京都の祇園祭で巡行する
山鉾「橋弁慶山」は、
牛若丸(義経)と弁慶が五条大橋の上で
戦う姿をあらわしており、
数ある義経の物語の中で謡曲「橋弁慶」を
題材としています。









橋弁慶山とは』




山鉾の由来】

紐解けば、
五条橋で牛若丸と弁慶の出会いが舞台となった謡曲「橋弁慶」
がそのルーツである。

祗園祭は、貞観11年(869年)に京都で
疫病が蔓延し、その疫病退散を祈願して、
旧暦6月7日に神泉苑に66本の矛を立て
祭祀を行い、14日には洛中の男が神輿を
神泉苑に送って厄除けを祈った
「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」を
起源とします。

橋弁慶山は、牛若丸と弁慶が五条大橋の上
で戦う姿をあらわしており、
数ある義経の物語の中で謡曲「橋弁慶」を
題材としています。

弁慶は鎧姿に大長刀を斜めにかまえ、
牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っている。
橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は
足駄金具一本でこれを支えています。



狂言「鬮罪人(くじざいにん)で、
室町期の町の人々がその年の祇園祭の趣向
を相談する話で橋弁慶山と鯉山が登場し、
当時すでに両山が存在していたことがうかがえます。
また、橋弁慶山は、古来より鬮(くじ)取
らずで後祭の先頭を巡行してましたが、
明治5年以降は北観音山が復興されたため、編成上の理由で次の二番目に巡行することになっています。
舁山では唯一の鬮(くじ)取らずの山で、
また、巡行時の鬮(くじ)改めの時、
奉行の前で山をまわさず特別扱いになっています。






文化財としての橋弁慶山

橋弁慶山(はしべんけいやま)

昭和37年(1962年)5月23日に
重要有形民俗文化財指定の指定を受けた、
鉾7基・曳き山3基・舁き山19基の一つです。



橋弁慶山町家
(はしべんけいやまちょういえ)

昭和54年(1979年)2月3日に、
橋弁慶山、霰天神山、山伏山、北観音山、
南観音山、放下鉾、役行者山の7山鉾町内
が、重要無形民俗文化財指定の指定を受けました。






黒韋威肩白胴丸
(くろかわおどしかたしろどうまる)

「重要文化財・室町時代のもの・収蔵品
(胴丸(大袖付)、喉輪、脇曳、籠手、
臑宛、宝幡楯)」

橋弁慶山伝来の胴丸で、昔、実際に
弁慶人形に使用していたものだと言われています。
昭和57年(1982年)6月5日に重要文化財
の指定を受けました。
現在は、京都国立博物館に収蔵されております。


胴丸とは、胴回りが一連となって引き合わせを右脇に設け、草摺(くさずり) が
細かく分かれ動きやすくした甲冑(かっちゅう)で、南北朝~室町時代に流行したものです。

橋弁慶山伝来の胴丸は、黒漆を塗って
盛り上げた革と鉄の小札(こざね)を交互
に重ね合わせ、胴・袖の上方だけ白糸で、
それ以下を黒韋で縅(おど)しています。
胸板が広くなり、また盛り上がった小札や幅の狭い縅毛、獅子牡丹文の絵韋(えがわ)には室町期の特色がよく示されています。
兜以外は、完備しており現存する胴丸の中ではすぐれたものです。












【補足】

韋小札(かわこざね)
撓(いた)め革で作った鎧(よろい)の小札

大袖(おおそで)
鎧の綿上(わたがみ)に結び付け、上腕部に垂らして盾のかわりとした。

縅し(おどし)
鎧(よろい)の札(さね)を革や糸で
つづり合わせること。

草摺(くさずり)
鎧(よろい)の衡胴(かぶきどう)から垂らし、下腹部・大腿部を保護するもの。

獅子牡丹獅子の勇姿に花の王である牡丹を配した図柄。
絵韋(えがわ)文様を染めつけた革杏葉(ぎょうよう)鎧(よろい)の付属具の一。
染め革などで包んだり漆をかけたりした
鉄板



本足跡































































































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【祇園祭と八坂神社のお話】本


『ご存知ですか?祇園祭』

“祇園さん”として市民に親しまれ、
京都のシンボル的存在の八坂神社。
 
京都人でも八坂神社のお祭としての
『祇園祭』は知ってるけど、
八坂神社の由来まで知ってる人は少ないのでは? 




