「無敵超人 ザンボット3」(1977年作品)第11話~20話 感想 | 深層昭和帯

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古い作品で作画もボロボロなのにこんなに面白いとは。やはり傑作。



第10話までは、抵抗し戦うから敵がやってくるという戦後日本の間抜けな言説が、戦う者たちをどんな酷い目に合わせるかという視点が目立っていたが、11話以降は徐々に相互の間に信頼が生まれてくる様子が描かれている。

主人公である神勝平(CV:大山のぶ代)とかつての友人たちとの和解は、殺伐とした物語に癒しをもたらしてくれる。みんな必死に戦い、必死に逃げ、何とか生き延び、相手の思いやりに気づいて頑なな心を開いていく様子が泣ける。そういえば、子供アニメって泣けたよなって思い出させてくれる。これはいまでも売れてる作品はみんなそうだ。

ところが、第16話以降はまた様相が変わってくる。「無敵超人 ザンボット3」を知ってる人が最も強く記憶していること、それが人間爆弾だ。

これは敵であるガイゾックが、人間の背中に爆弾を埋め込み、記憶を消した上で難民の中に戻して、突然起爆させるという兵器のことなのだが、リアルな兵器としてどうのこうのということではなく、人間が突然兵器にさせられる恐怖をアイデアとして持ち込み、その恐怖と恐怖を克服する精神を描いたという点で印象深いのだ。

富野喜幸(現富野由悠季)の皆殺し癖のように語られがちな人間爆弾であるが、これはかつて日本がやった特別攻撃を描いたものだ。そこには、人間を兵器にする非人道性を恐怖の演出とともに描き出している。

神勝平の友人であるアキが人間爆弾に改造されて死ぬ場面など、やるせない気持ちでいっぱいになる。かつて日本軍はアニメの中の敵キャラのように自国民を人間爆弾にして殺していたのだと思うと、腹立たしいことこの上ない。

さらに富野は、こうした非人道的な戦争の中で、人間爆弾にさせられた人間たちが、その精神を破壊されてしまう様子や、精神性で恐怖を克服して死んでいく様子なども描く。仲間を道連れにするわけにはいかないと孤独に離れていく友人が突然死の恐怖に苛まれ発狂したり、どうせ死ぬならガイゾックに一撃を加えてやると突っ込んでいったりしながら、物語はのっぴきならない地点へと追い込まれていき、第20話では、ザンボット3に搭乗する勝平、宇宙太、恵子の3人の子供が、睡眠学習によって敵に対して恐怖を感じないように深層心理から矯正されていることが明らかになる。ガイゾックと戦う神ファミリーもまた、敵に勝つために子供たちに非人道行為を行っていたのだ。

富野の面白さはこういったところだ。もちろん彼一人でアイデアを出しているわけではなく、共同原作者や脚本家や企画の人間などもいろいろアイデアを持ち寄って作られたわけだが、根本的に富野のアイデアがなければ「無敵超人 ザンボット3」はこうした作品になっていない。製作に関わっている人たちに刺激をもたらす根本のアイデア創出が素晴らしいのだ。

富野由悠季が「機動戦士ガンダム」以降有名になり、宮崎駿もまた「風の谷のナウシカ」で有名になったころ、NHKでふたりにスポットを当てた特集が組まれたことがある。宮崎駿は自分の思うところを上手く伝達できずゴニュゴニュ言っていただけだが、当時調子に乗っていた富野はハッキリと「自分は子供にウソをつきたくいない」と断言した。彼の考えるリアル思考とは、現実的という意味のリアルではなく、人間性のリアルであった。あくまで人間性を描き出すための創作だった。

「無敵超人 ザンボット3」はリアルロボットアニメの元祖的な立ち位置にある作品であるが、そのリアルさはのちのリアルロボットアニメのより現実的な世界観を追求したものでもなければ、現実的に作れそうなロボットという意味でもない。愚かな人間がいかにもしでかしそうな悲喜劇のことであった。

演出面では、富野の感情表現に多くの尺を取らないという方針と、演出家のしっかり悲劇を伝える手法がせめぎあっており、まだそれほど絶対的権限がない時代だとわかる。「伝説巨人イデオン」までは富野にさほど強い権限はないのだ。富野の個性が前面に出されるのはそれ以降の作品だ。