細野晴臣ヒストーリー  ~ 誕生からはっぴいえんどまで 〜  偶然から生れた伝説のバンドの物語 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

昨年末おこなわれた『細野晴臣50周年特別公演』。細野ファンとして、それなりの関心はありました。しかし開催は東京のみ。それも二日間の公演だったという。地方からおいそれと出かけるわけにはいきません。まぁそもそもが、チケットが手に入るはずもなかったのですが…

ブログ筆者は、細野の、はっぴいえんど期とソロ初期の信奉者です。YMO期の、あの「ピコピコ音」からは聴かなくなりました。その後のアンビエントとかになると、もうまったくわけがわかりません。今公演もテレビで見ましたが、イエローマジックショーなるもの、一体何がおもしろいのでしょう。好々爺然とした細野には好感がもてるのですが、オールド・ファンからすれば、やはり彼の昔の音楽が聴きたいものです。


さて、同じ年の瀬には、はっぴいえんどを語る番組もありました。WOWOWで放送された『TOKYO ROCK BEGINNINGS』です。日本のロックの黎明期を描いたドキュメンタリーで、相当マニアックな内容でした。しかし放送は土曜日の夜という時間帯。このようなゴールデン・タイムに放送されるということは、若き細野の音楽を懐かしむ人々が多いことがうかがえます。

そこで拙稿では、本やネットの情報、そして上記WOWOWの番組を資料とし、細野の足跡をたどることにしました。世に出る前の細野には、いくつもの運命の分岐点があったのですが、ほかの選択をおこなっていたら、はっぴいえんどは存在しなかった。このことにブログ筆者は強い興味をおぼえたのです。


以下では、そのポイントを強調しつつ話を進めています。はっぴいえんどのファンなら共感してもらえるかもです。また、細野の若き日々の歩みがなければ、YMOが存在しなかったことも間違いありません。幅広い細野ファンの方々にお読みいただければ幸いです。



参考資料
『定本はっぴいえんど』

『はっぴいえんど伝説』 萩原健太著

『HOSONO百景』 細野晴臣著
『音楽王 細野晴臣物語』 草野功編集
『TOKYO ROCK BEGINNINGS』 WOWOW

『細野観光』 朝日新聞出版

『はっぴいな日々』 レコードコレクターズ増刊

世界メディア・ニュースとモバイル・マネー

など

 

 

 

 

細野晴臣は1947年7月9日、東京港区白金台に生まれた。当時の白金は現在とは異なり、長屋風情の家が建ちならび、自然も多く残されていた。太平洋戦争が終わってまだ二年足らず。戦火の傷跡が生々しい時期だった。父の名は日出臣、母は玲子といった。晴臣の上には姉の理恵子がいる。

 

幼児だったときの記憶が、晴臣にはある。居間にちゃぶ台があり、そこに向かってハイハイし、立ち上がった瞬間、うしろから母親に抱きかかえられた衝撃までおぼえている。

晴臣はひとりで絵を描いたり、本を好む子だった。ぼんやりと空想したり、庭の草花のなか、飛び交う虫たちと一緒にいると、時間を忘れた。目黒の白金幼稚園に入ると、はるか大学までの学校の世界が怖くなった。自由な時代が終わって、集団の中に身を置くことがいやでしょうがない。そのため、泣きながら幼稚園に行った。身体検査のときは先生に逆らい、家まで逃げて帰ってきた。

隣家には母方の祖父母が住んでいた。祖父はピアノ工学や音響学理論分野での権威といわれた人である。日本における最初期のピアノ調律師として活躍した。職業柄祖父の家には、蓄音機とあらゆる種類のレコードがあった。レコードはクラシックに始まり、シャンソンやジャズ、軍歌、歌謡曲、落語、浪曲に、ハリウッド映画の音楽などもあった。母方の血筋には幸田露伴がいる。晴臣いわく、その腫れぼったい目は自分に似ているという。

まだ4~5歳のころ、晴臣も、祖父たちが聴く映画音楽やジャズに惹かれるようになる。ブギウギのリズムに自然と体が反応した。祖父の調律の音も毎日聴いて遊んだ。長じて晴臣は大学生のとき、ピアノ調律師になろうかと祖父に相談している。しかし祖父は「おまえには向いていない」と断じた。音楽的素養は認めつつも、絶対音感のない孫に的確なアドバイスをした。

よく知られた話だが、晴臣の父方の祖父は、あのタイタニック号に乗船していた。そして幸運にも救助された。事故は晴臣が生まれる35年も前のことで、生還なくして孫の誕生はなかった。同様に、母方の祖父からの影響もなければ、彼の音楽人生もなかったと思われる。

