郎サンの言う、「ソウル(魂)だけは誰にも負けない」をやはり実践されているように思えます。
 

 

 

 

 

 

 三人目のご紹介は、漫画家、エッセイスである柴門ふみ氏です。小学館文庫が98年に出した、拓郎サンのエッセイ集、『自分の事は棚に上げて』に解説を寄せています。これがウィットに富んでいてとてもおもしろい。

 

 吉田拓郎は、私にとって初ミーハー恋人である。高校一年の春、徳島市文化センターで催された拓郎のコンサートへ足を運び、「タクローッ」と、声を限りに叫んだのだった。思えばあれが私のミーハー人生の始まりであった。

 「ひとつのリンゴを 君がふたつに切る」という歌詞を耳にするや、八百屋にリンゴを買いにゆき、タクローが真っ赤な綿パンをはくや、似たようなものを徳島のデパートに探しに行ったものだ。十五、六歳の頃、私の心は完全にタクローに奪われていた。白いギターを買って、『結婚しようよ』や『旅の宿』を弾いたのもあの頃のことだ。YOUNG GUITARや、GUTSという音楽雑誌を買い漁り、タクローの写真を切り抜いて下敷きに貼りつけもした。本当に正真正銘のミーハー追っかけ娘だったのだ。

 それから歳月が流れ、私はひょんなことから、吉田拓郎のトーク番組のゲストとして出演して欲しいと依頼を受けた。私の血は逆流した。二十数年前の熱い想いが、同じ熱を持って私の全身を駆け巡る。ウブな田舎の女子高生か、憧れのスーパースターと対面できるのだ。見かけは四十の二人の子持ちの主婦であるが、心は十五の少女で私はウキウキとタクローに会いに出かけたのだった。

「ご主人、かっこいいですね」
 これが、タクローがまず最初に私に言った言葉である。
「最近、テレビでよくお見かけしますが、かっこいい人ですよね」
「あんなもんどこがっ」
 と、私は腹の底で絶叫した。

 浜に打ち上げられたトドのように裸で床に転かっている夫の姿しか、ここ数年私は目にしていない。が、テレビカメラが回っていたので、ちょっと首を傾けて微笑む私であった。タクロー、あなたは間違っている。と、私は心の中で呟き続ける。あなたはスーパースターであり、あんなトド男をかっこいいなどと言ってはいけないのだ。しょっぱなから意外な突っ込みを入れられて動揺した上、二時間弱の収録時間内では、お互い緊張して質問ばかりしあって、あまり打ち解けたトークとはならなかった。そのことを拓郎さんはしきりに謝罪され、何だかとっても申し訳なかった。

 さて、今回、ビッグコミックオリジナル誌上で連載されていた『自分の事は棚に上げて』の文庫化にあたり、改めて通読し、ああなぜトーク番組の前にこれを読んでおかなかったのかと、すごく後悔した。オリジナル誌上では時々目にしていたのだが、こうやってまとめて読むと、「吉田拓郎像」というものが、よりくっきりと浮かびあかってくる。なんて正直な人なんだ。私は、感動した。十五の時に、『結婚しようよ』を聴いた時に覚えたのと同じ感動だった。

 「ぼくの髪が肩まで伸びて きみと同じになったら  結婚しようよ ウムムー」男がそんなこと言ってもいいのか、と、十五の私は驚いた。けど、それが本心なのだから正直に言っちゃったわけなんだ。世間体や常識にとらわれることなく。このタクローの姿勢は、四十を過ぎ五十を迎えた彼にも脈々と息づいている。

 老後は、国に文化功労者として軽井沢に拓郎ホームを建ててもらい、そこでかつて拓郎ファンであった人々と同居生活を送るのが夢-こんなことを平気で語っちゃうのだ。そう、それが吉田拓郎。ポルシェを走らせながら、のろのろ運転の前の車に罵声を浴びせる。函館のホテルに到着したものの、一部屋の和室しかなく、そこで同行の男性二人がイビキ持ちと知るや、夜中二百数十キロ先の札幌のホテルまで移動する。妻につき合って、デパートの食堂に入ったものの、オバサンのおしゃべりがうるさいと言って、そのまま飛び出す。おとな気ない。

