重要文化財 青木繁 《海の幸》1904年
今日の1枚のアート(←勝手に名付けた)
東京駅からすぐ近く、京橋のアーティゾン美術館の至宝です。
よく常設展にかかっている作品。
どなたも、一度は図版などで見た記憶がある作品?
●青木繁 《海の幸》
10人ぐらいの裸の男性が、モリを持ったり、魚を担いだりして、海辺を歩いています。
とても勢いがある絵。なんかワクワクする絵ですよね。
よく見ると、中央部の人物はきちんと描かれていますが、画面の脇の方へ行くとラフな人物像のままなのです。
それが独特の魅力になっていると思います。
絵画が、完成を重視した職人風のものから、芸術性を重視したものになってきたということ?
■青木繁(1882−1911)とは
1882年に福岡県に生まれの、明治時代の洋画家。
彼がまだ20歳になる前の1900年。歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻によって、雑誌『明星』が創刊されました。
そこでは文学だけでなく、美術、特に油絵などの新しい自由な芸術が、封建時代の風習に変わり熱く語られていました。
そんな自由な時代背景の中で、青木繁は画家としてデビューしていきます。
■《海の幸》にまつわるエトセトラ
この《海の幸》で彼は画壇に鮮烈な印象を残します。その後、やはり重要文化財に指定されている《わだつみのいろこの宮》という代表作も発表します。
しかしながら、私生活などにも問題を抱え、郷里の九州に戻り、放浪生活の末、28歳で結核によって亡くなってしまいます。
この《海の幸》は、1904年、東京美術学校を卒業したばかりの、青木繁が友人の坂本繁二郎や、恋人の福田たねらと一緒に千葉県館山の布良海岸に写生旅行に行き、その1ヶ月半の滞在の間に描いた大作です。
のちに、坂本繁二郎の話によると、坂本が漁港での大漁の際の賑わいを見て、そのことを青木に語ったそうです。
その話を聞いて、青木はとても興味を持ち、その風景を想像してこの絵を創造したと言われています。
実は坂本は自分の見た風景と、この絵は全く違うものだと語っているようですね。
つまりこの絵は、実際の風景を見たわけでなく、青木繁が頭の中で構想し、全てを構想して描いたものなのです。
▼部分
中央部分
白い顔の人が目立ちます。
恋人の福田たねをここに描いたという話もあります。
▼部分
画面の左側
あまりきちんと仕上げていないことがわかります。
一番前に歩いている2人の姿と魚は中央部に比べて、描き切っていないようですね。
▼部分
一番右側の部分
最後を歩いている人の足元などに、元の下書きの線が残っているようですね。
ラフな描き方がとても動きがあって、独特の魅力となっています。
未完成が悪いわけではない。
そのことがわかりますね。
完成していないこともあって、画面に勢いが生まれているような気がします。
■青木繁と坂本繁二郎
アーティゾン美術館での展覧会2人の展覧会の記事です。
なお、この絵は1967年、高橋由一《鮭》。浅井忠《収穫》とともに、油絵のジャンルで初めて重要文化財に指定されました。
青木繁の評価が上がって行ったのですね。