 

 

 

 

小学校時代

小学校はミッションスクールの立教を受験した。しかし最終的にクジで外れてしまう。区立白金小学校に入学した晴臣は、2年生よりピアノ教室に通いはじめた。すでに姉の練習を見ていたので上達は早かった。だが母親から無理強いされたことであり、ピアノは女の子のものと思っていた。とても恥ずかしく、友だちにはひた隠しにしていた。発表会の独特の雰囲気もいやだった。

5年生のクラスでは、となりの席の女の子と仲よくなった。そのころから胸の大きい子で、男の子の注目の的だった。卒業後はすっかり忘れていたが、大学に入ってから松本隆と知り合い、松本のバンドのステージを見に行くと、その子が来ていた。演奏後に松本から彼女だと紹介され、さらに驚いた。まもなく松本とその子は結婚をしている。

いやいやながらも5年生までピアノをやり、この間の練習で身につけたクラシックのメロディは、のちの作曲においてその礎となった。晴臣はピアノを除けば、音楽の正式な訓練は受けていない。そしてこのころから、ラジオの深夜放送を聴き始めている。テレビや、音楽好きの姉からも音楽の情報がたくさん入ってきた。家にあったレコードとは違うビートに、晴臣は酔いしれるようになる。

 

 

 

 

中学時代

60年、私立中学をいくつも受けたがすべて落ちてしまう。域内の公立中学はガラが悪く、越境して、区立青山中学に入った。しかし青中も同じだった。晴臣は不良とつきあうことはなかったが、まじめな連中より話が合った。ポップスなどは不良の聴くものと言われた時代、音楽の知識は彼らから得た。入学祝にと、両親からステレオをプレゼントされ、自分で初めて買ったLPは『テレビ主題曲集』だった。

1年生のクリスマスにはクラシック・ギターを買ってもらう。それからの晴臣は、日夜ギターを手離さなくなった。ステレオの前に正座して練習した。教則本を見ながら、コードを覚えていった。

2年になった61年、ベンチャーズが登場し、日本中がエレキ・ギターブームとなる。晴臣は友人の家の鉄工所でアルバイトをしてエレキを買う。さらには鉄工所のありあわせの材料で、ドラムも作ってしまった。そしてバンドを結成し、ラジオとレコードを教師代わりに、次第にテクニックが上達してゆく。内輪ながら、パーティーなどで演奏するまでになった。

音楽にだけに没頭していたわけではない。小学校以来の志望校である、立教高校の受験勉強にも励んでいた。英語は聖心女子大生、数学は早大生と、それぞれ家庭教師についていた。数学はそれでも不安だった。しかし偶然にも入試前日に参考書で解いた問題がそのまま出た。その配点も多く、合格することができた。もしこの幸運がなければ立教高校に入ることはなかった。後述する、立教大学の同級生人脈からつながる、松本隆や大瀧詠一と知り合うこともなかった。一夜漬けの勉強が、細野晴臣の音楽人生を決定させた。

 

 

 

立教高校

晴臣が立教高校を選んだのには、さらなる理由があった。中学のときにスペクタル映画『ベン・ハー』を観たのだが、主人公の母と妹の病が、イエスの奇跡で救われたことに大いに感動していた。以来高校は、キリスト教系へ行こうと決めた。しかし青山学院などのプロテスタント系はいやだった。伝統的なカトリック系の方が「奇跡に近い」と思った。だが実は立教は聖公会という、カトリックとプロテスタントの中間的存在だった。また入学してみると立教は金持ちの子弟が多く、中流家庭の子である晴臣は居心地が悪かった。

バンド活動は、中学時代のメンバーと離れたため自然消滅となる。立教では音楽仲間ができず、晴臣は他校である、芝高校のフォーク・グループに参加することにした。そしてよそ者でありながら、卓越した技量でたちまちリーダーとなってしまう。放課後の練習にも足繁く通い、芝高の秋の文化祭にも出演している。

 

 

こうしてフォークに傾倒していた晴臣だったが、ふたたびロックに熱中するようになる。新しいロック・バンドを結成したり、複数のグループでステージ活動をおこなった。そして第1回のライト・ミュージックコンテストに応募した。しかしテープ審査で落選した。

学校は付属校だが、誰でも立教大学に進めるわけではない。通算のテスト平均60点以上が必要だった。晴臣は68点で、条件をクリアしていたが、志望する経済学部に入れる成績ではない。やむなく社会学部の、それも人気のない学科に進んだ。しかし在学中は音楽活動や大学紛争のため、ほとんど勉強することはなかった。どこでも同じだった。