 彼のこういった一連の行動を、多くのおとなはこう評することであろう。もっと我を抑えて、おとなになりなさい、と。でも、正直なタクローは、「なぜ」と、目を丸くすることだろう。このエッセイ集で面白いのは、1テーマで書きながら、途中で言ってることがコロコロ変わってくるところだ。もうおとなにならなくちゃな、と、分別臭い書き出しで始まっても、いつの問にか、俺はそんなジジくさいのは嫌だ、嫌なものは嫌なんだ、で終わっちゃったりしている。

 タクローは、まだ、スーパーアイドルであった頃の「吉田拓郎」をいまだ引きずっている。そういう部分まで、きちんと正直に表現している。バカ正直な人なんだ、とことん。こういう男性を、女性の多くは、「可愛い」と、心奪われる。

 私は、吉田拓郎を広島系やんちゃ気質フェロモン男の代表だと言いふらしている。ご本人は、鹿児島出身だとおっしゃるのだが、原田真二、奥田民生と続く広島フェロモン男の系譜の頂点にタクローは立つと思うのだ。私はこう見えても、三歩下がって男の後を歩いてゆくタイプではないので、タクローの好みの女性ではない。ただし、本名は準子で、タクローの初恋の人と同じ名前なのは、何かの御縁だと思う。そんな御縁で、憧れのスーパースターのエッセー集の解説を書かせていただき、光栄の到りである。さて最後に、本書は、吉田拓郎の佳代夫人(森下愛子さん)に対する愛妻物語として読んでもとても面白いということをつけ加えておこう。

 

 柴門氏は、大ファンだと声高に叫びながら、タクローは子供のようだと、その行動の数々を遡上にあげている。カリスマに対して、男性ファンならとても言えないことを、女性ファンの特権か、遠慮なしに並べ立てているのです。この一文は拓郎サンの本質を見事に表現していると思う。単なる文庫本の解説ではもったいない、立派な「吉田拓郎論」なのです。

 

 ちなみに「柴門」とは「さいもん」と読むことを、ブログ筆者は今回はじめて知りました。ポール・サイモン由来だというこのお名前に、S&Gからの同じファンとして、さらなる親近感を抱いてしまいました。

 

 

 

 

 

 さて次は、作家の重松清氏です。氏は長年にわたる拓郎ファンを自認し、そのほとんどの歌をギターで弾き語りできるという。作家になる前は、音楽ライターを目指していた。

 

 拓郎サンは昔、某有名作家とラジオ番組で対談したことがあるのですが、5分と経たないうちに、相手の話がまったくわからなくなった。そのトラウマから、作家は苦手という偏見があったのですが、ずっとファンでいてくれた重松さんならと、2010年、氏のインタビューを受けることになりました。

 記事は雑誌すばるに掲載されました。しかしかなりのロング・インタビューです。とても引用できる量ではありません。ところが幸いというか、同内容がこのサイト(すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号)にアップされています。勝手な紹介となりますが、関心のある方は、そちらをお読みいただければと思います。

 このインタビューで拓郎サンは、「吉田拓郎であることに飽きた」と繰り返し述べています。デビューから40年、ファンが求める吉田拓郎像を演じてきた、その重荷が吐かせた言葉です。重松氏は「インタビュー後記」に、アルバムタイトル『元気です。』にひっかけて、こう記しています。

 

 吉田拓郎であることにうんざりしたと言いながら、その舌の根も乾かぬうちに「生まれ変わるなら吉田拓郎がいい」と笑う、その大いなる矛盾があるからこそ、吉田拓郎は元気です。

 

 これに似た評価は、さきほども出てきましたね。柴門氏の言葉を再掲します。

 

