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佐藤忠次郎 ( さとうちゅうじろう )


筆者が子供の頃の稲作は家族総出で収穫したものでした。
今日の稲作と違い、田園に多くの子供たちの声がこだましていました。収穫した稲は神仏に供えられ、新穀の恵みに感謝したものでした。
動力脱穀機、動力籾摺機が導入されていましたが、それでも人出はかかったのです。
当時の農家には必ずあったのが、稲麦こぎ機でした。

この稲麦こぎ機を開発したのが佐藤忠次郎(さとうちゅうじろう)翁でした。





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忠次郎翁がつくり出した稲麦こぎ機


佐藤忠次郎翁 は、明治二十年(一八八七年)、 八束郡東出雲町 ( やつかぐんひがしいずもちょう ) で生まれました。
十二歳のとき、父が目の病気にかかり働けなくなったため、忠次郎翁は一家の生活を見なければならなくなりました。そのため、せっかく進学した高等小学校を辞めて、わずかでしたが、 親戚 の家の農業の手伝いをして収入を得るようになりました。
十四歳のころからは、近くの 銅山 ( どうざん ) へ行って、大人に交じって働き、その収入で家族の生活を支えていました。その間には、祖父や祖母だけでなく、母までも亡くなるという悲しいできごとが続きましたが、忠次郎翁は決してくじけることはありませんでした。
やがて、目の病気が治った父は、再び農業の仕事を始めました。忠次郎翁は、銅山から帰ると、父の農業の手伝いもしました。
そのころの農業は、田を起こすのも稲をこぐのも、ほとんどを手作業に頼っていました。忠次郎翁も、一 鍬 ( くわ ) 一 鍬 ( くわ ) 田を耕したり、一株一株田植えをしたりしました。



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千歯扱



 秋になると、 千歯 ( せんば ) という道具を使って稲こぎもしました。千歯は長細い鉄の歯を 櫛 ( くし ) のように並べたもので、その歯の間に稲をはさみ、引っ張って 籾 ( もみ ) を落としました。
それは、力がいって時間のかかる仕事です。夜遅くまで働きながら、忠次郎翁は「もっと仕事が早くできるような機械をつくれないものか」と考えるようになりました。
そこで、忠次郎翁は、まず新しい稲こぎ機をつくり出そうと研究に取り組みました。しかし、自分で考えたものをつくってみるのには、金属で道具をつくる 鍛冶 ( かじ ) (金属を熱して 鍛 ( きた ) えいろいろな機械、器具をつくる)の仕事ができなければなりません。
「そうだ。鍛冶屋の仕事を習おう。そうすれば、自分で機械をつくれる」
そう考えた忠次郎翁は、銅山の仕事をしながら、 暇 ( ひま ) を見て鍛冶の仕事を習いました。
その仕事がひととおりできるようになると、銅山の仕事が終わってすぐに仕事場に飛び込んで稲こぎ機の研究に取り組みました。
「もっと、一度にたくさんの 籾 ( もみ ) を落とすことはできないものか」
「こんなに力を入れなくても、籾を落とすことはできないだろうか」
忠次郎翁の研究への意欲はますます大きくなっていきました。考えてはつくり、また考えてはつくり直すという努力を続けましたが、なかなか満足のいくものになりませんでした。

ある秋のことでした。忠次郎翁は、稲こぎ機のことを考えながら、自転車で田んぼ道を走っていたとき、くぼみにはまり込んでしまいました。打った足の痛みをこらえながら起き上がった忠次郎翁は、目を見張りました。横倒しになった自転車の車輪が、回りながら稲の穂をパラパラと飛ばしているではありませんか。
「そうだったのか。この方法を使えばいいのだ」
忠次郎翁は新しい発見に喜びの声を上げました。
それからは、研究にいっそう力を入れるようになりました。
「足で踏むとうまく回転するようになったなあ。これに稲の穂をあてれば籾がよく落ちるだろう」
「しかし、歯がよくない。切れ過ぎて籾を傷つけてしまう」
「針金を歯にするといいぞ。三角形の山の形にすればどうだろう」
忠次郎翁はつくってはやめ、つくっては壊しました。家の外には、試しにつくった機械の山ができました。それでもあきらめる忠次郎翁ではありませんでした。
こうして、大正三年(一九一四年)、忠次郎翁二十七歳のとき、ついに回転式稲こぎ機をつくり上げました。農機具の研究に取り組んでから七年が過ぎていました。
「これなら、うまく稲こぎができるはずだ。でも、実際に使ってみてもらわなくてはいけない」
そう考えた忠次郎翁は、まずその機械を五台つくり、「サトー式稲麦こぎ機」と名付けて、近くの農家で試してもらいました。
新しいこの機械の評判はなかなかよく、明くる年には三○台をつくって島根県各地へ出荷し、やがてその機械は全国へと広まっていきました。



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中耕除草器



大正6年には中耕除草器も考案し共に好評で販売の目途もたったので、翌年揖屋に小さな工場を建て「佐藤商会」として製作販売に乗りだしました。
 その後サトー式農機の名声は全国に広まり工場も大拡張し製作販売も莫大な数字を示すようになりました。そして昭和2年には朝鮮釜山府に支店、昭和12年には新京に満州支店を開設するまでに社業は発展しました。
 その後、動力脱穀機、動力籾摺機などを考案し、日本一流の農機具メーカーとして名を挙げました。
忠次郎翁は、事業関係のみでなく政界でも活躍し、揖屋村長となった翌年町制を誕生させ倒れるまでの10年間町長の任にありました。また、県議会議員としても6年間県政に参与し大きな足跡を残しました。昭和19年1月宿痾の喘息のため死去、享年58歳でした。
昭和20年2月佐藤造機株式会社に社名変更。
昭和55年2月佐藤造機株式会社を存続会社とし三菱機器販売株式会社と対等合併、社名を三菱農機株式会社として今日に至っています。

以下のコメントは、筆者が尊敬してやまない「さくらの花びら」大兄が拙稿、一三〇〇年の時を経てよみがえった朱雀門にいただいたコメントです。

先達の偉業、並々ならぬ辛苦と自分の信念を曲げない強さは我々現代日本人が失っているものです。そこには教育が大きく関わるはずです。先達の偉業こそ学び、知り、その意志を受け継いでいくべきものです。

かっての日本人には、武士道、やまとごころが息づいていました。
指導階級としての武士は明治維新によって失くなりましたが、しかし、その矜持までは失いませんでした。
しかも明治大帝が渙発された「教育勅語」によって指針が定まり、修身教育によって補完され、非の打ちどころのない教育がなされていました。
今日、我々が手にし、享受しているものはすべて先人・祖先が遺した偉業のもとに繁栄を享受していると言っても過言ではありません。
我々は先人に学び、その精神を継承してこそ「真の日本人」と言えるのではないでしょうか?
今回記事とさせていただいた佐藤忠次郎翁は艱難辛苦の末、農機具を発明されました。
その意志の強さ、忍耐力は今日の日本人が大いに学ぶべきではないでしょうか?





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