立教大学

 

大学生となった細野晴臣は、高校の音楽仲間とは疎遠になった。彼らの腕では飽き足らなくなったのだ。しかしその人生を決する、新しい仲間たちとの出会いが待っていた。

立教の同級生には柳田優がいた。柳田は自分のバンドに欠員ができたため、評判を伝え聞いていた、話をしたこともない細野に穴埋めを頼んだ。ところが柳田はベースをやってくれと言う。細野はベースを触ったことすらない。だがこれも勉強だと引き受けることにした。するとたちまち、天才ベーシストと呼ばれるようになった。柳田の誘いが細野の音楽人生を変えることとなった。

 

 

立教には、中田佳彦という同級生もいた。高名な作曲家、中田喜直のおいである。中田は細野に、友人である大瀧詠一を紹介しようという。その日細野は、大瀧が部屋に来るころを見計らい、マニアックなレコードをかけた。どう反応するか試したのだ。大瀧は部屋に入るなり、「お、ゲット・トゥゲザー!」と驚いた。細野は大瀧の深い音楽知識に満足した。しかし実は、大瀧が細野の意図を瞬間的に察知し、オーバーに反応してみせていた。細野はふたりとバンド兼研究会をつくり、音楽的交流を深めていった。

 

 

 

 

バーンズ

細野が大学3年のとき、慶応大学の松本隆という男から電話がかかってきた。あなたの評判を聞きつけたので、自分たちのバンドであるバーンズで、ベースを弾いてくれないかという。さっそくふたりは会ったが、双方のプライドゆえ互いの印象は悪かった。それでも細野は演奏でカネをもらえると知り、誘いに乗ることにした。生意気な松本の話が儲け話でなかったなら、破談となっていたかもしれない。結果、はっぴいえんどは生まれなかった。

 

 

細野はこのあと松本に腕前を披露するため、楽器店の売り場のベースでビートルズを弾いた。ところが三回やって三回ともつっかえてしまった。いいところを見せようと、難しい曲を選んでしまった。後日あらためて細野は、ジミ・ヘンドリックスを弾いた。バーンズのメンバーである松本や伊藤剛光は、細野の生き物のように動く指に驚き、深い音楽知識にも敬服することとなった。

ちなみに松本が細野の存在を知ったのは、偶然のできごとだった。バーンズには小山高志というメンバーがいた。小山が友人らと千葉へ海水浴に行ったときのことである。同じ海岸では、柳田優の仲間である立教大生が、音楽サークルの合宿をしていた。両グループは海辺で偶然仲良くなる。このとき小山らは遊び過ぎて持ち金がなくなっていた。様子を見かねた立教大生らは、小山らを自分たちの民宿に泊めてやっている。さらにはお互いのバンド活動を通じて、深い交流が始まることとなった。

 

柳田はWOWOWの番組で、「海岸で小山を拾った」と語っている。たしかに長大な千葉の海岸でのこの邂逅がなければ、小山が松本に、「立教に細野という天才的なベーシストがいるから電話して」と頼むことはなかった。はっぴいえんども生まれることはなかった。
 

 

バーンズ

 

 

こうして細野が加入したバーンズは、青山や赤坂のディスコで毎晩、朝までの演奏をくりひろげた。ある日細野は、松本の母親に呼び出されている。年長である細野が音楽活動を主導しているとし、「息子を悪い道に引き込まないで」と懇願された。しかしその願いも虚しく、松本は大学を中退してしまう。

 

一方の細野は、すこし先の話だが、卒論作成を松本に協力させている。社会学の担当教授に「これからはっぴいえんどという、世にも大事なバンドをやる」と、松本が書いた詞を提出した。細野は5年かかったが、大学紛争の混乱のさなか、このほとんど形だけの卒論で、無事立教を卒業している。




エイプリル・フール

次に細野は、柳田優の弟である柳田ヒロのバンド、『エイプリル・フール』に誘われる。エイプリル・フールはプロのバンドで、近くアルバムを出すという。プロらしい雰囲気を出すにはむさ苦しい奴がいいと、今でいうイケメンふたり(ベースとドラム)をクビにし、むさ苦しい細野に白羽の矢を立てたのだ。そのような事情を知らない細野は、アルバムをつくれる魅力と、月給5万円に目がくらみ加入することにした。当時のサラリーマンの給料は3万円のころだった。