 このエッセイ集で面白いのは、1テーマで書きながら、途中で言ってることがコロコロ変わってくるところだ。もうおとなにならなくちゃな、と、分別臭い書き出しで始まっても、いつの問にか、俺はそんなジジくさいのは嫌だ、嫌なものは嫌なんだ、で終わっちゃったりしている。

 

 吉田拓郎という人は、「もう昔の歌は歌わない」とか「引退する」とかを声高に宣言しては、再三再四、前言撤回をくりかえしてきた人です。自著であっても対談であっても、その癖は変わらない。図らずも、拓郎ファンである両識者までもが、異口同音に指摘したことになります。岡崎氏の言う、「井上陽水や中島みゆきと違い、拓郎にインテリの接近はない」は、やはり無理からぬことかもしれません。でも拓郎サンはこれでいいのです。これでこそ拓郎サンなのです。

 さて重松氏は「インタビュー後記」で、『知識』についても記しています。ブログ筆者は拙稿の冒頭で、この歌は知識人批判の歌だとしましたが、次のような意味も込められていたようです。

 

 拓郎氏が1974年に発表したアルバム『今はまだ人生を語らず』には、『知識』という作品が収録されている。

 どこへ行こうと勝手だし/何をしようと勝手なんだ/髪の毛を切るのもいいだろう/気づかれするのは自分なんだ/うまくやるのもいいものだ/おいしいものには味がある/おしつけられたら逃げてやれ/気にする程の奴じゃない/人を語れば世を語る/語りつくしてみるがいいさ/理屈ばかりをブラ下げて/首が飛んでも血も出まい

 28歳の作品である。「中津川」の3年後、「つま恋」の前年、若き拓郎氏の歌った『知識』は、世間のおとなたちのヒンシュクを買いながらも「吉田拓郎の物語」をまっとうするぞ、という決意表明だったのか、それとも逆に、すでにして「吉田拓郎の物語」に倦みつつある本音を吐露したものだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 最後は、漫画家・イラストレーターの江口寿史氏です。むろん拓郎サンのファンであり、上の画像に添え書きしたように、そのアルバムジャケットまでも描いています。江口氏については、2010年発刊の『レコード・コレクターズ増刊』の記事(下の画像)からの紹介となります。著名人が選ぶ「音楽アルバムベスト10」という企画で、江口氏は『元気です。』を第一位に挙げているのです。これがとてもうれしい。

 実はこれまで紹介してきた方たちは、ブログ筆者よりもすこし若い。一学年から三学年、重松氏にいたっては七学年も下になります。そのためか、好きなアルバムが重なってはいても、ベストとなると微妙にズレている。その点、江口氏は同学年ゆえなのか、『元気です。』で一致しているのです(柴門氏も同アルバムの『リンゴ』を挙げ、岡崎氏も『春だったね』をベスト1としているから、同じ好みとは思われますが)。

 おそらくはブログ筆者がそうであったように、拓郎サンが『元気です。』でブレイクしたとき、江口氏もファンになったのかもしれない。ちなみに氏のランク10には、はっぴいえんど系がいくつもリストアップされています。この同じ趣向も、世代の一致を感じさせてくれます。

 

 

 

 

 江口氏は『元気です。』について、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はない」とまで記している。人生に決定的な影響を及ぼしたという意味と思われますが、その理由が知りたいところです。

 そこで探してみました。結果、一応ではありますが、「人生を変えた」?とおぼしき言葉がみつかりました。江口氏は今年、イラスト集『RECORD』を出版したのですが、そのネット記事で、吉田拓郎『一瞬の夏』ジャケットについて氏自身が語っていました。

 

 高1だったかな。吉田拓郎さんがすごく好きになったんです。少ない小遣いをやりくりしてレコードが出るたびに買っていたんですけど、なかでも『元気です。』は印象的でした。粒子の粗いモノクロの画面に拓郎さんの横顔がジャケットいっぱいに写っていた。しかも中に拓郎さんの手書きの文章が入っていて、それがまたとてもいいんです。今回の本(イラスト集『RECORD』)の僕のあとがきは、それに対する返答です。何十年もたって、やっと『ありがとう』って言えました。