 最近“風水”という言葉をよく耳にしたり目にしますが。
その昔、平安京が造られる際に、
最強の風水の地として選ばれた場所が、
現在の京都盆地でした。

 実際に1000年間首都であったところは
世界の歴史を見ても例を見ない事であり、
あらゆる災厄から逃れるとされた場所であったからだと京都人は強く信じています。

 京都盆地は陰陽道(オンミョウドウ)による、
四神相応の地とされ、
東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四神に守られた場所とされ平安京が
造られました。

また、古来より大地のエネルギー「気」を
龍に見立て、「気」が集結されるところが
龍の棲む龍穴とされててきました。
龍穴は清らかな水で潤されていなければ
「気」が枯れるとされ、八坂神社は青々とした水をたたえる池に建てられており、
古来よりその池が龍穴とされています。
今も境内には名水があり、持ち帰る人も
少なくありません。







『八坂神社の歴史』

「八坂神社」は
素戔鳴尊(スサノオノミコト)、
櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、
八柱御子神(ヤハシラノミコカミ) を
祀っています。
古事記や日本書紀でも伝えられ、日本神話
で知られるように、素戔鳴尊は
八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、
櫛稲田姫命を救って地上に幸いをもたらした偉大な神様でありました。

八坂神社の歴史は、
平安京建都の約150年前ー斉明天皇二年
(656)に、
素戔鳴尊をこの地に祀ったことにはじまります。
のちに“神仏習合思想”により
素戔鳴尊は祇園精舎の守護神の牛頭天王と
一体視されました。

都の発展とともに日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3,000の分社が日本全国にあり、祇園祭りに習った祭事も行われています。

八坂神社はながらく「祇園社」、
「祇園感神院」などと呼ばれていましたが、神仏分離によって、
明治4年(1871)に「八坂神社」と改称されました。






『祇園祭のはじまり』 
  
古くは『祇園御霊会』と呼ばれ、
貞観11年(869)に京の都をはじめ
日本各地に疫病が流行しました。
「これは牛頭天王の祟りである」として、
平安京の広大な庭園であった神泉苑に、
当時の国数の66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、
さらに神輿をも送って、災厄の退散を祈りました。

後に経済的に力を持つようになっていった
町衆の台頭で次第に豪華な鉾が造られ規模
も大きくなり、現在の形になりました。

それ故、豪壮かつ華麗な祇園祭は歴史的にも古く規模としても壮大で知られ、
文化的価値が海外からも関心を持たれています。







『素戔鳴尊(スサノウノミコト)
と蘇民将来(ソミンショライ)』

『祇園祭り』の“ちまき”や
お祭に参加する人が必ず身に付けているものに“蘇民将来子孫也”
(ソミンショライの子孫なり)という文字が
書かれています。

これには伝説があります。






『蘇民将来伝説』

昔々一人の貧しい旅人が
巨旦将来(コタンショウライ)・
蘇民将来(ソミンショウライ)の兄弟に
一夜の宿を請いました。

兄の巨旦将来は富栄えていたのにもかかわらず拒否しましたが、
弟の蘇民将来はとても貧しかったのですが
、粟がらを敷き、粟の粥で暖かくもてなしました。

翌朝旅人は
「我はハヤスサノヲの神である。
後世に疫病が流行した時、蘇民将来の子孫
と名乗り“茅の輪”を腰につけていれば災厄
を免れる。」と約束して立ち去りました。

その旅人こそ、八坂神社の祭神 
“素戔鳴尊”だったのです。

後に疫病が流行ったとき、巨旦将来の子孫
は死に絶えましたが、
蘇民将来の子孫は
疫病を免れ代々繁栄したということです。

 この故事にちなんで『祇園祭り』の
疫病退散の印としてお祭で
“蘇民将来子孫也”と書いたものをの身に付けたり、
素戔鳴尊のご利益のお守りとされている
“茅の輪”が
始まりとされる“粽(ちまき)”のお守り
を家の玄関につけたりするのが慣わしです。








『祇園祭の行事と特徴』

 『祇園祭』は、
7月1日の『吉符入り』にはじまり、
31日の境内摂社の『疫神社夏越祓』で幕を
閉じるまで、1ヶ月にわたり各種神事・
行事がくり広げられます。

祇園祭のハイライトともいえる17日の
『山鉾巡行』では32基の山鉾が市内を
めぐります。
  
山鉾には、神功皇后や聖徳太子、役行者、
天神さま観音さま・・・・・ などが、
祀られるとともに、装飾の文様に日本神話
や中国の故事、儒教、仏教、道教の教え
なども取り入れるなど 国際性豊かな趣向
を凝らした飾りつけがなされています。

 鉾を飾るタペストリーには、
ホメロスの叙事詩『イーリアス』や、
『旧約聖書』のなかのアブラハムの子、
イサクの嫁選びの図をモチーフにしたものもあり、はるかなシルクロードの道を通って伝わった文化や宗教を感じさせてくれます。

世界のあらゆる神が、偉大なる祇園の神をたたえる姿とあらゆるものを包容し、
1つの祭りのなかに調和させているところに祇園祭の本質を見ることができます。




本足跡