このとき細野は、旧知のドラマー林立夫をエイプリル・フールに推薦している。林は年下ながら、抜きん出たテクニックですでに有名であった。しかし林は他のバンドへの加入が決まっていたため、代わりに第二候補の松本がエイプリル・フールに入ることとなった。つまり細野のドラマー評価は、松本より林だった。のちのYMO結成においても、細野は高橋幸宏より先に、林に声をかけている。

 

仮にエイプリル・フールに林が入ったとして、細野はのちのはっぴいえんどでは松本を選んだだろうか。はっぴいえんどのメンバーはエイプリル・フールの流れであったから、やはりそれは考えられない。つまりは松本ははっぴいえんどに入れてもらえず、松本が提唱した日本語ロックは誕生しなかったことになる。細野自身も林に断られたことを、「運命の分かれ目だった」と語っている。

 

エイプリル・フール

 

かくて発足したエイプリル・フールだったが、結成直後のレコーディング中、細野と柳田の大ゲンカが勃発してしまう。このため早々の解散が決まってしまった。しかしレコード会社との契約があったため、しばらくバンドとして活動した。いわゆるディスコでの生バンドとして活動し、連日何ステージもこなした。当時の水準では群を抜いた存在となり、アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』にも記事が載った。

一方でエイプリル・フールの事務所は、いろんな仕事をとってきた。島倉千代子ショーの前座もやり、伊豆の公民館ではお年寄りに最新のロック・サウンドを披露した。八丈島にも行き演奏したが、その帰り、細野は桟橋から海に落ち溺れかけた。祖父と同様、孫も海とは相性が悪いようだ。

細野はプロ・ミュージシャンとしての活動を始めたが、身分はまだ学生だった。就職シーズンが来ると、友人たちは次々と内定をもらうようになった。中田もキング・レコードに決まった。仲がよかっただけに細野はショックを受け、遅ればせながら大学事務所を訪れる。すると就職斡旋はもう終わったと告げられ、一層の疎外感をおぼえた。もし就職斡旋が終わっていなければ、音楽家細野晴臣は生れていなかったのかもしれない。

 

しかし一方で細野は、幼稚園のころに感じていた、集団生活はもうたくさんだとも思った。レールに乗るのは大学までで充分だ。音楽をずっとやっていこう。細野はそう決心した。



新バンド

新しい音楽をやりたい。細野は新バンドの結成を目論み、まず松本の賛成を得た。加えて歌のうまい、エイプリル・フールのメンバー小坂忠の同意も得た。ところがこのあと小坂はロック・ミュージカル『ヘアー』の出演が決まってしまう。このため細野は大きなショックを受けている。だが、ヘアーのオーディションの際には、細野は小坂のバックの演奏をしている。小坂の頼みによるものだが、いささか不可解な細野の行動であった。

 

新バンドはメイン・ボーカルを失ない、先が見えなくなった。困った細野は大瀧詠一に声をかける。大瀧は元来ポップス志向ではあったが、細野の構想を理解しメンバーとなった。

さきにもすこし触れたように、はっぴいえんどの日本語ロックは松本隆が唱え始めた。だが当時のロックは、英語で歌うのが常識だった。そのため松本は、細野や大瀧の反対に苦しんでいる。じつは脱退した小坂も反対であった。もしそのまま小坂がメンバーであったなら、メイン・ボーカルの立場から、より頑強に抵抗を続けていたと思われる。昨年末のWOWOWの番組でも、小坂はその趣旨の話を強調していた。つまり小坂のいるはっぴいえんどでは、日本語ロックが実現していなかった。

 

小坂忠

 

ここで話をバーンズのころに巻きもどす。

当時の関係者として、高叡華という女性がいた。高は慶応で松本隆の先輩であり、風林火山という、慶大生が運営するコンサート企画団体の主要メンバーでもあった。とあるコンサートを控え、高は松本に言った。「日本語でやれば?」と提案したのだ。後輩である松本は言われるまま詞を書き、細野が曲をつけ、ステージで歌われた。これが日本語ロックの処女作となり、はっぴいえんどにつながっていくこととなった。

松本はこれまで数多くはっぴいえんどについて語ってきているが、この事実については忘れていたようだ。実際ブログ筆者の知るかぎり、どの資料にも書かれていない。最近松本は高と話す機会があり、記憶がよみがえってきたという。WOWOWの番組でそのように打ち明けていた。さらには「この人がいたからはっぴいえんどができた」とまで、高の存在に感謝している。

 

高叡華

 

