大好きな俳優の1人、津川雅彦さんが8月4日に亡くなっていたことがわかりました。78歳。死因は心不全。


葉がかけるように、次々と好きな俳優さんたちが亡くなっていきます。悲しいことです。


既に、ネット・新聞ではこのことが大々的に報じられています。重なったことをただ書くのでは、故人の冥福を祈るには物足りないし、失礼です。


そこで、一映画ファンとして若い頃の津川さんの動きを中心に振り返り、しのびたいと思います。




昭和15(1940)1月2日、京都生。本名 : 加藤雅彦。父は歌舞伎から映画に転向した沢村国太郎、母は「日本映画の父」と呼ばれたマキノ省三の娘マキノ智子。この両親の三男として生まれる。兄に長門裕之、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子を持つ「映画一家」に育つ。


5歳の時に大映作品「狐の呉れた赤ん坊」(丸根監督)に出演、以後、同志社中学に至るまで「獅子の座」(伊藤監督)、「山椒太夫」(溝口監督)などの映画や舞台に出ていた。昭和31(1956)年早稲田大学付属高校入学と同時に日活に入社。「狂った果実」(中平監督)では、石原裕次郎扮する太陽族の兄の反道徳ぶりに怒り、自らの純愛のため兄と女をモーターボートで轢き殺すという一途に思い詰める純情な若者を演じた。なお「津川雅彦」の芸名は、本作の原作者、石原慎太郎によるものである。


「十七歳の抵抗」「禁じられた唇」等に相次いで出演するも、同社所属の兄、長門の影が薄くなる事態となり、出演は舞台にして日活から敢えて遠ざかり、「惜春鳥」(松竹)出演を機に松竹に移った。そこで「バナナ」(渋谷監督)、「日本の夜と霧」(大島監督)など、当時20代の先鋭若手監督の諸作品に出演。


しかし、独立プロ映画「キューバの恋人」(黒木監督)での、キューバロケでの共演者とのロマンスなど、映画よりも、司葉子・デヴィ夫人らとの女性関係の話題の方が多かった。


このように、青年期までは俳優というよりも、ゴシップの方が多い人であった。


昭和48(1973)年、33歳の時、朝丘雪路と結婚。一女を設けるが誘拐騒動もあった。




「役者」として「真の評価」を得るのは、中年期以降であろう。味わい深い演技を見せるようになる。特に、伊丹十三監督との出会いによって、「ゴシップ派」から「演技派」へ転換を遂げる。


伊丹作品、とりわけ、「お葬式」(1984)、「タンポポ」(1985)、「マルサの女」(1987)、「あげまん」(1990)では、彼のイメージを大きく変えた。(「マルサの女」では日本アカデミー賞助演男優賞・毎日映画コンクール男優主演賞・キネマ旬報賞助演男優賞受賞)


一方で、渡辺淳一原作の「ひとひらの雪」(1985)「別れぬ理由」(1987)(キネマ旬報賞助演男優賞受賞)では、中年男の色気を滲ませた。


「マノン」(1982)では、ブルーリボン賞助演男優賞を受賞し、小田和正初監督作品「いつかどこかで」(1991)では時任三郎演じる若手建築家の名上司を演じた。


晩年は、「マキノ雅彦」を名乗り、3本の監督作品も残した。「寝ずの番」「次郎長三国志」「旭山動物園物語」。






以上、駆け足でその足跡を辿ってみました。


軽さと重厚さを巧みに演じ分け、男の色気と変幻自在の演技で二枚目から悪役まで幅広い役をこなす名優だったと思います。


冒頭でも書きました通り、マスコミがあまり触れないであろう青年期までを中心に書いてきたつもりです。しかし、私自身が、加齢とともに増していく彼の演技力のファンであるため、どうしても

紙幅が晩年に偏った感は否めません。申し訳ありません。


ご存知の通り、彼は、奥様を今年4月に亡くされたばかり。最後は施設から引き取り、認知症の妻を献身的に介護したと聞きます。


津川雅彦公式サイト



下戸の私は、弔い酒ができません。


せめて、好きだった「いつかどこかで」(DVDになっていません)を、粗い画質で見ることにしましょうか…。


合掌。