 高校時代は拓郎さんになりたかったんです。音楽をやりたいというよりも(笑)。自分で曲を作ってみたりもしたんですけど、音楽の才能ないわって自分で思って、消去法で漫画を描き始めた。だから今でもミュージシャンに憧れがありますね。

 音楽にはずっと助けられています。だから、CDジャケットのイラストを頼まれると、恩返しという感覚で描いています。音を聴いてから引き受けるかどうかを決めるので、イラストを描いた方たちは好きなアーティストたち。好きじゃないと描けないですね。

 

 江口氏はここで、「拓郎さんの手書きの文章」と書いています。そうです、思いだした。アルバムに歌詞と一緒に入っていたあの紙片を。さっそく今はもうだれもいなくなった実家に帰って押し入れを開け、ダンボール箱から『元気です。』を取り出してみた。あった。なつかしい。

 

そしてスキャンした。きっと同じように、この緑色の紙をすっかり忘れている方のために・・・


 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

吉田拓郎を愛した『知識』人たち

 

 

 

 

追記

 

 2022年の7月、「週刊ポスト」で吉田拓郎の特集がありました。「吉田拓郎の詩が俺たちの人生を変えた」と題されたもので、俳優の中村雅俊氏ら数人の著名人が、それぞれ好きな一曲を選ぶという構成です。そのひとり、衆議院議員の江田憲司氏は『知識』を挙げ、若き日の拓郎体験を語りました。正直、この歌を”拓郎ベスト1”とする人は非常に珍しいと思う。一方、当稿にとっては願ってもない最高の選曲となります。そこで以下に追記として、江田氏の語るところを引用させてもらいました。ちなみに氏は、ご自身のサイトのコラムでも拓郎さんを綴っていて、ここでも『知識』を取りあげています。こんなにも拓郎が、そして『知識』が好きなのか。我が意を得たりで、とてもうれしく思います。そのURLも末尾に記しましたので、勝手な”推し”ながら、そちらもお目通しされてはいかがでしょうか。

 

 

「週刊ポスト」2022年7月22日号

「吉田拓郎の詩が俺たちの人生を変えた」

 

 「グループサウンズとか歌謡曲くらいしか聴いていなかったので、強い衝撃を受けました。すっかりファンになり、ギターも買って拓郎さんのコピーばかりしていました。1曲だけを挙げるのは難しいですが、政治家である今の自分の立場から選ぶなら、『知識』ですね」。こう語るのは、衆議院議員の江田憲司氏(66)である。

 

 「アルバム『今はまだ人生を語らず』(74年)に収録されている曲で、《自由を語るな不自由な顔で》《看板だけの知識人》《理屈ばかりをぶら下げて首がとんでも血も出まい》といったフレーズが並ぶ、社会性、メッセージ性の強い曲です。

 

 当時自分は高校生。理屈っぽい人間でしたから、自分を見透かしたような言葉が胸に刺さりました。自分で言うのも憚られますが、警察官の家庭で育ち、真面目で、人の道に外れず、学歴社会を生きてきた。そんな時に拓郎さんの歌に出会い、拓郎さんの世間に迎合しない無頼派的なスタンスに大きな影響を受けたし、憧れました。

 

 自分には拓郎さんの真似はできない。でも、42歳で官僚を辞めて人生をリセッ卜し、政治家になる決断ができたのも、拓郎さんの歌詞や生き方への憧れがあったからで、彼の歌に背中を押されたのは間違いありません。

 

 政治家になった今も自分は知識人側にいるのでしょうし、”お前ら身分を保証されてリスク取ってないだろう”と言われているように感じます。《看板だけの知識人》になっていないか、《不自由な顔で》自由を語っていないか。人生の転機や何か決断する時には、自分を戒める意味もこめてこの曲を聴き、自分の立ち位置を確認しています」

 

 

江田憲司サイト コラム