高叡華は、のちに小坂忠と結婚している。はっぴいえんどから小坂が抜けたことにより、日本語ロックが実現したという逆説が成り立つなら、この夫婦はそれぞれの立場から、図らずもはっぴいえんどを生み出したといえる。



はっぴいえんど

さて、はっぴいえんどは鈴木茂をメンバーに迎え、活動を開始した。しかしファースト・アルバムである通称『ゆでめん』では、細野は産みの苦しみを味わっている。納得のいく楽曲はできず、また自らの低音は、歌う上での足かせとなっていた。おまけにベースを弾きながらでは歌うことができず、ステージでは大瀧に代わってもらっている。

細野はしかし、ジェームス・テイラーで開眼した。その創作法・唱法を取り入れることで、名曲『風をあつめて』や『夏なんです』を作りあげた。これらをおさめたセカンド・アルバム『風街ろまん』は、日本ロック史上の傑作とされることとなった。

しかしこのアルバムは、じつは存在しなかったかもしれない。細野のある日の行動が予定通りであったなら、間違いなく存在しなかった。この話を最後に紹介して、拙文の締めくくりとしたい。



風街ろまん

以上ここまで再三にわたり、細野の運命の分岐点について語ってきた。だがそれらは、人生における選択、あるいは偶然性の話であった。細野のミュージシャン人生、あるいははっぴいえんどが誕生したかどうかという話であって、命に関わる話ではなかった。しかし以下に述べることは、まさしく細野晴臣の生死を分けた、とある重大事故の話である。

アルバム風街ろまんの発売は1971年の11月であった。楽曲の収録は、同年の5月から10月にかけておこなわれている。全12曲が、他の仕事の合間をぬい、漸次レコーディングされた。ここで問題とする事故は、収録期間中の、とある日におきた。もし細野がこの事故に遭遇していれば、以降の収録はなかったことになる。アルバム制作は頓挫し、風街ろまんはこの世に生れていなかった。はっぴいえんどの歴史的評価はゆでめんから始まっているが、決定的な評価がなされたのは、風街ろまんにおいてであった。はっぴいえんどは、幻のバンドとなっていたかもしれない。

しかし問題は単なるアルバムの話ではない。一ロック・バンドの話でもない。くりかえすが、細野晴臣というひとりの青年の、命の問題であった。そのとき24歳の、若き細野に何があったのか。



全日空機

風街ろまんが発売されるすこし前のことだった。細野は鈴木茂とともに札幌の放送局での仕事を終え、千歳空港から空路東京へ帰ろうとした。全日空便の予定だったが、案内板を見ると、日航便の方がすこし早く出発することに気づく。ふたりは日航のスチュワーデスのほうが美人だろうなどと、軽口をたたきながら、便を変更し搭乗した。

家に着くと電話がかかってきた。「あ、生きてたのか!」。それからも電話は鳴り止むことはなかった。71年7月30日、千歳発東京行きの全日空機が、岩手県雫石町の上空で自衛隊の戦闘機と空中衝突、全日空機の162人全員が死亡した。

 

 

 

 

 

 

細野晴臣ヒストリー

 

 

 

ブログ後記

この一文を書いたきっかけは、冒頭に述べたWOWOWの番組でした。松本隆の友人が千葉へ海水浴に行ったことから、はっぴいえんどが生まれたというエピソード。この逸話がとてもおもしろかったからです。

じつは以前から、細野晴臣を書きたいと思っていました。一昨年、松本隆の話をアップしたときから、その資料集めのなかで、細野にははっぴいえんど結成に至る一連の流れがあると感じていたのです。それを明確にしてくれたのが当番組でした。何かがひとつでも横道にそれていたなら、やはりはっぴいえんどは生れていなかった。

 

しかし言うまでもありませんが、運命なるものは、良いことばかりではありません。その典型例が、細野の祖父のタイタニック遭難でしょう。このいきさつは細野を語る上で欠かせない話です。ネット上にも記事があふれています。しかし、全日空機の事故に細野がからんでいたことは、ほとんど流布されていないようです。このエピソードは『音楽王細野晴臣』という、36年前の彼のオフィシャル本に書かれていますが、細野ファンでもはじめて知った方もおられるかもしれません。

 

何はともあれ、細野は巻き込まれずに済みました。搭乗前のほんの気まぐれがなければ、風街ろまんの誕生はおろか、以降の華々しい活躍も、音楽生活50周年も迎えることもなかったのです。そのことを思うと、運命たるものの恐ろしさに、あらためて感じ入ってしまいます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。